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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
13. 揺らぐ絆
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十三の紋章 ウィルヘルミナ

「――この書簡は、儂から()()受け取ったというのか?」


 父のような人の声がウィルヘルミナの耳に刺さり頭を揺らす。姿は確かに父なのに、口元に笑みすら浮かべているのに、いつもの優しさが全く感じられなくて怖いのだ。だから、全く別の人のように見えてしまう。


 ――ファルカス様……。


 夫に縋っても、恐怖は去ってくれない。これも、いつもならあり得ないことだった。


 理由は彼女にも分かっている。夫も、普段と全く違う表情を浮かべているから。そのふたりだけでなく、シャスティエも、ウィルヘルミナが会ったことのない人たちも、そうだ。誰もが張り詰めた顔をしていて、刺すような緊張感が痛いほど。

 それに、夫がついてくれているのが彼女で良いのかも分からない。身重なことに加えて、話の流れからもシャスティエこそ誰よりも守られるべきではないのだろうか。でも、ウィルヘルミナにはそうと言い出すことはできない。周囲の緊張が彼女の喉を押し潰し舌も固めてしまっているようだった。何より自ら夫を突き放すことなどできそうにない。


「いえ……」


 硬い表情で、見覚えがあるような気もする若い女は首を振った。この娘の父は、夫によって死を命じられたと、つい先ほど聞かされた。しかもそれには彼女の父も関係していたらしい、とも。父も夫も敵と戦うことがあるのは――ただ待つしかできない身の辛さと共に――よく知っている。でも、なぜイシュテンの貴族、夫に仕えるはずの者が夫によって死を賜ることがあるのだろう。


 ――太后様……それに、イルレシュ伯爵様……。


 かつてウィルヘルミナを怯えさせ、後に二度と姿を見ることがなくなった人たちがいる。その人たちに何があったか誰も決して教えてくれなかったし、彼女もあえて聞こうとはしなかった。ただ、多分とても恐ろしいことがあったのだろうとだけは分かっている。女の父についても同じなのだろうし、今回もそうだ。毒だとか殺すだとか。とても怖いことが、とても親しい人たちの間で起きているのだ。


「では、何者からだ」


 間近にいる夫も、肌を触れ合わせてはいてもどこか遠い。腕の力の入り方がいつもと違うからだろうか。筋肉が硬く強ばって、夫の緊張を伝えてきて。それが一層ウィルヘルミナの不安を掻き立てるのだ。


 ――エルジーがいてくれたら……。


 父と夫がいない時、常に支えてくれていた乳姉妹のことを強く思う。エルジェーベトの柔らかい身体なら、今縋っても優しく受け止めてくれるだろうか。その彼女も昨夜帰らなかった。夫は理由を教えてくれたけれど、それはとても受け入れられない、信じられないもので――


「それは」


 夫に問われた娘が、ウィルヘルミナの方をちらりと見た。なぜか同情するような目で。そして言いづらそうに口ごもって彼女に嫌な予感を覚えさせる。


 ――嫌。言わないで。


 しかしもちろん彼女の願いが叶えられることはないのだ。何も知らず、何もできない。ここではウィルヘルミナはもっとも取るに足らない者なのだから。


「王妃様の侍女の――エルジェーベトという女からでございます」


 だから、その娘は次の瞬間にははっきりと述べてウィルヘルミナを絶望の淵に叩き落とした。




 昨夜、夫が再び訪れてくれた時、ウィルヘルミナは素直に喜ぶことができなかった。


『なぜ……シャスティエ様は……?』

『あの者はお前についてやれと言っていた』

『そんな、いけません』


 シャスティエは懐妊中で、しかも夫とは長く会っていないはず。彼女などに構うよりも、夫はあの方といたいはずだと思ったのだ。


『お前に話さねばならぬことがある』


 だが、夫は首を振るとウィルヘルミナの手を握った。


『話……』


 何か大事なことなのだ、と悟ってウィルヘルミナの心臓は締め付けられるように痛んだ。いつもならうっとりと見つめる夫の青灰の目が、彼女を貫くようだった。

 多分、これこそが彼女の望んできたこと。夫が直面している事態に共に臨めるということ。自分にもできたら良い、と。この数ヵ月苦しいほどに願ってきたというのに、いざその時を迎えてみると、震えるほどの恐怖と心もとなさしか感じなかった。


『お前はなぜ側妃の懐妊を知らなかった?』

『なぜ、って……』


 結局、彼女は物分かりの悪い無知な女に過ぎないから。夫が言わんとしていることを呑み込めず、ただ鸚鵡のように言われた言葉を繰り返すしかできないから。


 ――ファルカス様、きっと失望なさっているわ……。


 シャスティエならばこのようなことはないのだろう。賢いあの方なら、夫の言葉をすぐに呑み込んで、更に役に立つ進言もできるだろうに。


『第一の咎は、きちんと伝えなかった俺にある。しかし、黙っていた者が他にもいるのだ』

『他に……どなたが……』


 夫の辛抱強さが、ウィルヘルミナには信じがたいほどだった。自分でも嫌になるくらいの愚かしい受け答えだというのに。握った手に力を込めて、よりゆっくりと、噛んで含めるようにしてくれるなんて。


『お前の父だ。そして当然お前に仕える者でティゼンハロム侯爵家に縁の者どもも。知った上で、お前には黙っていたのだ』

『そんな。なぜ……』

『お前が傷つくことのないように』

『だって。いつまでも黙っているなんて無理ではありませんか!』


 夫の忍耐に感謝しつつ、それでもウィルヘルミナはさっぱり理解できなかった。どう考えても、彼女にとってさえ、おかしなことだとしか思えなかった。

 事実、ウィルヘルミナはシャスティエを見舞った。美しく賢い友人に、ずっと会いたいと思っていたから。会えば腹の膨らみは明らかだったし、何より――


『赤ちゃんだって。もうすぐ生まれるのでしょう? そうしたら――』


 あの膨らみ具合からすれば、春か、初夏頃になるだろうか。自身の経験と重ねると、その時の娘の重さや胎動の愛しさが蘇った。同時に、今それを感じているのが自分ではない女だということが苦しくて。ウィルヘルミナは言葉を失った。


『生まれていなければ、どうだった?』

『え……』


 ――何を仰っているのかしら……。


 赤子が生まれない、など。どうしてそのように不吉なことを言うのだろう。例え万に一つの可能性としても言ってはならないことのはずなのに。

 ただ弱々しく首を振ったウィルヘルミナを、夫は抱き寄せた。これも、安堵よりは不安を呼ぶ。夫は愛しさの表現として妻を抱いているのではなく、ただ宥めようとしているだけなのだ。


『お前が知らぬ間に側妃の子を亡き者にしようとしていた者がいる』

『そんな――』

『証拠と証人があるのだ』

『一体、誰が』


 夫が疑っているのか誰なのか、もはやウィルヘルミナにさえ分かっていた。でも、自分の口からそうと言うことはどうしてもできなかった。


『お前の、父。ティゼンハロム侯爵に命じられたとの証言がある』

『ああ……!』


 だからといって夫の口から告げられるのもまた彼女を打ちのめした。夫の疑いを知らされるのも、その対象が実の父だということも。

 彼女も状況の不自然さは察していたのだ。信頼する乳姉妹の、側妃の離宮での言動は確かにおかしかった。


 ――エルジーも知っていた……それならお父様も……。


 シャスティエの懐妊を知った上で彼女に黙っていた理由も、ウィルヘルミナでは、穏当なものは考えつけない。夫が告げたことならば、理が適っているようにも思えるけれど、でも、もし本当ならあまりにもひどい、残酷なことだった。


『まだそうと決まった訳ではない。だが、疑いがあるからには質さねばならぬ。お前にもその場にいて欲しい。そして、真偽をお前にも見て聞いて、判じてもらいたい』

『そんなこと――』


 無理です、と紡ごうとした唇は、夫の真剣な眼差しによって縫い止められた。


『無理強いはしない』


 夫の口調はいっそ優しく、青灰の目には憐れみが満ちていて。気遣われているのがよく分かった。痛いほど、切ないほどに。ウィルヘルミナの弱さと愚かさがそうさせていたのだ。


『しかしお前が来なくともやらねばならぬ。後から聞かされるだけよりは、その場にいた方が納得できるのではないかと思った』


 ――そんな。そんなこと……。


 嫌だ、と言いたくて堪らなかった。けれど、夫がここまで真摯に話してくれたのはいまだかつてなかったことだ。それに、ウィルヘルミナは知らないところで何事かが起きる不安を知ったばかり。また同じように大事なことから遠ざけられるのは耐えられないと思った。

 でも、だからといって夫が父を糾弾する場に居合わせるのも思いもよらない。


『私……私は……』


 ――ああ……行くのと行かないのと、どちらがより恐ろしいの……!?


 答えは、彼女にももう見えていた。けれど恐怖が彼女を縛り、喉を塞いでしまっていた。

 だから、ウィルヘルミナが頷くまでに、かなりの時間を要してしまったのだった。




「だが、貴様があの女に命じたのだろう!? 自身の手跡だと、今認めただろう!」


 ――怖い……。


 過去に思いを馳せていたウィルヘルミナは、片腕の青年が怒鳴ったので我に返り――身体を縮めた。果たしてこの場に来たのは本当に正しかったのかどうか。先ほどから彼女は自身の選択を後悔してばかりだった。


「確かに。だが、その程度の文面が何だと言うのだ? 畏れ多くもクリャースタ様の御子を害せよとでも書いてあるのか?」


 だが彼女にとって何より理解しがたいのは、夫の険しい顔や青年の怒鳴り声ではない。父の平静さだった。厳しく追求されているはずなのに、落ち着いた声で対応している父は、どう考えてもおかしかった。


 ――お父様……どうして……?


 父にはもっと狼狽えて欲しかった。思いもよらない、身に覚えのない疑いであって欲しかった。濡れ衣を着せられるのも悲しく恐ろしいことではあるけれど、それなら彼女も父を信じていることができる。

 でも、父は今糾弾されるどころか堂々と反論し、青年を追い詰めてさえいる。……まるで用意してきたかのように。


「だが、毒と併せれば……!」

「そのようなもの、どこででも手に入る! 儂を陥れようというには足りぬ!」


 悔しげに唇を噛んだ青年に加勢するように、夫が口を挟む。


「では何を命じたというのだ? それに封印はどのように説明する? ティゼンハロムの紋章を帯びた書が、貴様の意によるものではないと?」


 夫が父を貴様、と呼んだのもウィルヘルミナにとっては大地が揺らぐような衝撃だった。たまにうるさがるような素振りを見せることもあるけれど、夫も父を敬い立ててくれていたのに。


「まさしく」


 父は、でも、娘のような動揺は全く見せなかった。それどころか、よくぞ聞いてくれたとでも言いたげな満面の笑みで頷いて、ウィルヘルミナに息を呑ませる。


「まず、この書面。臣の手によるものではございますが、この者どもに宛てたものではございません。家臣か役人、出入りの商人――とにかくそのような者に口を利いてやろうとしたためて反故にしたものでございましょう。そのようなこと……よくあることとお分かりになってくださいますな?」

「……それを拾ってそなたの命であるかのように見せ掛けた、と?」


 夫にしがみついた体勢からは、その表情を窺うことはできない。でも、その声にははっきりと不信が満ちていた。ウィルヘルミナにもその気持ちはよく分かる。青年や娘の声も表情も嘘を吐いているようには見えなかったから。でも、父の言うことももっともらしくも聞こえる……ような気がする。


 それなら嘘を吐いているのは誰なのだろう。何が真実なのだろう。そして嘘の目的は、一体。


「家の者の不心得、まことにお恥ずかしいことではございますが。例の侍女は娘への忠誠が行き過ぎているところがございます。クリャースタ様のご懐妊の報を聞いて居ても立ってもいられなくなった、と……ある得ることとは存じます」


 ――お父様! 何てことを……!


 父はエルジェーベトに罪を押し付けようとしているのだ。それとも本気でそうだと思っているのだろうか。それでも、そうだとしても、こんなに平然と忠実な侍女を告発するなんて。

 ウィルヘルミナが喘いだのと同時に、夫も青年も口々に声を上げる。父が非難されること、それも無理もないと思えてしまうこと、いずれもこの上なく辛く、彼女の胸を苛んだ。


「印璽さえも勝手に使用したと? 侍女風情が? 本気で言っているならば何と杜撰な……!」

「ならばティゼンハロム侯爵家の紋章は今後一切信用ならぬな。家名を貶めてまで保身を図るか」


 青年の荒げた声も、夫の冷たくも鋭い声も。彼女に浴びせられたものだとしたらウィルヘルミナには耐えられなかっただろう。彼らは完全に父の罪を確信しているようだった。父は罪人として裁かれるのだろうか。否、その前に――父はシャスティエの子を……夫が言うように、しようとしていたのだろうか。


 ウィルヘルミナは一層夫に強くしがみついた。シャスティエがどのような顔をしているか、見るのが恐ろしかったのだ。シャスティエのことを友人だと思っていたし、先ほども優しい言葉をかけてくれたけれど。子供の命を狙われて、それをした者の娘を許してくれることなどあるだろうか。


「仰る通りでございます」


 シャスティエから逸した視線の先で、父はまだ笑っていた。娘の恐れなど全く気付いていないかのように。


「名家の紋章は高名であるがゆえに模倣もされやすいもの。しかも――今回ほどの大事でなくとも――使用人が当家の名を騙って悪事を為したとなれば無用の疑いを招くことになる」

「貴様の封蝋は俺自身も何度も見たことがある。ティゼンハロムの紋章を象った――」

「細部に至るまで注視なさったことはありますまい」


 静かなどよめきが起きた。部屋に集った人々が、王の言葉を遮る無礼を犯した父を咎めたのだ。それに、驚きでもあっただろう。父の言わんとすることを察して、次の言葉を予想して。事態が、父以外の誰も思わぬ方向に進もうとしているのだろう。


十三(ティゼンハロム)――戦馬の神を奉じる主要な部族の一、栄えある選ばれし数を表して、そして夜明けと共に襲来する軍を表して。当家は十三の放射を放つ太陽を紋章として帯びております」


 ウィルヘルミナは、その紋章をありありと思い浮かべることができた。幼い頃から、屋敷のあちこちで、あるいは彼女の持ち物に刻まれて、数え切れないほど目にしてきた。紙と筆を渡されたら、きっと空で描くこともできるだろう。十三芒星を歪みなく描くことは非常に難しいから、不格好なものにはなるだろうけれど。

 この場にいる人たちも、彼女ほどでないにしてもティゼンハロムの紋章は知っているはず。それほどに誇り高く由緒正しい印だと、繰り返し教えられてきた。


「が、(ほまれ)多き紋章をそのままに使うのは、この歳になってもなお分不相応と思えてなりませぬ。ゆえに、臣が印璽として用いる際には、放射を十二条に減らしております。その証拠に、この指輪の印章をお確かめくださいますよう――」


 父は指輪を外して高く掲げて見せた。ごつごつとした装飾の金細工のそれは、確かに父が肌身離さず帯びているもの。でも、そこに刻まれた紋章はどうだっただろうか。ウィルヘルミナも、夫も――誰も、注視したことがなかったかもしれない。


 鈍い金の輝きに照らされた父の笑みは、ひどく歪んで見えた。

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