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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
13. 揺らぐ絆
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不信と変化 シャスティエ

 拘束されたエルジェーベトは、とりあえず侍女の一人――ツィーラの部屋に監禁されることになった。


「隅の部屋ですから監視もしやすいでしょうし……クリャースタ様のお目にも留まらないでしょうから」

「では、その間は私の部屋へ。荷物など運ばなくてはいけないでしょうから手伝いますわ」


 そう申し出たのはエシュテルで、イシュテン人の侍女は揃ってシャスティエの前から辞した。代わって傍に控えるのはイリーナだ。シャスティエにとっては同郷の、最も親しく気を許せる――友人に近い間柄の娘。


 ――気を遣ってくれたのかしら。


 グニェーフ伯と、イリーナと。よく知る人たちが傍にいれば、多少なりとも安心できる、だろうか。


「…………」


 いや、それは無理だろう。エルジェーベトの刺すような視線が邪魔になって、安らぐことなどできそうにない。


 ミーナの忠実な侍女は、王への暴言が嘘のように今は唇を引き結んで押し黙っている。グニェーフ伯が証人だと言ったことを受けて、主たちの不利になることは言うまいとでも言うかのように。エシュテルからは、ティゼンハロム侯爵に毒を授けられた場にもこの女がいたと聞いている。この女が全て真実を述べたのならば、侯爵を追い詰めることも可能なのだろうが――今まで見聞きした忠臣ぶりから考えて、それは難しいだろうと思う。


 その証拠に、昏い色の瞳には憎しみと怒りが炎となって燃えている。言葉によらずとも責め立てられているのが分かって、シャスティエは思わず目を逸らした。


『この売女!』

『どうしてまだ生きてるのよっ!?』


 先ほど投げられた声が、まだ頭の中に響いているよう。人質時代の厭味や嫌がらせならば聞き流すか言い返すかしてきたシャスティエだが、今回は思いのほか堪えている、ような気がする。


 ――本当のことだから、でしょうね。


 他人の夫を寝取った売女なのも。シャスティエの存在自体がミーナの不幸を生んでいるのも。


 ――だから、私なんて……。


「シャスティエ様、お顔の色が……横になられた方が――」

「ええ、そうね。そうするわ」


 イリーナの指先を頬に感じて初めて、シャスティエは危険な思考に陥ろうとしていたことに気付いた。同時にひどい(だる)さも感じて、確かに休息が必要だとも思う。ミーナに会うからと、昨夜からひどく緊張していたのだった。


 イリーナの進言に肯けば、グニェーフ伯が背後を守ろうと動いてくれる。ちょうどツィーラの部屋の準備も整ったらしく、エルジェーベトも腕を捻られたままの姿で引き立てられていった。


 ――皆、守ってくれている。私だけが弱音を吐いてはいけないわ……。


 復讐のために血塗られた険しい道を進むと決めたのは、彼女自身なのだから。だから、死んだ方が良いなどとは考えてはならない。

 それはただの逃げにすぎない。ミリアールトの王宮で、王に首を差し出せば全てが済むと考えていた、かつての甘い考えと同じ。


 ――戦うと決めたからには勝つまで止まることはできない。


 先へ、進まなくては。




 寝台に横たわると、胎児も疲れていたのか胎の中でしきりに動いた。生まれてもないのにむずかって泣く子供のようで、内蔵が掻き回されるような違和感が母を安息から遠ざける。


「おとなしくしてよ……」


 溜息ながらに訴えても、もちろん胎児が聞き入れてくれるということはない。胎動に加えて、硬く(しこ)った子宮が起こす痛みのせいで、シャスティエは眉を開くことができなかった。腹が膨らむにつれて、当然のことながら身体の変化も不快なことも増えている。しかも先ほどの一幕もあって、子が勝手に悪さをしているような気分になって仕方がなかった。


 ――このお腹のせいで、ミーナ様が……。


 ミーナの泣きそうな顔を思い出すと胸に渦巻くのは、悲しみと後ろめたさ、それに怒り。いずれも暗く重い感情で、身体の痛みと同時にシャスティエの胸を痛ませる。

 エルジェーベトは、ミーナは何も知らなかったと言った。ただしばらく会っていなかった側妃を見舞うつもりでやってきて、最初に目が入ったのはこの姿とは。どれほどの衝撃と心痛だっただろう。

 ティグリス王子の乱の間、ミーナから遠ざけられていたのはある程度仕方のないことだと理解してはいるけれど。でも、だからこそ王がきちんと話しておくべきことだったはず。


 ――あの男は何をしていたのよ!


 怒りに任せて寝具を強く握り締めるとまた腹が()って、シャスティエは寝台の上でのたうった。


 エルジェーベト――つまりはティゼンハロム侯爵の意を受けた者たちが懐妊を知らせなかったのは、まだ分かる。ミーナが知らないうちに側妃の子を片付けてしまえば王妃の心を煩わせることはないのだから。大罪であることを別にすれば、理にかなっているとさえ言えるだろう。


 だが、王に関しては弁解の余地がないと思う。ミーナは懐妊を気にしていないとは一体何を根拠の言葉だったのか。きちんと話した上で納得させたのではなかったのか。王の子の存在を王妃が知らぬなどとは、あってはならない事態ではないか。

 あの優しい方を傷つけたくはなかったのに。これでは、あの方には王がシャスティエに心を移したように見えてしまうのではないだろうか。


 ――どうせ勝手に良いように解釈していたのでしょう。


 ろくに話もしないままで。戦いのことばかり考えて。シャスティエは何度も懸念を訴えていたというのに。

 瞑目して頭を枕に押し付け、口中に血の味が滲むほどに唇を噛み締めても、王への怒りは収まらない。信じて待つ、と言ったのはグニェーフ伯や侍女たちの手前、表面を繕っただけ。あの男がミーナのことを何ひとつ見ていなかったと分かった今、何を信じろというのだろう。


「シャスティエ様――」


 怒りと痛みで転がる姿がよほど危うかったのだろう、イリーナが慌てたように駆け寄ってきた。細く柔らかい手で腕や腹をさすってもらえば、少なくとも身体の緊張を和らげることはできた。


「薬をお持ちしましょうか? それとも温かいお茶とか……甘いものでも……」

「そうね、お茶をお願い」


 心身ともに疲れきっている上に子宮の痛みもあって、ものを食べる気分にはならなかった。ただ、このままでは胎児に良くないのも分かっているから、せめて身体の緊張だけでも解かなければならないのだろう。


 どうやらイリーナだけでなく召使に至るまでシャスティエの様子を窺っていたらしく、湯気を立てた茶がすぐに運ばれてきた。やや行儀悪く、寝台に半身を起こした姿で茶を啜れば、全身に凝った血が溶けて流れ出すような心地がした。胎児も安堵したのか、動きも少しは収まって、母もようやく休むことができそうだった。


「王もすぐ戻ると言っていましたし、王妃様のご様子も聞けると思いますわ」

「戻らなくて良いわ。ミーナ様のご機嫌を窺う方が大事だもの」


 とはいえ、王のことを思うだけでもまた腹が張ってくる。戻って何をする気だというのか、どういうつもりであのようなことを言ったのか、さっぱり分からなくて落ち着かないのだ。

 どうせ会ったところで苛立ちが増すだけだし、ミーナの不信と心痛がすぐに癒えるはずもない。ミーナがまだ王を慕っているなら、という前提のもとではあるが――ずっと傍にいて慰め労わり謝るべきだろうと思う。


「でも、王が帰ってからまだ一度も会ってはいないではないですか」

「必要がないでしょう?」


 ティゼンハロム侯爵を追い詰めるのにはシャスティエの手元の証拠(毒薬)証人(エシュテル)が必要だ。その段になれば計画を詰めることも必要だろうが、先の一幕でそれも遠のいてしまった。ミーナに父の失脚を呑み込ませてから、ということだったのに、王が手回しを怠ったのだ。


「でも」

「何なの」


 おずおずと、イリーナが異を唱えようとする気配を察して、シャスティエは首を傾げながら茶を飲み干した。


 懐妊以来、侍女たちの言動はどうも腑に落ちないと思う。子を愛おしみ夫に頼るのが当然だとでも思っているかのような。無論、そうでないのは彼女たちにも分かっているようなのだけど。命を狙われ乱で王の不在も長かったために、()()()心持ちでいられないのが哀れだとでも思われているようなのだ。


 ――何もなくてもそう気分は変わらないと思うけど。


「王だって御子の成長が気になるはずですもの。毒で狙われたなんて聞いたら、心配しているはずですわ」

「まさか」


 言下に否定しつつ、空いた茶器をイリーナに返す。


 ティゼンハロム侯爵の企みを聞いて、王が怒ったのは恐らく事実だろう。しかしそれは王の権威への反逆に対して。あるいは侯爵を退ける鍵となる御子を失いかねなかったからでしかないと思う。

 散々楯突いて怒らせてきたし、お互い利害が一致するだけの関係だ。ミーナに対するのと同じような情など、こちらの方でも望んでいない。


 ――王が来なければゆっくり休むことができるわ。


「しばらく横になっているわ。ひとりにして頂戴」


 だからシャスティエは腹を庇って寝台に横になると、形ばかり目蓋を閉じた。眠れぬまでも、目から入る情報を遮断すれば身体を休めることができると考えたのだ。




 しかし、シャスティエの予想と望みに反して、王は言葉通りにその夜にはまた離宮を訪れた。


「遅くなったな」

「いえ……」


 ――来なくても良かったのに。


 心中で思ったとしても、言葉にも表情にも出す訳にはいかないから、シャスティエはただ機嫌を傾ける。できることならずっと横になっていたいのに、王を迎えるとあってはそのようにだらしない姿はできないではないか。


「ミーナ様のご様子は、いかがでしたでしょうか」

「結果的に黙っていたことになったのを詫びたし、お前が懐妊したからと蔑ろにするつもりはないと伝えた」

「そう、ですか……」


 それを聞いてミーナはどう思ったのか。本当に納得したのか。一番肝要なのはそこだろうに、王は分かっているのだろうか。

 王への不信は根強いけれど、疑いを口に出すのも無礼だとは分かっている。だから言葉を探して俯いていると、王が不意にシャスティエを抱き寄せた。


「お前に祝いを伝えてくれと言っていたぞ」

「え……」


 久しぶりに王の声が間近に聞こえる。身体に響く低い声、自分とは異なる体温、肌で感じる硬い筋肉の動き、慣れない匂い。いずれもシャスティエの身体を強ばらせて鼓動を速めさせる。母の緊張を感じたのか、胎児がまた落ち着かなげに子宮の内側を蹴る。


「今回のことは俺の不手際でお前にも嫌な思いをさせた」


 悪かった、と。耳元に囁かれるのを、シャスティエは信じられない思いで聞いた。この男が、何であっても他人に謝ることなど想像もできない。実際に聞いた今でも、聞き間違いか夢ではないかと思うほど。


「いえ……」

「だが、ミーナはお前を嫌ってはいないようだ。今は驚きが勝っているかもしれないが、落ち着けば以前のようになれるだろう」

「驚き……だけでしょうか」


 ――やっぱり分かってないのかしら。


 ミーナの涙を見た後でもその程度の認識なのか、と。シャスティエは王を諌め咎める言葉を探しかけた。だが――


「悲しみや……怒りもあるだろうな。しかしそれは俺に向けるべきものだろう」


 王が抱き締める腕に力を込めながら言ったことに、二度驚かされた。


 ――反省しているというの?


 似合わない殊勝な物言いに、いつになく優しく触れる手に。纏めかけた考えも霧散する。その隙をついて、王はシャスティエの下腹に手を伸ばした。掌で膨らみをなぞる手つきも、閨での時とは違って慈しむようで。戸惑いしか感じない。


「留守中よく子を守ってくれた。……体調は、大事ないか?」

「……はい」


 折り良くというか胎児がちょうど王が触れた辺りを蹴った。父の声を聞き分けたかのような動きも、それを受けて王が嬉しそうに笑ったのも。この上なく落ち着かないことだった。

 この男も当たり前の親のように子を愛おしむのか。マリカの例があるのは分かっているけれど、シャスティエの子でも同じように思うのだろうか。先ほどのようにことごとく配慮に欠けた言動を見せてくれたくせに?


「あの――ティゼンハロム侯爵のことはどうなさいますか。ミーナ様がそのようなご様子では……」


 あまりにも落ち着かないから、シャスティエは敢えて無粋なこと、情緒の絡まないごくごく現実的なことを口にした。王の、いっそ甘いような声も態度も気味が悪くて仕方ないから。


「そうだな」


 そして王の声が硬いものに改まり、身体を離してくれたことに安堵する。そう、自分たちの関係はこのように冷たいものであったはずだ。


「ミーナ様が落ち着かれるのを待つのでしょうか」

「いや。今日のことはすぐにリカードの耳に入るだろう。娘を傷つけたと抗議に来るだろうから――そこを、迎え討つ」

「そんな……それでは――」


 側妃の懐妊を知っただけでも耐え難い心痛だろうに、直後に夫と父の対立を目の当たりにしなければならないなんて。


 ――ミーナ様は立ち直れなくなってしまうのではないの?


 心中に真っ先に浮かんだことを口にする暇を、王は与えてはくれなかった。有無を言わせぬ強い口調と眼差しは、シャスティエにとっては馴染みがあるが――だが、怖い。


「だから証拠と証人をもらいたい。――良いな?」

「はい……あの侍女も捕らえておりますから」

「準備不足は否めないが、それはあちらも同じこと。……ミーナも、赤子殺しは忌むだろう」


 だから分かってくれるだろう、と。言外に言われてもシャスティエには納得しがたかった。何といってもミーナにとっては父親なのだから。他人の子よりも、実の父の側に立ちたくなるものではないだろうか。いや、それよりも。


 ――また知らない間にことを進めるつもりなの……?


「追求の場には、この離宮をお使いくださいませ。それに、私も同席させていただきます」

「何を言い出す……!?」


 バカげたことを、と言いたげに顔を顰めた王に、それ以上は言わせずに早口に続ける。


「グニェーフ伯――イルレシュ伯も守ってくださいますでしょう。何なら他の方も呼んでくださいませ」

「…………」

「私は当事者なのですよ。……ミーナ様も」


 ミーナの名に、王の表情も改められた。無謀を咎めるものから、進言を吟味するものへと。


「辛くとも事実が知りたいと。ミーナも、そのようなことを言っていた……」


 ――ミーナ様が……?


 王が目を伏せた――その何かに耐えるかのような表情に、シャスティエも胸を突かれる思いがする。やはり、彼女も考えていた通り、あの方は周囲が思うよりずっと多くのことを思い悩んでいるのではないか。


「陛下……」


 懇願の口調で呟けば、王は一層顔を顰めた。しかし、ついに重い口が開かれる。その時の表情は、戦いに赴く時のそれに似て。


「分かった。明日にもここに関わった者を集めよう。――ミーナも、含めて」


 戦場で行われるのではない戦いが、明日始まるのだ。

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