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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
13. 揺らぐ絆
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予期せぬ反撃 ファルカス

「来たか……」


 リカードの訪れの報せを聞いて、ファルカスは低く唸った。


 ――狸め。こちらに備える時間を与えないつもりなのだな。


 そもそも彼は、リカードに告げた時間よりもかなり早くに側妃の離宮を訪れていたのだ。王妃(ミーナ)と側妃が事前に話す時間を持てるように、と。実のところ、確かにふたりが言葉を交わすことだけはできたが、双方打ち解けるには至っていない。

 抜け目なくこちらの調子を乱そうという目論見に憤るべきか――あるいは、完全に機先を制されたのではないのを、まずは幸運と思わなければならないだろうか。


「お父様……」


 怯えたように呟いたミーナを、抱き締める。いつもなら父に会うのを無邪気に喜んでいただろうに、今日はそうはいかないのが憐れだった。


「お前は普段通りにしていろ」

「でも……」

「疑いが晴れれば何も悩むことはない。そうだろう?」


 自身でも信じていないことを言うのには、胸の痛みが伴った。彼はこれから、妻にその父が裁かれ罪に問われるところを見せようとしているのだ。昨晩から何度も繰り返し落ち着け、心配いらないと言い聞かせて、落ち着いたように見えてもまた突然泣き出すのを宥めてきた。


 ――また泣かせることになるが……。


 それでもリカードさえ葬れば、心の傷を癒す機会もあるだろう。ミーナの不安は、何よりも王の妻として不適格なのではないかというところにあるようだから。彼と側妃とで、この女の優しさや寛容さがどれほど得がたいものか伝えることができたなら。ミーナもまた笑って過ごすことができるのではないだろうか。


 そして、側妃の方はというと――


「側妃の傍から決して離れるな」

「は――」


 彼はミーナを抱いているから、側妃を守るのは臣下に命じるしかない。イルレシュ伯に、カーロイ・バラージュ。兵たちも控えさせているから滅多なことはないはずなのだが、身重の身体を思えば心から安心などできるはずもない。


「お前も余計な口を挟むな。身体を第一に考えていろ」


 彼の手に、側妃の腹に触れた時の感覚が蘇っていた。まだ生まれていなくとも、父の手に応えるように動いた胎児は、確かに彼の子だ。リカードを追求するのは、子を脅かす者を排除するためでもある。だが、そのために一時とはいえ妻子を危険に曝すのは耐え難く、腕が二本しかないのが悔しいとさえ思えた。


「はい。――ミーナ様、陛下は大げさにお考えなだけですわ。侯爵様とお会いするのに危ないことなどないでしょうから」

「……ありがとう、シャスティエ様」


 いずれも強ばった表情の妻たちが交わした言葉に、ファルカスはまた配慮が足りなかったことを思い知らされた。


 ――殊更に守れと命じたのでは、疑いが濃いと思わせただけか……。


 側妃は彼が心配しすぎなのだと嘘を吐き、ミーナは――その嘘を完全に信じるまでには至らなかったのだろうが――側妃の気遣いに感謝した。妻たちが通じ合い思い遣り合うこと、彼はどうも敵わないように思えてならない。


 自分自身に向けて内心で溜息を漏らしたのも一瞬のこと、ファルカスはすぐに意識を前へと切り替えた。妻との向き合い方を考える必要があるとしても、この場を切り抜けねばそれもできない。

 軽く呼吸を整えると、短く命じる。


「通して良い」


 これから相手にしようとしているのは、あの老獪なリカードだ。言葉ひとつ、視線ひとつにも気を配り、相手のそれを見落とすこともないように集中しなければ。

 これからの戦いには、妻子との未来が掛かっているのだから。




「クリャースタ様へのお目通りをお許しいただいたこと、まことに光栄に存じます」


 リカードは――内心は怒りに煮えたぎっているのだろうが――まずは慇懃に切り出した。側妃の体調が安定したから見舞いに、という。ファルカスが用意した表向きの理由をなぞっての口上だった。


「乱の間、舅殿が留守を預かってくれたお陰でもあるからな。この者からも礼を言わせようと考えたのだ」

「御子は健やかにお育ちのようで――喜ばしいことでございますな」


 いまだ腕の中に収まっていたミーナが、夫と父とのやり取りを聞いて身体を震わせた。リカードも、側妃の懐妊を知っていたことを改めて突きつけられたのだろう。何かの間違いでは、と繰り返し言っていた信頼が、裏切られたのだ。


「お父様、あの……っ!」

「本当に喜んでいるのか」


 父に呼びかけようとしたミーナを、腕に力を込めて黙らせながら、リカードへ問う。すると相手は口元だけを笑みに似た形に歪めて見せた。無論、目では彼と激しく睨み合っている。


「陛下の血を引く御子、イシュテンの輝かしい王族です。どうして喜ばずにいられましょうか」

「ならばなぜミーナには教えなかった!? これは、昨日初めて側妃の懐妊を知って泣いていたぞ。なぜ王妃が王の子の存在を知らぬのだ。そなたも知っていたことではないか!」

「はて……奇妙なことを仰います」


 今度こそ、リカードはにやりと嗤った。それは、明らかに王へと向けられた嘲りの笑み。バラージュ姉弟も呼ばれているのが見えていないはずもないだろうに、罪を質され弾劾されるのだと予期していないはずがないだろうに、不可解なほどの余裕だった。


「臣は確かに娘の前では浮かれすぎませんように、とお願い申し上げました。娘はクリャースタ様と親しいとは伺っておりましたが、とはいえ心を騒がせずにいられるはずもございませんからな」

「貴様……」

「なぜと仰るならば、陛下――臣にはどうしてご自身で娘にお知らせくださらなかったのかこそが不思議でなりませぬ」


 わざとらしいほどにゆっくりと、慇懃に。リカードは娘の夫の不手際を責めた。そこには、明らかな怒りも滲んでいる。お前に責める資格があるのか、という言外の反問を聞き取ってファルカスは奥歯を軋らせた。


 ――分かっている……!


 彼もまた、リカードの思いのままの行動を取ってしまったのだ。面倒を避けて、ミーナの無知につけ込んで。言われるがままにミーナの前では側妃やその子の話題を出さなかった。

 彼がそこでミーナにきちんと伝えていれば、リカードの策など覆すことができたのに。彼がそのようにしないであろうと、リカードには見抜かれていたのだ。


「それはまた別の話だ」


 怒りも屈辱も後悔も。今はあえて飲み込んで断じる。初めからリカードがおとなしく罪を認めるなどとは期待していない。言い逃れようとしても、咎を彼に押し付けようとしても無駄なのだと、証拠を突きつけるしかないだろう。


「側妃に毒を盛るようそなたに命じられたと申し出た者たちがいる。ミーナが知らぬ間に、懐妊自体をなかったことにしようとしたのではないか!?」

「申し出た。それは、そこの者どものことですかな? 偽りを述べてこの儂を陥れようとは、父親亡き後に後見してやろうと思っていたのに恩知らずな!」

「まるでご自身は無実であるかのように仰る……!」


 リカードの鋭い視線を受けて、姉を庇うようにカーロイが一歩前に進み出る。若々しい頬は緊張によってか憎しみによってか強ばって。とはいえそれで舌鋒が鈍ることはなかった。


「私だけでなく、ここにいる姉も見聞きしたこと。側妃様に毒を盛り、御子を亡き者にせよと、確かに命じただろう! 臣下として、王への叛意を見過ごせずに注進したまでのこと、恩知らずなどと謗られる謂れはない!」

「若造が……!」

「そもそもティゼンハロム侯爵家は前々から陛下に仇なそうとしていたのではないか? 父の死――その原因となったミリアールトの乱でもそうだった。父があのような失態を犯すはずがないのだ。侯爵家の権力を笠に、降伏を退けさせてミリアールトとの同盟を破綻させようとしたのだろう!」


 ――言いすぎだな……。


 不安げに見上げてくるミーナの浅く早い息使いを感じながら、ファルカスは内心で顔を顰めた。カーロイの非難は――少年にとっては正当なものではあるのだろうが――個人的な怨みに偏りすぎている。ミーナに聞かせたくない夫と父との諍いを匂わせているのも拙いのだが、それ以上に私怨による告発だと見られかねない。


「父のことを持ち出すか!」


 案の定というか、リカードは喜色満面といった表情でカーロイに指を突きつけた。若者が語りすぎるのを、この老人は待ち構えていたのだろう。幾通りも考え抜かれた予想される問答の中に、ぴたりと嵌るものがあったに違いない。


「陛下、これでお分かりになりましょう! この者どもは父の無能を棚に上げて、その責をこの儂に求めようとしているのです!」


 でなければこのように滔々と述べることができるものか。身振り手振りも交えて訴える様も堂にいって、練習でもしてきたのかと思うほど。茶番劇なのはお互い百も承知だが、ミーナもいるからには多少なりとも形を繕わなければならない。直截に罵り合うのよりは、多少なりともマシだと言えるのだろうか。


「それどころか、逆恨みは陛下やクリャースタ様までにも向けられたのやも。確かにその者どもの父はミリアールトで死にましたが――そう命じられたのはほかならぬ陛下でいらっしゃいます。そして、乱の原因となったのはクリャースタ様ではありませんでしたか? クリャースタ様を狙って失敗したからと、腹いせに偽りを申しているのでは――」

「その娘は自分から毒を見せに来ました。陛下がご不在の間、私の身を守るために表面上は命に従う振りをした、と。そのように聞いています」


 猿芝居に耐えかねたのか。命を狙われたこと――あるいはミーナを悲しませたことへの憤りか。凛とした声でリカードの長広舌に冷水を浴びせたのは、側妃だった。

 さすがに虚を突かれたようにリカードが口をつぐんだ隙に、バラージュ家の姉娘――エシュテルが弟の傍らに並ぶ。その両手には、小さな包を捧げ持って。


「これが侯爵様から与えられた毒でございます」

「そのようなもの! 貴様が用意したものを差し出したのではないと、なぜ言える!?」

「控えよ!」


 リカードが女たちに詰め寄る前に、ファルカスは強い言葉でその動きを制した。そう、確かに毒だけでは証拠として弱い。堕胎薬などその気になれば誰でも入手できるもの。侯爵家を陥れるための陰謀だと強弁されれば反論することは難しい。だが――


「無論、俺もこの者たちの言葉を鵜呑みにしたのでも、それだけの証拠を信じた訳でもない。義理とは言え父であり、王位を得るのにも国の安定にも多大な助力と忠誠を捧げてもらっているのだから。もっと確かな()()があるのだ」


 震え始めたミーナを宥めようと背を撫でながら、しかしファルカスはリカードから目を逸らさない。意味深長に強勢をおいた()()という単語には心当たりがあるだろうに、この手ごわい老人はまだ憤りの仮面を捨てない。あくまでも逆恨みによって理不尽な弾劾を受けているのだ、と。この期に及んでもその体を崩そうとしないのだ。


 ――なぜだ。どう言い逃れるつもりだ……?


「証拠とは? 一体何でございましょうか」

「舅殿が知らぬはずもないのだが――」


 いまだ余裕を崩さぬリカードに、ふと不安が胸をよぎる。それに無理に蓋をしながら側妃へ目配せすると、碧い目が更に侍女の方へと向けられる。ミリアールトから側妃に従って来た娘が、大事な証拠をリカードに奪われることのないように室内を慎重に横切って、彼のもとへ()()を届ける。


「見覚えがあるだろう?」

「…………」


 リカードは宰相としてファルカスの統治を補佐している。必然として、彼も義父の筆跡は日常的に目にしていて間違えようもない。昨夜、ミーナの元へ帰る前に(あらた)めた書簡――バラージュ姉弟に、今後の便宜を約したもの――は、確かにリカードの手跡によるものだった。封蝋も、確かにティゼンハロム家の紋章を残している。姉弟の証言と毒と併せれば、謀を命じた見返りとしか思えない。


 書面と印とを示すと、リカードはしばらく沈黙した。その間は口を開く者もなく、ファルカスの耳に届くのはミーナの吐息と心臓の鼓動だけ。あるいは血が脈打つ音は、彼自身のものだっただろうか。

 剣を抜いてこそいないが、これもまた生死を賭けた戦いなのだ。狙われた側妃はもちろんのこと、リカードの逃げ場と反論を全て封じて陰謀を認めさせたならば、その咎は死罪に相当するだろう。長年に渡って密かに争ってきた相手に、ようやく勝利することができるのだ。


 この老獪な男が、果たしてどう反応するか。彼は息を詰めて注視し――


「……確かに、書面は臣の手跡でございますな」

「――お父様っ!」

「ならば認めるのか。側妃への企みを」


 あまりにもあっさりとした答えに、ミーナが小さく上げた悲鳴を遮って思わず勢い込んで声を高めた。だが一瞬でも勝ったかと思ったのは、早急に過ぎた。


「いいえ」

「……何」


 不遜なほどに短い一言で否定されて眉を寄せ――そして、彼はリカードがいかにも楽しげに笑っていることに気付いた。その笑みに込められた、嘲りともやや趣を異にする感情をどう判じたら良いものか、咄嗟に迷う。


「何が何やら、と思っておりましたが――やっと事態が分かりました。陛下、これは陰謀とも言えませぬ。いえ、クリャースタ様を狙ったものには違いありませんが、何とも浅はかなこと」

「どういうことだ」


 糾弾するつもりが、問う一方になっているのが不快だった。裁かれるはずのリカードが、なぜか今は場の主導権を握っている。


 ――こいつ……!


 言いようのない苛立ちと共に、ファルカスは気付いた。


 リカードの笑みは、勝利を誇り敗者を嬲るもの。狩りの獲物を追い詰めた時に浮かべられる類のものだったのだ。

種がお分かりになった方もいらっしゃるかと思いますが、今しばらくお心にとどめておいてくださいますようお願いいたします。

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