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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
13. 揺らぐ絆
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過ぎ行く年 アンネミーケ

 ブレンクラーレの王宮、鷲の巣城(アードラースホルスト)では、表向きつつがなく新年を迎える準備が進められている。

 イシュテンで兄弟同士の内乱があったとしても、それによって数多の血が流されたとしても、あくまでもこの国には関わりがないこと。ノインテ河――イシュテンではキレンツ河と名を変えるのだったか――の水を勝手に使われて多少の混乱はあったものの、イシュテン王が乱の首謀者の首を送りつけてきたことでとりあえずの筋は通された、ということになっている。


 だから国内では何事も憂いがないかのように。むしろ王太子妃が懐妊中とあって浮かれたような気配さえ漂っているようだった。


 ――誰も彼も呑気なこと……!


 アンネミーケがイシュテンの内乱に介入していたこと。そしてティグリス王子を推してかの国に影響力を持とうとしていたことを知る者は少ない。更に対立する者どもには決して知られてはならないことだから、この空気に苛立つことは恐らく間違っている。だが、それでもアンネミーケの肚の中では黒い憤懣が渦巻いていた。


「摂政陛下。ティゼンハロム侯爵との交渉はいかがですか? イシュテン王との決別に、同意してくれたのでしょうか」


 しかも、その最大の原因が目の前にいるとなればなおのこと。忌々しいほどの美貌を誇る亡国(ミリアールト)の公子は、アンネミーケの機嫌を知ってか知らずか、しつこく従姉姫の救出をつついてくる。


「今はイシュテンとの国境を越えるのも難事なのだ。遣いの者も、まだ侯との面会には至っていないであろうよ」


 答えにはたっぷりと刺をまぶした。先のイシュテンの乱から生還して以来、この青年の面の皮は一段と厚くなったようで、いけ好かない微笑みを揺るがすことはできなかったが。


 ――そなたのせいでもあるというのは、分かっていよう……?


 アンネミーケの意図をよく汲み、イシュテン語を解し、何の変哲もない商人に身をやつすことができる者たち。その上で敵国の貴人と交渉できる器を持った貴重な間者のほとんどを、彼女はこの間に失っている。代わりの人材はすぐに見つかるものでも育てられるものでもないから、ティゼンハロム侯爵に接触するのもかつてより遥かに時間が掛かっているという有様だ。


 正直なところ、アンネミーケは目の前の青年が信頼できる間者たちを殺めたのではないかと疑っている。愛する従姉、ミリアールトの正統なる女王とやらのためならば乱の勝敗さえ覆してみせたこの男のことだ。有象無象と見下しているであろう影の者たちを手にかけるのを、何ら躊躇うはずがない。仮にそうでなかったとしても、イシュテンでブレンクラーレの者の血も多く流れたのは紛れもなくこの者のせいだ。


「ブレンクラーレの、しかも名高い摂政陛下の手の者にしてはのろまなことですね」


 ――ああうるさいっ!


 あからさまな挑発にも容易く激しそうになるほど、今のアンネミーケには余裕がなかった。公子を客として遇し、茶を出してやるのも過分の礼儀だとさえ思う。彼女の好みの苦い茶で美貌が歪むのを見る程度では、溜飲は全く下がらない。


「この身にも叶わぬことは多いのだ」


 例えば息子のことだとか、目の前の美しすぎる公子のことだとか。


「何か進展があれば――」

「無論、公子には真っ先にお知らせしよう」


 そして従姉姫を救うためにイシュテンに行って、帰ってこなければ良い。いや、ミリアールトへの影響を保持しようというならば、公子にもシャスティエ姫にも生きてブレンクラーレまで逃れてもらわなければならないのだが。とにかく、アンネミーケの身近にこの美貌がうろついているのは気分が悪い。少なくとも彼女の目の届く範囲からは早く消えて欲しかった。


「恐れ多いことです」


 公子は心にもないであろう言葉で恐縮して、アンネミーケの苛立ちをいや増した。

 イシュテンとの交渉に時間が掛かるのはこの青年も分かっているだろうに。わざわざ彼女を不愉快にさせに現れるのは決して従姉を見捨てるなよ、という圧力の意味があるに違いない。


 ――いっそのこと……。


 もう何度目になるだろうか、不穏な考えが一瞬頭の片隅をよぎるのを、理性で抑え込む。いかに気に入らなくとも信が置けなくとも、この青年はミリアールトの王族だ。しかも誰にも知られてはならない秘密――ブレンクラーレの王妃であるアンネミーケが他国の乱に援助していたこと――を握られている。その証人でもある、乱を生き残った兵たちを掌握しているとなれば、迂闊に短慮を起こしては彼女の失脚に繋がりかねない。


 これもまた忌々しいことだが、王太子妃ギーゼラはこの青年に心惹かれているようだから。胎に子を抱えた大事な身体の今、懸想する男の不審な死など伝えては心身に、そして赤子に良からぬ影響を与えかねない。


 だから、今は耐えるしかないのだ。


 煮えくり返る(はらわた)を必死に抑えながら、その後しばらくアンネミーケは公子と当たり障りのない会話を繋いだ。




 ミリアールトの公子が退出した後に現れたのも、アンネミーケの神経を逆撫でる一方の相手だった。


「何かお気に障ることでもあったのですか、母上?」

「……(わたし)にはその気楽さが羨ましいぞ……」


 彼女の血を分けた息子だというのに、へらへらと笑うマクシミリアンの容姿も気性もアンネミーケとは似ていない。イシュテンで策を巡らせる過程をある程度見聞きさせ、さらにその失敗をも目の当たりにしたというのに、どうしてこのように呑気にしていられるのか。彼女にはさっぱり理解できない。


 ――状況が分かっていないはずはないというに……!


「今はこちらでできることはないのでしょう? ならばあれこれと思い煩うだけ無駄ではないですか」

「何事かが起きてからでは遅いのだ。平時からあらゆる事態を想定するのが君主の役目と心得よ」

「はあ」


 母の忠告が届いているのかいないのか、マクシミリアンは曖昧な表情で頷いた。すぐに誤魔化すように破顔したから、絶対に納得したということではないと思うが。


「そんなことより、母上」


 せっかくの教示をそんなこと、で済ませるのが何よりの証拠だった。


「お迎えに上がりました。新しい年を迎える儀式に際して、父上の時はどのようであったかご助言いただきたく。――それから、ギーゼラが楽なようにするにはどうすれば良いかも」


 とはいえ、身重の王太子妃に対して彼女は何かと甘いのを自覚している。それに、父に似て浮ついていた息子に妻を思いやる心が芽生えたのは歓迎すべきこと。なのでアンネミーケは渋々といった体を装って頷いた。


「うむ。では参ろう」





 儀礼の舞台となる広間へ向かう道中、母子の主な話題は王太子妃の容態と、その胎の子の成長についてだった。


「ギーゼラは順調だということだな」

「はい。胎動もはっきりしてきまして。私が触れると答えてくれるのですよ」

「そうか……」


 マクシミリアンの晴れやかな笑顔は、やはり美形である父王にそっくりだった。アンネミーケも幾度となく見たことがあるもの――しかし、彼女に向けられたものではない。

 常に彼を取り囲む寵姫の誰かしらが懐妊するたびに、夫君は大変嬉しそうにアンネミーケに報告してくれた。庶子とはいえ王の子の存在を、妻には知らせておくべきだ、という。それはありがたい意図だった。当然というか愛する女たちとの子は愛しいものらしく、折に触れては腹が膨らんできただとか初めて蹴っただとか、いちいち知らせてくれたものだ。


 肝心の嫡子、マクシミリアンが彼女の胎にいた間はどうであったか。アンネミーケはよく覚えていない。何ぶん彼女が授かったのは息子ひとりだけだったし、夫の笑顔など常に気に障るものでしかなかったから。砂糖のように甘ったるい男は、砂糖のように甘ったるい女どもと戯れていれば良いとでも思い定めていたような気がする。


 だからマクシミリアンが正妻の懐妊を喜び、その世話を焼こうというのは彼女にはいっそ奇妙なことに思えた。だからと言ってギーゼラに嫉妬などしている訳でなく、喜ばしいことだとも思っているのだが。


 ――あの父の血を信用していないのかもしれぬな。


 息子は容姿も気性も父に似過ぎているから。殊勝な姿もいつまで保つことやら、と思えて仕方ないのだ。どうせ気まぐれに違いない、いずれ何かしら妻を悲しませるに違いないと――父王とアンネミーケの間柄がそうだったように。


「――ミリアールトの姫も救えるかもしれないということで、少しですが安心いたしました」

「……何だと?」


 実際、マクシミリアンは唐突に()婚約者に言及してアンネミーケの声を剣呑に低めさせた。今の、現実の妻子から、どうして会ったこともない姫君へと話が飛ぶのか。


 何を考えている、という母の疑問の視線はやはり息子には届かなかったようで、マクシミリアンはわずかに眉を寄せながら滑らかに続ける。


「何ひとつ不自由なく世話を焼かれているギーゼラでさえあれほど大変そうなのだから、姫君のご苦労やご心痛はいかばかりかと。異国で頼る者もなく、命も狙われているとのこと……しかも孕んでいるのは憎い仇の子ではないですか。だから、母上がお心を動かしてくださって――」

「さて。イシュテン王は美丈夫ということではなかったか。案外良い夫婦になっているのかもしれぬ」


 女子供と見れば(ことごと)く哀れむ甘い気性も、愚息が父から受け継いだもののひとつだった。ギーゼラの子が育つにつれて情が深くなることを期待したのに、事実半ばは期待通りになったようにも見えたのに。その情を他所の女にも分けてやるとは。彼女の息子はいつまで経っても母を失望させてくれる。


「美形だから好きになるというものでもないでしょう」


 苛立ちに任せて突き放すと、マクシミリアンは驚いたように――あるいは傷ついたように――目を瞠った。自身とは無縁のこととでも言いたげに、世の理を語るかのようにさらりと言えることこそ驚きだった。


 ――そなたにもそれは当てはまるのだぞ……?


 まさか容姿以外の点でギーゼラに愛されているとでも思っているのだろうか。若い娘に好まれる優しげな顔以外に、夫としての美点をひとつでも挙げることができるのだろうか。ギーゼラの内心を息子が知らないようなのは、幸いなのか無関心の表れなのか。あの公子を常に目で追っているのは、アンネミーケにも明らかだというのに、夫であるマクシミリアンは妻を本当に気にかけているのだろうか。


「愛してもいない男など――」

「愛していなくても子はできるし、できてしまえば可愛いものだ。ミリアールトの姫もそうであろう。何しろ大抵の高貴の女はそうなのだから」

「母上」


 今度こそ、彼女は息子を傷つけるのに成功したようだった。鈍いマクシミリアンでも、さすがに母の苛立ちを察し、父との関係に結びつけることができたらしい。整った唇が間抜けにぽかんと開き、長い脚が完全に止まってしまったのを見て、アンネミーケはほんの少しだけここ最近の鬱憤を晴らした。


「あの、それは……母上の……? 母上は、父上のことを――」

「さあ。妾は多くの者が言うことを言っただけ。そなたは他人のことより自身を省みた方がよかろう」

「他人だなんて……」


 良い歳をして、息子は子供のように泣きそうな顔をして彼女を追ってきた。その姿は情けなくもあったし、どこか満足を誘うものでもあった。マクシミリアンは血を分けた息子だし、可愛いと言った言葉に嘘はない。でなければイシュテンを弱めようとこれほどに頭を悩ませたりするものか。


 しかし、一方でマクシミリアンは限りなく遠い存在でもある。あまりに眩く明るく美しくて。大した才もないのに微笑むだけで民にも女たちにも慕われた夫君を思い出させて落ち着かないのだ。だから鬱陶しくなる時もあるのだろう。

 そして冷たい態度で慌てさせて、母の権威が健在であることを確かめたくなってしまうのだ。


 ――妾も質が悪いな……マクシミリアンの成長を望んでいるようで、いつまでも操りたいと思っているのか……。


 自嘲しながらも、アンネミーケは歩みを緩めることをしなかった。息子を置き去りにして早足で進む王妃の姿は、臣下や使用人たちの目を引くようだった。とはいえ彼女は気にしない。王太子の言動の危うさを、王妃が呆れ叱るのはよくあることだ。誰もが見て見ぬ振りをしてくれるだろう。




 イシュテンの混乱を他所に、ブレンクラーレの宮廷は平穏そのものだ。少なくとも今のところは。

 来る新しい年に、この平穏は破られるのか。この国にも戦乱の火は及ぶのか。――アンネミーケは、次の新年も今と同じ立場で迎えるのだろうか。息子に権力を引き渡すか、あるいは失脚しているということもあるだろうか。


 未来を知る者はいない。が、備えることはできるはずだ。国のため、息子のため、生まれてくる孫のため。彼女の血を引く者たちが健やかであるようために。

 アンネミーケはあらゆる手段を尽くすつもりだ。

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