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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
13. 揺らぐ絆
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敗北の中の勝利 エルジェーベト

 侮っているのか興味がないのか、「あの女」はエルジェーベトを拘束しても痛めつけることはしなかった。とはいえ身体の痛みを免れても安堵などなく、怒りと屈辱と心の痛みに苛まれるだけだったが。


 薄暗い室内でただ座っていることしかできず、無為に時間だけが過ぎていく。そんな中で目蓋の裏に浮かぶのは、憎たらしい金の髪と碧い瞳。暗がりの中ではあの眩すぎる色彩が目を射るようにさえ思える。


 ――あの娼婦……! 売女……!


 心中で罵ってもあの女に届くことはないのが、悔しくてならなかった。ミーナが駆け去った後、青い顔をしていたのも白々しい。欠片でも他人の夫を寝取った罪の意識を感じているのなら、自らその証を、醜く膨れた腹を始末すれば良いものを。あの女は、殊勝な振りで、結局ミーナの優しさにつけ込み赦しを期待しているに違いない。


 ――ミーナ様は……一体今何を……。


 何の情報も与えられないまま、既にひと晩が過ぎている。エルジェーベトが閉じ込められた部屋の外からは何かざわついたような気配がするような気もするが、何事か起きているかは分からない。

 ミーナを泣かせた報いにあの女の子が流れたのであれば良い、と願ってやまない。しかし、よりありそうなのは全く別の事態、彼女にとってもミーナにとっても歓迎できないことだった。


 ミーナが――王の正妻、イシュテンの王妃が、側妃の懐妊を知らなかった原因、その影で巡らされていた計画の追求だ。


『その女も――貴重な証人でございましょう!?』


 証人。あの女に従う老いぼれは確かにそう言った。怒りのあまり、エルジェーベトは口を滑らせてしまったのだろうか。側妃とその子への害意を言葉に出してしまったのを、聞き咎められてしまったのか。

 いや、エシュテルという娘が裏切っていたならば、元より計画は全て知られていたのだろう。王は当然怒るだろうし、関わった者にはこれから厳しい罰が与えられるはずだ。


 エルジェーベトは膝の上に置いた手を固く握った。


 側妃の子――王の子を狙ったとなれば大罪だ。それは十分に認識していたし、ミーナのためならば命も惜しくはないと思っていた。その想いは今も変わりはない。だが、失敗した上に彼女が罪を得て死んだなら、この先誰がミーナを守るのだろう。侯爵家に仕える者は多いが、その大半は権力に集る羽虫でしかない。心から侯爵家に忠誠を誓う者はどれほどいるか。そもそも罪は侯爵家にも及ぶだろうか。リカードは小娘(エシュテル)にまたとない証拠を渡してしまっているが。


 ――あの書簡……やはり過ちだった……!


 自身の直感が間違っていなかったことを今になって知って、エルジェーベトは唇を噛む。


 ミーナがあれほどに無邪気でいられたのは、ティゼンハロム侯爵家の力があってこそ。リカードを始め、侯爵家の家臣が揃って守り育んできたからこそだ。ミーナがあの寡妃太后(かひたいこう)を初めとする他の有力な諸侯や、我が娘を王妃や側妃にせんとする勢力の敵意を知らずに過ごすことができていたのもそのためだ。


 もしもティゼンハロム侯爵家が没落したら。あの傲慢で無神経な王と小賢しい側妃が王宮で権力を握るのだろうか。そんな場所で、ミーナは、マリカは無事に過ごすことができるのだろうか。リカードの後ろ盾がなければ、あの方たちは身を守るどころか敵を見分けることすらできないだろう。


 ――侯爵家に累を及ぼしてはならない……!


 固く握った指先が、掌に食い込む。ぬるりとした感触があるのは、皮膚を破って血が流れたのだろうか。だが、血のひと雫くらい何ほどのこともない。ミーナのためならば、全身の血も、命さえも捧げてみせよう。

 ミーナのためにも、今回の件は全てエルジェーベトの独断であったということにしなければならないのだ。


 ひとりきり、既に罪人のように囚われて。エルジェーベトは悲愴な決意を固めていた。




 部屋の扉が開いたのは、掌の傷が乾いて瘡蓋(かさぶた)になった頃だった。室内に影を落としたのは、色の薄い目の兵士だった。恐らくあの老いぼれの私兵だろう。


「――何なの」

「陛下のお召しだ。来い」


 ――陛下! イシュテンの臣下でもないくせに……!


 短いひと言であってもミリアールトの者の訛りは明らかで、エルジェーベトの神経を逆撫でた。あの女に関わるものは全て、彼女の苛立ちと憎しみの対象なのだ。


「拷問でもするのかしら。それとも犯すの?」

「黙れ」


 ミリアールトの兵は皮肉をまぶした言葉にも顔色ひとつ変えなかった。あるいは上手く聞き取れなかったのかもしれない。露骨に卑俗な単語を口にしたというのに、彼女の腕を掴む手にはいささかも動揺がないようだったから。


 そうして引き出されたのは、一際大きな一室だった。離宮の中心部にある――本来であれば、女主人が茶会でも催すための部屋だろうか。

 王に、側妃。バラージュ姉弟。更にはリカードも呼び出されているのを見てとって、エルジェーベトは先ほどの予想が当たっているのを悟った。側妃の子を狙った企みを糾弾する場が設けられているのだろう。


 だが、そんなことはどうでも良い。彼女の頭に真っ先に浮かんだのは――


 ――なんでミーナ様がいるのよ!


 その一事だった。


 彼女自身のことならば、何をされても良い。主のために全ての罪を被って命を差し出す覚悟を固めたばかりでもある。だが、ミーナは。このような場に居合わせて良い方ではない。ひどく青ざめた顔色で王に縋っているのが気がかりでならなかった。王や側妃は、既にリカードを問い詰めたのだろうか。優しいミーナは、愛する父が責め立てられるのを見てさぞや心を痛めただろう。


「エルジー……」


 今にも倒れそうな表情で、それでも彼女を呼んでくれた声の弱々しさもエルジェーベトの胸を締め付けた。恐らくエルジェーベトも疑われていると聞かされているのだろうに、ミーナの声には気遣う色が聞き違えようもなくあった。この方は、まだエルジェーベトを慕ってくれているのだ。


「ミーナ様――っ!」


 立場も状況も忘れて駆け寄ろうとして――しかしそれが許されるはずもない。


「貴様には確かめたいことがある」


 腕は掴まれたままで前に進むことはできず、つんのめったところに浴びせられるのは王の冷ややかな声。


「その娘に、ティゼンハロム侯爵家の紋章の書簡を渡したな?」

「――はい」


 ミーナを支えながらその父を糾弾し、その構図に何ら疑問を持っていない様子の王の姿には虫唾が走る。だが、昨日のように怒りに我を忘れてはならない。側妃を害するように目論んだのは、エルジェーベトだけ。リカードもミーナも、決して巻き込まぬように。悄然として、罪を認めたということにしなければ。


 次は、リカードの命かどうかを質されるのだろうが――たとえ拷問されようとも決して真実を述べてはならない。


「それはこのうちのどれか、分かるか」

「は……?」


 決意も新たに身構えたところへ投げられた問いは、しかし、思いもよらないものだった。


 思わず顔を上げれば、本来ならば花や茶菓で彩られているであろう丸い卓に、幾通かの書簡が並べられていた。いずれもティゼンハロムの太陽の紋章で封をされたもの。封筒の質や色味、大きさなど、エルジェーベトがエシュテルに渡したものとよく似ている。というか、ティゼンハロム邸が作らせて用いるものだから当然だ。


 だが、なぜこのような謎かけをされるのかは分からない。


「見分けられないのか……」


 戸惑いながらそれぞれの書簡の違いを見つけようと目を細め、更に問われたことの裏を探ろうとする。と、耳に小さな呟きが届いた。その若い声は、カーロイ・バラージュのものだろうか。少年の声に滲むのは、驚きと……恐怖、失望、あるいは絶望といったところだろうか。いずれだろうと、その強い負の感情の意味も図りがたい。


 部屋中をぐるりと見渡してみても、誰もがカーロイの声と同じような感情を表情にのぼらせていた。王も側妃も、その傍らに控える老いぼれも。エシュテル――カーロイの生意気な姉も、皆。寄せられた眉や固く結ばれた口元が、この者たちにとって何か不都合なことが起きているのだと伝えてくる。


「そなたが分からぬのも無理はない」


 ただ、リカードだけが笑っていた。嬉しそうに愉しそうに。それを喜んで良いものか、彼女に求められた振る舞いは何なのか。エルジェーベトはまだ掴めていなかった。


「ティゼンハロムの紋章といえば十三の光条を放つ太陽。幼子でも知っていることゆえに、儂が使う印もそうだと信じ込んでも無理はない」


 言いながら、リカードは卓へと歩み寄り、並べられた書簡を撫でるように示した。


「これらは、王宮に保管されていたもの。確かに儂が(したた)め儂が封をしたものだ。――ただ一つを除いて」


 ゆっくりと、堂々と語るリカードはまるで役者のようだった。場の全員の注目を集めながら何ら臆することなく、書簡の一つを摘まみ上げる。それもまた、エルジェーベトの目には他のものと同じに見えたのだが。


「この指輪の印影通り、儂が用いる太陽の紋は十二の光を放つもの。父祖の栄誉に並ぶなど身に余る不遜だからな。通常通りの十三の紋で封をされていたのは、()()()()()()()()この一通だけだ」


 つきつけるように、目の前に書面が広げられる。その内容は、エルジェーベトも見たことがあるもの。命に従えばティゼンハロムの庇護を与えてやろう、というもの。エシュテルに渡したものに相違ない。だが――


 ――紋章が、違う!?


 エルジェーベトは目を瞠って、喘いだ。どちらが違う、と言えば良いのだろうか。ティゼンハロムの紋章は十三の光条の太陽。それは明らかな事実だ。しかしリカードが個人的に使う紋章は意匠を変えているのだという。名家の当主が身につける指輪――エルジェーベトの肌を這ったこともある冷たく柔らかな金属、そこに刻まれた紋章、それと合致する封印こそ、信を置かれるべき証、なのだろうか。


 エルジェーベトが事態を理解しようと頭を巡らせる間にも、リカードの()()は続いている。


「娘への忠誠が篤いからと、女ながらに屋敷の中でも自由を許していたが――それを()()して罪を犯し、この儂の顔に泥を塗るとは! 飼い犬に手を噛まれるとはこのことだな!」

「きゃあっ!」


 叫ぶと同時にリカードはエルジェーベトの頬を薙ぐように殴りつけた。腕を掴んでいた兵もたまらず手を離し、彼女は床に叩きつけられる。ミーナが小さく悲鳴を上げるのが耳に届いた。室内の空気が動いたのは、兵どもがあの女を庇って動いたのだろうか。


 ……だが、己の体面を汚した者へ怒りを表したにしては、リカードが随分と優しいことに気付いた者はどれだけいるだろうか。この老人が本気で怒ったならば、王の御前だろうと関係なく、全身の骨が砕けるまでうちのめし、絶命にいたらしめていたことだろう。


 だから、これは大掛かりな芝居に過ぎないのだ。使用人が()()()為した大罪を、主が告発し咎めるという筋書きなのだ。殴られた割に、冷静に考えられる余裕があるのが何よりの証拠だ。


 ――なるほど。こういうことね。


 痛みを堪えて身体を丸める振りで、顔を影に隠しながら。それでも人目にはつかないように、エルジェーベトは口の端だけで嗤った。エシュテルへの書簡を用意した際のリカードの余裕に納得がいったのだ。この老人は、最初からいざという時にはエルジェーベトに全ての罪を押し付けるつもりだった。彼女の覚悟など何の関わりもなく、言い逃れる算段を立てていたのだ。


 切り捨てられたことに、一抹の胸の痛みはある。しかしそれ以上に喜びが勝る。リカードの智謀は王や側妃の上を行っているのだ。この方が健在である限り、エルジェーベトがいなくてもミーナは守られ続けるだろう。


 ならば、もはや彼女がなすべきことはひとつ。


「――お許し下さい!」


 わざとらしいほどに、高く。悲鳴のような声を上げる。罪を暴かれて怯え慄いた風を装うのだ。


「大罪とは承知しておりましたが――陛下もご不在の間のこと、ミーナ様やマリカ様のこれからを考えると気が狂いそうで――ああ、でも何て恐ろしいことを!」


 王が絆されることなど端から期待していない。だから、床を這うようにして近づくのはまた別の相手だ。


「全て私のしたこと。侯爵様もミーナ様もご存知のないことです。ですから罰は全て私だけに……!」


 泣き声に似せた叫びは、きっとミーナの心を動かすだろう。とても優しい方だから、自分のために罪を犯したのだと言われて後ろめたく思わないはずがない。エルジェーベトへの情がまだ残っているのも、先ほど確認できている。


 けれど訴えるのはミーナでもない。床に手足をついた姿で見上げるのは、流れる絹の衣装。相手の顔は、膨らんだ腹が邪魔で見えづらい。この女に跪くのは、かつてならば屈辱だっただろうけれど、今となっては昏い喜びがある。


「どのような罰でも心して受けます! どのようなことでも、クリャースタ様の良いように……」


 側妃に罪人の生殺与奪の権限があるはずもない。だからこのように縋るのは全くの無駄だ。どのように泣き叫んで許しを乞おうと、エルジェーベトは死を賜る。それはほぼ決まった未来だ。だが、それこそが彼女の目的だ。

 泣いて縋るエルジェーベトを、この女は許さなかった。その場を、ミーナに見せつけるのだ。何を考えたのか、王がミーナを臨席させた事態を逆手に取るのだ。

 彼女はミーナの傍から去らなければならないから。だから、愛する主に最後の教訓を遺さなくては。


 この女はミーナの敵。冷酷で無慈悲な氷の女。跪く者の懇願を無碍にする傲慢な姿を見て、ミーナの目を覚まさせなくては。


 ――さあ、私に死ねと言いなさい。ミーナ様の前で!


 エルジェーベトの策は破れ、リカードにも切り捨てられた。しかし彼女の心はまだ折れておらず誇らかだった。

 側妃に許さないと言わせ、それによって死を得ること。今度こそ、ミーナにこの女を憎ませること。それこそが、彼女の勝利だった。

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