繰り返し シャスティエ
「クリャースタ様、どうかご慈悲を……。私のためではありませんわ、ミーナ様は何もご存知なかったのですから。どうか私の命でお怒りを収めてくださいますよう……!」
――この女……!
殊勝な言葉とは裏腹に、エルジェーベトの昏い色の目は陶酔のような高揚のような不気味な輝きがあった。陶酔――そう、間違いなくこの女は勝利に酔いしれているのだろう。そしてシャスティエの胸に湧くのは、ひれ伏すエルジェーベトを見下ろす体勢とは裏腹に、言いようもなく苦い敗北感だった。
子宮が張り詰めて痛み、胎児が落ち着かなげに動く。それを宥めるように掌で撫でながら、シャスティエは唇を強く噛んだ。
この女を呼び出すまでもなく、彼女たちの敗けは明らかだった。確かな証拠だったはずの、ティゼンハロムの紋章の封を押された書簡は偽物だったと、当のティゼンハロム侯爵の証言によって明らかにされたのだ。王宮に保管されていた侯爵の書簡を検めれば、当然のことながら侯爵の指輪の印影と一致する紋章が残されていた。本来のティゼンハロムの紋章に変形を加えた、侯爵個人の紋が。
――封印を使い分けていたなんて!
無論、その事実は侯爵が無実であることを示すものではない。シャスティエだけでなく王も、誰もそのようなことは信じていないはずだ。表に出せる書簡と、出せないもの――決して侯爵本人の手によるものだと知られてはならないもの――で、慎重に、巧妙に印を使い分けていたのだろう。
しかし、この場でそれを言ったところで、それこそ証拠がないのだ。侯爵が長年かけて表向きの紋を使ってきたという実績を積み重ねてきた一方で、こちらの手元にあるのはそれらとは違う封印を施されたただ一通だけ。それだけが悪事に使われ、しかもそれを偽造したという真犯人が名乗り出ているのではいかにも分が悪い。
このように拙速に糾弾の場を設けるのではなく、書簡を精査していたならば事前に気付くことができていただろうか。その場合でも、どのように追求すれば侯爵が罪を認めるのか、シャスティエには考えも及ばないのだが。結局。侯爵は十分に言い逃れる公算があったからこそ証拠――に見えるもの――を残していたのだ。
主君の手腕を誇ってでもいるのだろうか、許しを乞うているくせにどこかふてぶてしいエルジェーベトの物言いが神経を逆撫でてならなかった。
――拷問して口を割らせる……?
固く凝る腹を庇いながら、ひどく残酷な考えが脳裏をよぎるほどに。バラージュ姉弟の証言と毒という証拠を信じれば、侯爵がこの件に関わっていることは間違いがない。この女がその全てを知っているであろうことも。
拘束して主からは引き離していたにも関わらず、迷わず全ての罪を被って見せた忠誠心の持ち主だ。簡単に事実を認めるとは思えないが――それでも、鍛えている訳でもないただの女に過ぎないはず。そのための技術を研鑽してきた獄吏によって責め立てられてもなお、嘘を貫くことができるだろうか。
王にそうと進言すれば、恐らく聞き届けられるだろう。それどころか、王自身がそれを考えていても、今にもそうと命じようとしていてもおかしくない。だが――
「シャスティエ様……」
ミーナの喘ぐような懇願の声を聞いて、シャスティエは瞑目した。心優しい王妃をこの場に同席させたのも、今となっては失敗だった。ティゼンハロム侯爵を追い詰める席になるだろう、という前提自体が誤りだったのだ。父の悪事の動かぬ証拠を直に見せれば、納得するとまではいかずとも諦めてくれるのではないかと思ったのに。
エルジェーベトの目が嬉しげに嗤っている理由が、シャスティエにはよく分かる。今、ここで窮地に立たされているのは、実は彼女の方なのだ。殴られて床に伏した惨めな姿で許しを乞うエルジェーベトは、ミーナの目にはいかにも哀れに映るはず。無言を貫くシャスティエは、一方で、悔い改めた者を弄ぶ冷酷な女に見えているのかもしれない。
――ああ……ミーナ様……!
はっきりと助けてくれと言わないのは、ことの重大さをミーナも分かっているからだろう。王の子を害そうとした大罪ならば死罪で当然、頭を下げたくらいで許されるはずがないのだ。そうと承知してなお、親しい侍女を死なせるには忍びないのだろう。この方はどこまでも優しくて甘くて――だからこそ傷つけてはならないと思うのに。
「――女ひとりを差し出して罪を逃れようというのか!? 主としてどのように責を負う気だ!?」
シャスティエの沈黙に焦れたのか、カーロイ・バラージュが声を荒げた。それも、非常にもっともなことではあるのだが。
「お前は何も言う必要はない。罪を計り罰を定めるのは俺の役目だ」
王も、シャスティエを庇うようにエルジェーベトとの間に割って入ってくれる。ティゼンハロム侯爵を入室させる前に語っていたように、シャスティエの身体を慮ってくれているのだろうか。だが、腕の中の妻の泣きそうな瞳には、王はまだ気付いていない。
――これは……良くない……。
王の心象としてはティゼンハロム侯爵は完全に黒幕なのだろうし、事実そうなのだろうとは思う。しかしミーナにとってはそうではないのだ。エルジェーベトについては自ら罪を認めたとしても、侯爵への疑いに関しては決め手に欠ける。その状況で侯爵に重い罰を下しては、王と王妃の絆に亀裂が入りかねないだろう。
だから、罰を下すのはできれば王でない方が良い。
「恐れながら、陛下――」
やむを得ず口を開くと、王の咎める目とミーナの縋る目が同時に刺さった。いずれも何を言い出すのかと問うてきている。いや、間近なふたりだけではない。ティゼンハロム侯爵も、エルジェーベトも、バラージュ姉弟も。彼女の言葉に注目している。傍らに守ってくれているグニェーフ伯の身体にも力が入り、不足の事態にも備えてくれているのが分かった。
「私からも、寛大なご処置を……どうかお願い申し上げます……!」
言い切った瞬間に、不平や不満、驚きや怒りの声が方々から上がった。特にはっきりと聞こえたのは、最も近くにいたミーナと王のそれだ。
「シャスティエ様……!」
「何をバカな……!」
――分かっているわ……!
狙われたのは彼女自身でもあり、彼女と王の子でもある。それだけでなく、ティゼンハロム侯爵は王の治世を妨げ、ミーナを無知に貶めて良いように操ろうとしている者でもある。
シャスティエは王の身体越しにティゼンハロム侯爵を睨んだ。既に窮地は去ったと見ているのだろう、口元には薄らと笑みさえ浮かべて高みの見物の構えだ。この老人は、シャスティエにとっても王にとっても――ミーナにとっても害になる。できることなら一刻も早く追い落としたい思いは、悔しくはあるが王と同じだ。
「ティゼンハロム侯爵様は陛下の第一の臣下でいらっしゃいます。このような小物の為したことで罰を被るなど、イシュテンにとっても損失でございましょう。陛下も――王妃様も。望まれることではないかと存じます」
だが、ティゼンハロム侯爵は重臣なのだ。不確かな証拠を根拠として裁くにはあまりにもその権力は強大なのではないだろうか。処分を不服としてあからさまに王に背くようなことにでもなれば、ティグリス王子の乱を鎮圧したばかりのこの国は耐えられるのだろうか。
「…………」
シャスティエが無言のうちに投げた問いは、正しく王に届いたらしい。不快げに寄せられた眉と、苛立たしげに結ばれた口元がそれを物語る。この国の内情は、誰よりもこの男が知っているのだろうから当然だ。
さらにちらりとミーナに目を落としたのを見れば、侯爵が王妃の父であることも思い出してくれたのだろう。
「クリャースタ様! 何を仰いますか!?」
「良い。これの言うことも一理ある」
信じられない、といった表情で声を上げたカーロイを制したのも、王が落としどころを考え始めたからのはずだ。結果的には、重臣を疑っておきながら確かな根拠はなかったということになってしまった。エルジェーベトはともかく、侯爵に対する罰には手心を加えなければならないのだろう。
――また、同じね……。
シャスティエの脳裏に苦々しく蘇るのは、人質としてイシュテンに連れてこられたばかりの時のこと。ティゼンハロム侯爵主催の狩りで、人の姿をした獣どもに追い回された時のことだ。
王が神に懸けて守ると誓った人質を害そうとした、その責に問われようとしたあの時も、ティゼンハロム侯爵は一族の若者たちを差し出して自身は上手く罪を逃れた。彼らの暴走を許した無能であると認めたことは、屈辱ではあったのだろうけれど。でも、それを言うならば、権威を汚されて引き下がらずを得なかった王の方こそ煮え滾るような想いを堪えていることだろう。
今もまた、同じ構図が繰り返されようとしている。シャスティエが脅かされたのも、同じ。理不尽さに憤りと悔しさを覚えつつ、彼女にできるのはほんのささやかな意趣返しくらいだった。
「もちろん、侯爵様も無用の疑いを招くのは好まれないかと存じます。ですから、その者への罰は侯爵様にお任せするというのはいかがでございましょう? 女だから、王妃様への忠誠が篤いからと生ぬるいことはなさらないと思いますが――陛下への忠誠を証すためにも、きっと」
「……ふん」
相当に差し出がましい進言のはずだったが、王は咎めなかった。恐らく、シャスティエが言わんとすることを察してくれたのだろう。
その上で次の言葉を発するまでに数呼吸の時間が空いたのは、多分怒りを呑み込むためだ。例の狩りの時とよく似た様子だから分かりやすい。できることなら、この場で侯爵の首を刎ねたいとでも思っているに違いない。
「確かにこのようなことで忠臣を失うのはあまりに惜しい――」
子を害されようとした事実をこのような、のひと言にまとめなければならない屈辱はいかばかりなのだろう。王は怒りを隠そうともしておらず、地を這うような低い声は抜き見の刃のような剣呑さを備えていた。きっと目の鋭さも同様なのだろう。それらを向けられたティゼンハロム侯爵もわずかに眉を寄せ、王の顔は見えないはずのミーナでさえも怯えたように身体を震わせていた。
――ミーナ様まで怖がらせてどうするのよ……!
「ティグリスを排したとはいえ、この隙につけこもうとする者がいないとも限らない。そのようなことがないように――舅殿、正しく罪を裁き、身を謹んでくれるな……?」
「…………」
ともあれ、王の気迫の前に悔しげに沈黙するのは、今度はティゼンハロム侯爵の方だった。
狡猾なこの老人のことだから、王と――シャスティエの、ふたつの意図には気付いただろう。
ひとつは、エルジェーベトを罰する役目を押し付けるということ。無論、ミーナだとて王が命じたことだと気付かないはずはないけれど。でも、少なくとも親しい者を直接手にかけさせることで、父である侯爵に疑いを持ってくれれば良い。
さらにもうひとつは、自ら罰を決めさせることで、ティゼンハロム侯爵の行動を制限すること。大逆者を身内から出した以上は、更なる疑いを招かぬためにも公正に振舞え、と。このように言われれば、自らの罪を甘く見積もることなどできはしまい。侯爵は、王自らが下すであろうものより重い罰を言わざるを得なくなるのだ。
――ああ、何て悪辣な……!
敵に一矢報いても、シャスティエの胸にあるのは苦い思いばかり。胎の子が騒ぐのも、母の性根を責めているように思えてならない。
これは、正義を求めてのことではないから。ミーナに嫌われないようにと願う一方で、その父を追い詰め、辛い現実を突き付けようとしているのだ。それも、自分の手は汚さないで。ミーナに対しては気の毒そうな顔を保ったままで。
その計算高さ腹黒さに、我ながら胸が悪くなる。剣によらない戦いとは、このように相手を陥れることに終始するしかないのだろうか。シャスティエにとっては、言葉によって理を通すことこそ知性ある人間のあり方なのに。これも全て、復讐など企んだからだというのだろうか。野蛮な殺し合いの方が、裏がない分まだマシだと思える日が来るとは思ってもみなかった。
「……この者は臣が責任を持って罰を下しましょう。その証も、必ず陛下にご覧に入れます」
「お父様……!」
「そしてこのような不心得者を出したのは確かに臣の咎にございます。陛下にもクリャースタ・メーシェ様にも二心がないことの証として、御子の無事なご誕生まで、領地にて蟄居することと致します。無論、謀を巡らせているなどとの疑いを招かぬためにも、客を招き入れるようなこともございません」
娘の悲鳴を余所に、ティゼンハロム侯爵は淡々と述べた。これもあの狩りの際に見覚えがある表情だった。感情を呑んで建前を通すことにかけては、この老人は王より何枚も上手なのだろう。
――とりあえずは、諦めるということね……。
カーロイ・バラージュは不満げな表情を隠していないし、王の内心もそうなのだろう。反逆など考えないのが当たり前、手を出さないと改めて宣言したところで何も誇ることではないのだから。
だが、それでも。シャスティエと子の安全は――少なくとも誕生までは――確保された。それに――
「ならば新年に関わる儀礼の采配は他の者に任せねばならぬな」
「ご随意に……」
ティゼンハロム侯爵の権威にも確実に傷がついた。下手な動きを見せれば謹慎の意味がないのだから、当面の間は侯爵を政から遠ざけておけるはず。その穴を埋めるのは、王が信頼できる者たちなのだろう。願わくは、グニェーフ伯もその中に入れてもらえれば良いのだが。
思い描いていた勝利には程遠いとはいえ、侯爵の力を削ぐことにはある程度成功できた。……そうとでも思わなければ、これほどにミーナを傷つけた意味がなくなってしまう。
――ミーナ様……。
この場での話はとりあえず終わり、詳細は男たちの間で詰められるのだろう。ティゼンハロム侯爵は退出する構えを見せ、エルジェーベトも共に引き立てられようとしている。そして、ミーナは。青ざめた表情で侍女の姿を見送っていた。
正直に言えば、この席の最大の功績はミーナの傍からこの女を引き剥がすことができたこと、だと思う。ミーナに誰よりも忠実であるがゆえに、ミーナを全てから遠ざけてきたのは、実際にはこの女なのだろうから。
しかし、ミーナがそれに気付くのはまだ先だろう。いや、気付いてもらうことなどできるのだろうか。ミーナにとってのエルジェーベトは、多分シャスティエにとってのイリーナのようなもの。そのような存在を奪われたことを、冷静に考えることなどできるだろうか。
「陛下、どうかミーナ様についていらしてくださいませ。私は――ひとりで大丈夫ですから」
ミーナの心中を思って胸を痛めつつ――シャスティエは早口に告げた。王がこちらを見て何か言いそうにしていたから、遮るように。
「だが」
「大丈夫ですから。本当に。どうか――」
正確に言うならば、ひとりにして欲しかった。
シャスティエは、今この場でミーナの平和で穏やかな世界に決定的な罅を入れてしまったのだ。好んでしたことではないけれど、でも彼女は確実に元凶なのだ。この上夫まで奪うことなどできはしない。
「……分かった」
だから王が頷いてくれたのはせめてもの救いだった。
――これで良い……。
王はミーナの夫で、ミーナは王の妻なのだ。そこに割って入るのは、シャスティエの望みからもっとも遠いことだった。