戦いの前の一幕 アレクサンドル
アレクサンドルは、王が乱の鎮圧で不在の間、側妃の離宮を守ってきた。配下の兵に任せるだけでなく、彼自身もしばしば主を訪れて話し相手を務めてきた。
その日々の中、離宮はもっぱら閑散として静かなものだった。王はもちろん、訪れる客もなく。冬が近づく季節と気鬱に塞ぐ主の心を映したかのように、どこか寒々とした雰囲気に、彼も胸を痛めていたのだ。
だから、今日のように慌ただしく人が行き交う様子を見るのはひどく不思議な感じがした。
もっとも広い一室に卓や椅子を並べさせ、室内を十分に温めておく。警備の兵も普段より遥かに多いから、彼らに供する食事の支度も必要だし、客に出す菓子を作り茶のために湯を沸かすのも必要だ。無論、室内を磨き上げ――季節柄、選択肢は限られるのだが――花で飾る手配も忘れてはならない。
「これから王妃様もいらっしゃいます。くれぐれも失礼のないように準備してちょうだい」
凛とした姿で使用人たちを叱咤するシャスティエの姿は、宮の女主人そのものだ。身重の身を庇って椅子にゆったりと掛け、銀狐の上着は腹の膨らみのために前を留めることができないので羽織るだけ。さらに膝には厚手の毛布をかけた万全の姿だ。
祖国ミリアールトでは、人が集まる席の采配はもっと年配の婦人が行うことが多かったから、このような形ではあっても主の成長を見る思いがしてこれまた感慨深い。
――とはいえ、まったく呑気な席ではないのだが……。
厳重な警備からも分かることだが、今日の席は和やかな歓談とはほど遠いはず。何しろイシュテンでも最大の権勢を誇るというティゼンハロム侯爵を追求しようというのだ。侯が簡単に罪を認めるはずはないし、シャスティエにも敵意や憎しみをぶつけてくるだろう。そればかりか、実際に害そうとしてもおかしくはない。ならばこの慌ただしさは、戦いの前のそれと思うのが良いだろう。
「クリャースタ様、そうお気を張られずとも……今のうちに、休んでおかれては」
「小父様……」
となると、若者が必要以上に緊張して消耗するのは非常によくあることだった。表面上は完璧な貴婦人として振舞う主もきっとそうなのだろう、と老婆心を働かせると、やはりというかシャスティエは整った眉を寄せて彼を見上げてきた。
「いいえ。休もうにも休めそうになくて。こうしている方がまだ気楽なのです」
実際、シャスティエの顔色はいつもにも増して白い。昨夜、王は王妃への説明のために一度帰ったというから、あの男の相手に煩わされたということはないのだろうが。それでも、よく眠れなかったであろうことが明らかだった。
「臣が必ずお守りしますゆえ。御子のためにもゆったりと構えておられますように」
「小父様のことは信じております。そうではなくて――」
シャスティエは一層眉を顰めると深々と溜息を吐いてアレクサンドルを慌てさせた。
「王妃様のことが心配なのです。王はちゃんと話してくれたのかどうか……。あの方はこのお腹のこともご存知なかった――周りの者が伏せていたようなのです。なのに、昨日の今日で父君を弾劾する場だなんて……」
「ですが、シャスティエ様――クリャースタ様がそのように進言したと」
「ええ。後から知らされるよりはまだ良いのではないかと……でも、だからといってこれが良いとも思えないし」
――これでは……ご自身よりも御子よりも、王妃のことを案じておられるかのような。
アレクサンドルは、ミリアールトで遥かな敵国に囚われた女王を案じた日々のことを思い出していた。イシュテン王が誓い通りに人質を守っているのか質した時、最初の総督はこう答えたのだ。王妃が気に入って妹のように可愛がっている、と。
敗れた者の感情を宥めるための方便だろうと思っていたし、仮に事実と信じたとしても、王族の血筋や秀でた容姿を愛玩されているのかと思うと屈辱だった。いずれにしても聞かされた言葉からはシャスティエの思いは見えず、彼の憂いが晴れることは決してなかった。
だが、この分だと、総督の言葉は真実だったばかりか、シャスティエも王妃を慕っている、ということなのだろうか。
「シャスティエ様は――」
「クリャースタ様、お見えになりました」
「そう。お通しして」
主の心の内を聞こうとしても尋ねる言葉が見つからず、虚しく舌を固めることしばし。ようやく呼び掛けた女王の名は、不穏な意味の婚家名によって遮られた。
侍女が来客の訪れを告げたのだ。王の命によって召集された関係者――証人のひとり、カーロイ・バラージュだった。
女主人の役目として、シャスティエも席を立って迎えたので、アレクサンドルはついに彼女の本意を尋ねる機会を失った。憂い顔から一転して笑顔を纏った主の振る舞いはさすがといえるのだろうか。祖父代わりの老臣としては、気を揉みながら見守るばかりだ。
「ようこそお出でくださいました。今日はお客様なのですから、どうぞ楽になさってくださいませ」
「そのような訳には――何があろうとクリャースタ様をお守りし、いざという時には盾になる所存です」
カーロイもまた肩肘張った若者のひとりだった。側妃の美貌によってか意気込みによってか、頬を紅潮させる姿は――中身なく垂れる右袖に目を向けなければ――微笑ましいもので、老人の胸に温かい思いを呼び起こす。
「でも――」
「その意気や良し。頼りにさせてもらおう」
カーロイの腕に言及したものか迷ったのだろう、笑みをわずかに曇らせて言い淀んだ主に代わって、アレクサンドルは少年に答えてやった。同時に、カーロイが剣を右の腰に佩いていること、その剣が両手で扱うものより細く短いことに気づく。
――片腕でも戦おうとしているのだな。
決して完全には癒えない傷を負ってなお剣を取ることを諦めてはいないのだ。それは危うく、哀れなことでもあるが、主のためには頼もしい。
「いずれ私の古い戦友の話をしてやろう。雪の女王の勘気によって手指を失ったのだが、そうとは見せない戦いぶりだった……」
凍傷で手足の指や、時に手足そのものを失うのはミリアールトでは珍しいことではなかったから。そしてイシュテンほど苛烈な国風でなくとも、戦場にしか居場所を見いだせない類の者はどこにでもいるものなのだから。
「……ありがとうございます!」
彼の意図を汲んだのだろう、カーロイは顔を輝かせて叫ぶように答えた。一方でシャスティエは不思議そうに首を傾げてアレクサンドルを見上げてくる。
「そのような方のこと、お伺いしたことはありませんでしたわ」
「姫君にお聞かせすることではございませんから。それに既に雪の女王の宮殿に召されている者です」
「……そうですか」
彼が匂わせたことを、シャスティエは正しく読み取ったようだった。彼の旧友はイシュテンとの戦いで命を落としたのだ。その男の逸話をイシュテンの若者に伝えるのも奇妙な縁ではあるが――女王のためとなればきっと分かってくれるだろう。
シャスティエが再三勧めても、姉のエシュテルが困り顔で宥めても。カーロイは頑として座ろうとはしなかった。側妃の御前では無礼だと言って聞かなくて。その間にも部屋は整えられていき、証拠の毒と書簡も運びこまれた。万が一にも奪われたり損なわれたりすることがないように、その傍らにも兵を配する。
そうして着々と戦いの時が近づき、役者も揃っていく。証人に加えて、もっとも重要な役――この場をまとめ、裁きを行う者も登場するのだ。すなわち、王が、王妃を伴って訪れるという。その先触れを告げられた時、シャスティエの頬が明らかに青ざめ、肩にも力が入ったのがアレクサンドルにも見てとれた。
「クリャースタ様、どうか無理はなさらずに――」
「いいえ、両陛下のお出ましだというのにお迎えしないなんて」
イリーナが制そうとするのを振り切るように。シャスティエは狐の外套を脱ぎ落とすと立ち上がり、白い顔のままふらふらと扉の方へと向かう。
「伯爵様……」
シャスティエと同じく幼い頃からよく知る娘が投げる、助けを求めるような視線に応えてアレクサンドルは主に寄り添った。
「王の妃ともあろう方に供がいないのでは形になりますまい。臣が、ついておりますから」
「ええ……」
彼が差し出した手を、シャスティエは素直に取った。それは、進言を聞き入れたというよりは考える余裕がなかったために見えてアレクサンドルには危うく思える。
「ミーナ様、来てくださるかしら……」
――王妃を疑っておられないのだな。
恐らく意図せず漏らしたのであろう呟きに、老臣の胸はささくれる。彼が手を差し伸べたのは、シャスティエの顔色を慮ったからというだけではない。敵から守るためでもあるのだ。
王妃が側妃の存在を認めるはずがない、と。それなりに世のことも男女のことも見聞きした彼にはそう思えてならないのだ。シャスティエだけでなく王も、イリーナやエシュテルでさえその可能性を考えていないのが不思議でならないのだが、どうして側妃やその子の死を望むのがティゼンハロム侯爵だけだと信じ込んでいるのだろう。王妃が父に強請ったことかもしれないだろうに。
傷ついたようだったというのは演技ではなかったのか。流れたと思い込まされていた御子が無事だったための動揺ではなかったのか。王の説得とやらでこの離宮を訪れることに同意したとして、自らシャスティエを害するつもりではないと、どうして信じることができるだろう。
彼は王妃には会ったことはないが、王の留守中ティゼンハロム侯爵の厄介さや狡猾さ、傲慢さは骨身に染みて思い知った。その娘をこれほどにシャスティエが慕い王も庇う理由――それが間もなく明らかになるのだろうか。
――油断だけはすまい……。
シャスティエに気付かれないように、アレクサンドルは佩いた剣の在り処を確かめた。
だが、アレクサンドルの懸念は無用のものに終わった。何しろ彼は最初、王妃の姿を視界に収めることさえままならなかった。王妃は長身の王の背に隠れるように身を縮めていて、彼から見えるのは揺れる黒髪や衣装の裾ばかりだったのだ。
「このようなところへお運びいただき、まことに光栄に存じます」
「うむ。――ミーナ、いつまでも隠れているな」
跪こうとするシャスティエを制し、王は王妃の方へ振り向いた。言いながら、その背に手を回してこちらへと押しやってくる。
「は、はい……」
そうしてやっと夫の陰から現れた王妃は、確かに評判通りに美しかった。白い肌に映える艶やかな黒髪に黒い瞳。怯えたように震えて濃い影を落とす長い睫毛も、やや色を失った唇も。整っていて愛らしく、男に守りたいと思わせる類の造作だった。王妃の容姿に関して悪く言う者が――例えばあのアンドラーシなどでさえ――いなかったのも頷ける。
だが、美貌にも増してアレクサンドルを驚かせたのは、王妃の立ち居振る舞いだった。
「あの……シャスティエ様。昨日はごめんなさい。それと……おめでとうございます。赤ちゃんなんて……とても、素敵な……」
それだけのことを言うのに、王妃はかなりの時間を掛けた。吃ったり閊えたりしながら、時に助けを求めるように夫を仰ぎ見て。時にシャスティエに微笑もうとしてはすぐに顔を伏せて。婦人にしては丈高い身体を縮こめるように肩を落として、指先は忙しなく絡み合って。……まるで、叱られるのを恐れる子供のようだった。
――王よりも歳上で……王女もいるということではなかったのか。
唖然としつつもよく見れば、王妃の目には涙の膜が張っていた。殊勝な様子は演技では、と疑おうとしても、頼りない姿からは弱々しさしか感じ取ることはできなかった。
「寛大なお言葉、痛みいります。ミーナ様には大変なご心痛と存じますので……大変申し訳なく思っております」
硬い声ながらはっきりと答えたシャスティエの方がよほど大人びているように見える。ここで初めて、アレクサンドルは主の不安の根本を理解できたような気がした。このような――良く言えば愛らしく悪く言えば幼い――女性が相手では、夫のもうひとりの妻も。その懐妊も。父の悪事も。受け入れられないのではと思うのも無理はない。
「いいえ、私なんて良いの……」
「そのような」
シャスティエは王妃に向けて手を伸べたが途中で宙に浮かせたまま止まってしまった。王妃も逃げるように後ずさってそシャスティエの手から離れる。双方共に、自分にはその資格はないとでも思っているのだろうか。
――このふたりが憎み合ってはいないのか……?なんと不思議な……。
この歳になるまで甘やかされて、今になって試練に直面しようとしている王妃と。若くして国も肉親も失い異国に囚われたシャスティエと。一体どちらがより憐れなのだろう。
埒もないことに思いを馳せていたアレクサンドルは、しかし、シャスティエが次に述べた言葉に瞠目した。
「私は、ミーナ様と陛下の間に割って入るつもりはございません。この子だって、差し上げようと考えているのです。お嫌ではなければですけれど……」
「なっ」
「そんな。そんなことを言ってはいけないわ……!」
子供を譲り渡す、と。あまりにも母らしからぬことをさらりと口にしたシャスティエに、王妃までも焦ったように首を激しく左右に振った。それでまたこの女性の優しさと大らかさが窺えて、アレクサンドルの心中では好悪の感情が複雑にもつれる。
と、ここまで妻たちのやり取りを眺めていた王が、初めて口を開いた。
「そのことは後で話せ。まずは今日の……これからのことだ」
「陛下。ミーナ様にはどのように……?」
王妃に向けていた、気遣うような様子から一転して、シャスティエは王へ鋭く問うた。そう、このように張り詰めて尖った表情の方がアレクサンドルには馴染みがある。それも若い身重の姫には似つかわしくないものではあるが――敵か味方かも分からない王妃に対しての気弱な態度こそ落ち着かない。
だからアレクサンドルは幾らか安堵して王の答えを待った。結局、事態の全容を掴めているのはこの男だけなのだ。
「ティゼンハロム侯爵に疑いがあるゆえ質す、と。……まだ決まった訳ではないのだから気を確かに持て」
――疑い。疑いと言ったのか……。
王の言葉は、シャスティエの肩を持つ身には弱腰に聞こえた。事実毒を用意し間者を――実際は裏切っていたとはいえ――送り込んでいたのだから疑いも何もないと思うのに。
――ティゼンハロム侯爵を憚って……というよりは王妃を気遣っているのだな。
昨日、王妃が遁走した直前と構図が逆になっていた。王はシャスティエではなく王妃を庇うように支えている。命を狙われた側妃を差し置いて、何の危険もないはずの女性の方が今にも倒れそうな顔をしているのだ。
「シャスティエ様。あの……お父様がそんなことをするなんて思えなくて。でも……もし……」
「……私も、どういうことだかまだ分からないのです。……侯爵様もいらっしゃるということですから。きっと……明らかになりますわ……」
シャスティエがどのような思いでそう言ったのか、アレクサンドルには分からなかった。彼と同様、女王もティゼンハロム侯爵の罪を確信しているのだろうに。この期に及んでも歯切れ悪く断言を避けるのは、やはり王妃を案じてのことか。
――なぜ、そこまで……?
王もシャスティエも王妃を庇うのだろうか。
臣下風情が口に出して良い問いではなかったし、そのための時間も与えられなかった。シャスティエが慰めるように王妃の黒髪に手を伸ばした、その瞬間に。
ティゼンハロム侯爵の来訪が告げられたのだ。