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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
13. 揺らぐ絆
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ふたりの妻たち ファルカス

「ミーナ、待て……っ!」


 走り去る妻の背をファルカスは呆然と眺めた。走るとはいっても女の靴と衣装では出せる速度もたかが知れている。いつもの彼ならばほんの数歩で追いつくことができる――はず、だったのだが。

 今、彼の腕の中にはもうひとりの妻がいる。身重のところを命を狙われ、つい先ほども悪意ある言葉を浴びせられて白い顔を一層青ざめさせている、妻が。手を離せば倒れてしまいそうな風情のこの女を放り出すことはできない。しかし一方で、泣きそうな顔をしていたミーナのことも追いかけなければならない。


 非常に珍しいことだが、彼は対応を迷って立ち止まってしまったのだ。


「陛下っ! 私など構わず、ミーナ様を……!」


 そこを、腕の中に庇った側妃に叱咤されて苛立ちと共に我に返る。いまだに蒼白な顔色の癖に、声だけははきはきとして尖っているのが小憎らしい。


「だが――」

「この場は臣が預かりますゆえ。陛下は、どうか王妃陛下を」


 王の言葉を遮る無礼を犯したのは、イルレシュ伯だった。ミーナに仕える者たちが側妃に危害を加えようとすることを考慮して、密かに待機させていたのだ。蓋を開けてみれば、老伯爵が出るまでもなく王妃は自ら逃げ出したのだが。


 ――側妃に会うのを楽しみにしていたようだったのに……なぜだ……?


 側妃の離宮を訪れると告げた時のミーナの笑顔を思うと、今しがた見せた強ばった表情は不可解だった。


「小父様」


 だが、そのような懊悩も、腕の中から側妃の温もりが失われたことで中断させられる。彼のふたり目の妻であるはずの女は、嬉々として夫の腕からすり抜けて同郷の老臣に頼ったのだ。


 何か理不尽な苛立ちを覚えつつ、とにかくもこの場の懸念は確かになくなった。だが、ミーナを追おうと足を踏み出した瞬間――


「ミーナ様のところへなんか行かせない……!」


 足元を塞ぐようにミーナの侍女が睨め上げてきて、ファルカスの苛立ちを掻き立てる。


 ――この女……!


 ミーナに対すると同様にリカードへの忠誠も篤く、側妃の子を狙った企みで実際に動いたのもこの女だったという。蹴散らして進まなかったのは、それをしては殺しかねず、リカードの悪事の証人を失うのは惜しかったというだけだった。

 ほとんど蹴り飛ばすようにして女を道から退けると、イルレシュ伯に命じる。


「この者を捕らえておけ。リカードへは報告させるな」

「はっ」


 側妃の子が流れていないことは、まだリカードには伏せておきたい。だからこの女を取り押さえることは初めから計画の内だった。だが、今の状況はどうにも想定を外れていっているようにしか思えなかった。

 とにかく早くミーナと話をしなくては。会って、涙の理由を質さなければ。しかし、女の悲鳴のような叫びがまた彼の足を止めさせる。


「ミーナ様は知らなかったのに! どうしてまだ生きてるのよっ!?」


 歩き出しかけていたところを振り向けば、女は両側から腕を取られて拘束されようとしていた。だが口を塞ぐことまでは誰も思いつかなかったのだ。側妃の顔からまた一層血の気が引いて、蝋のような顔色になっている。


「どういうことだ」


 妻への暴言であることを差し引いても、女の言葉は聞き捨てならなかった。側妃の胎の子を亡き者にせんとの計画は――煮え滾るような怒りと共に――承知してはいたが。女の言葉は、更に彼の妻()()への悪意が感じられたのだ。


「他の女が夫の子を孕んだと聞いて、喜ぶ妻がいるはずありませんでしょう」


 女は不敵に微笑んだ。ミーナを訪れる度、視界の端には収めていたはずの顔が、見たこともないほどはっきりと嘲りを浮かべていた。両腕を捻り上げられた痛みもあるだろうに、その笑みには勝ち誇る色さえあった。と、その表情が憎悪に歪む。


「ミーナ様がお気を煩わせることのないようにして差し上げたのに……! ティゼンハロムの恩を忘れてそんな女に溺れるなんて!」

「貴様――」


 妻子を狙った計画に気付かず、しかもそれを為した者に嗤われた。たかだか女風情だというのに。心ならずもリカードの力に頼っていたことをあてこすられた。

 女の言葉は実に的確にファルカスの矜持を傷つけ、知らず、拳を握らせていた。


「陛下っ!」


 (それ)を振り下ろすことがなかったのは、側妃の高い声が止めたからだ。力なくイルレシュ伯にもたれているくせに、相変わらず声だけは張りがあってよく通る。


「そのような者に構っている場合ではないかと存じます。早く、ミーナ様のところへ……」

「…………」


 女に対して拳を振るう醜態を晒さずに済んだことを、感謝すべきなのだろうか。しかし女に意見されるのも、それに従うのも業腹だった。


 ――ミーナは……知らなかった……!?


 たった今突きつけられた事実――ひとり目の妻に彼がしたことに対しても、言いようのない怒りがある。側妃を案じ、しきりに会いたがっていたミーナのことを、彼はただ優しく素直なのだと解釈していたのだが、それが無知ゆえだったとしたら。彼女を誰より傷つけたのは彼自身にほかならないのではないか。


 先ほど彼は迷いによって立ち止まってしまった。今、彼を縛るのは自身に向けた憤り。更にそれを誰にぶつけることもできないという苛立ちだった。


 そこへ、彼を叱咤する声がある。


「陛下。クリャースタ様は必ずお守りいたします。その女も――貴重な証人でございましょう!? 自害などすることがないようにしなくては……!」


 イルレシュ伯はさすがに経験がある、のだろうか。王を促しつつ、侍女に手を上げることがないような口実を与えた――と、彼は解釈した。


 ――感謝しなくてはならないか……?


 瞑目し、息を深く吸って、吐く。胸の内の怒りを抑えるのは、彼が長年よくしてきたことのはずだから。短慮によって全てを失いかねないのは、身に染みて理解しているはずだから。

 だから、動かなくてはならない。失態を犯したのだとしても、悔やむのではなく取り戻すことを考えるのだ。


「――そうだな」


 目を開ければ、唇を結んだ不安げな表情の側妃が映る。侍女の暴言以上に、ミーナの機嫌を気に懸けているのだろうと思う。今になってみれば、この女の懸念はあたっていたのか。ならば、それを除いてやるのが夫の務めだ。


「ミーナと話してくる」


 側妃の碧い目を真っ直ぐに見ながら、告げる。この女は彼を信用などしないだろうが、せめて筋を通したかった。妻子のいずれをも守りたい、と。それが、彼の偽らざる本音なのだ。リカードが何を企もうと、邪魔をさせはしない。


「必ず分からせる。お前が案じていたこと、お前が好んで伏せていたのではないということを」


 イルレシュ伯の腕の中、側妃は細い眉を寄せた。この女に関しては非常に見慣れた表情だった。だが、今この時に限っては常の強気さがなく、弱々しさや儚さが勝る。


「……信じて、お待ちしておりますわ」


 言葉とは裏腹に、硬い声には不信が満ち満ちていた。顔も、顰められたまま。とはいえ口先だけでも頷いてくれたのは、この女にしてはかなりの譲歩をしてくれたと思って良いだろう。


「すぐ戻る」


 とりあえずはその一事に感謝しつつ、ファルカスは今度こそミーナがいるであろう王妃の居室へと急いだ。




 ――リカードめ……!


 走るような早足で王宮の廊下を進むにつれて、胸の奥底から怒りが湧き上がる。側妃の懐妊が知れた後、リカードが娘――ミーナの前ではその話はしないようにと釘を刺してきたのを思い出したのだ。父の口から知らせる、娘の心中を慮れと言っていたが、結局のところそもそもミーナに知らせるつもりはなかったのだ。


 それが指すところは、ひとつ。リカードはあの時既に側妃の子を殺す算段を立てていたのだ。王妃が知ることさえしないうちに、王の子を亡き者にしようとしていたとは。何という傲慢、何と唾棄すべき狡猾さか。


 ――絶対に許さぬ……!


 王妃の部屋の扉まで辿り着くと、控えていた侍女たちが慌てた様子でざわめいた。どれも怯えたような表情で、彼の剣幕の前に逃げようとして、それでも務めに忠実であろうと立ち塞がってくる。


「お、王妃様はどなたにもお会いにならないと――」

「王に――夫に会わぬはずがない。退け」

「でも……」


 なぜ今日に限って女相手に凄まなくてはならないのか。ややうんざりとしながら侍女たちを押し退けようとした時だった。扉が細く開き、小さな影が彼に飛びついてきた。


「お父様!」

「マリカ。母は中だな? どうしている?」


 そっと抱きとめた父の腹の辺りに、マリカは頭突きをするように激しく顔を埋めてきた。


「お母様、泣いてるの。どうしてすぐに来てくれなかったの? お父様、ひどい!」

「そうだな……」


 幼い娘に詰られても、返す言葉のあるはずがない。だからファルカスは苦い思いを飲み込んでただ頷いた。


「だから謝りにきた。……入れてくれるか、聞いてもらえるか?」


 マリカは一瞬顔を顰めて父を睨んだが、すぐに頷くと再び扉の中へ姿を聞こえた。


 そして母と娘の囁き交わす声が聞こえることしばし――彼は、やっと入室を許された。




 室内に入れば、窓も開けず灯りもともさない薄暗がり。その中で、妻は寝台に蹲るようにして膝を抱えていた。顔は解いた黒髪に埋もれて。しかし、人の気配を感じたのか顔を上げ――夫の顔を認めて頬を強ばらせる。


「ミーナ」


 呼びかけながら、妻の隣に掛けると、身体をずらして逃げられた。それを無理に抱き寄せて、言う。


「すまなかった。お前は知っているものと――だが、事前にもっと話しておくべきだった」

「ファルカス様……」


 いつもならば甘えながら擦り寄ってくるはずのミーナなのに、今は腕を突っ張って彼を拒む。そこまで不信を募らせていること、それに気付かず過ごしてきたこと。いずれの事実もファルカスに深く刺さって胸を痛ませる。


「あの、何も言わずに出て行ってしまって申し訳ありませんでした。なんて無作法な……それだけ、お詫びを申し上げなければと思いましたの」

「ミーナ」

「私のことなど良いですから……シャスティエ様のところへいらっしゃって。お会いすることはできないけど、エルジー――エルジェーベトが申し訳ないことをしたとお伝えしてください。あと……お祝いを。おめでとうございます、と」

「ミーナ、聞け」


 目を逸したまま早口に囁く妻をどうすれば良いか分からず、ただ抗うのに逆らって強く抱き締める。


 ――おめでとう、か……。


 振り返れば、この優しい女がその言葉を言わなかったのを不思議に思うべきだった。真実側妃の懐妊を歓迎しているならば、容態を知りたがったり産着などを用意しようとしたりしてもおかしくなかったのに。ティグリスの乱で、そのような時間をろくに取ることができなかったという事情はあるにしても、彼は妻の心情を蔑ろにしてしまっていたのだろう。


 強引に顎に手を添えて上向かせると、ミーナの黒い目は潤んでいた。全身にも力が入っていて、彼の言葉に聞く耳を持っているのかどうか不安にさせられる。何を言っても今更、と思われるだろうか。だが、何も言わなければこのままだ。


「あの者が懐妊したからといって、お前を軽んじるつもりなどない。お前は俺の妻ではないか? それに変わりがあるとでも思うのか?」

「だって……私は何もできませんもの。シャスティエ様のように賢くもないし……役に立たない女ですもの」


 それか、と思った。

 側妃のようになりたい、とはミーナが繰り返し訴えていたことだった。また子供が欲しいという意味かと捉えてあまりの無邪気さが心配になったこともあったが。留守の間、しつこく務めを欲しがるのも不可解だったが。側妃への対抗意識――というか、引け目とでも呼ぶべき感情なのだろうか。


「そのようなことはない」

「でも……」


 強く断言して抱き締める腕にも力を込めると、ミーナの抵抗はわずかに和らいだ。それでも彼の言葉を信じきるには至らないのか、弱々しく首が振られる。


 ――全てを教えれば……お前は納得するか……?


 今、彼が何よりもミーナに求めるのは父親との決別だ。夫と父との対立を理解した上で、彼の側についてくれること。側妃の子を世継ぎとするのを認めてくれること。夫と同様に父も慕うミーナには、受け入れがたいことだろう。

 涙を浮かべるミーナはあまりに弱々しく、しかもそこまで追い詰めたのは彼自身だ。一時に妻の足元を全て崩すような真似をするのは憚られる。側妃の懐妊自体を初めて知ったこの時に、そこまでの現実を突きつけても良いものか、ファルカスには判じかねた。


「……乱の後、お前の顔を見て初めて帰ったと実感したのだ。そのように感じさせる者は、妻の他にいるというのか?」


 だから、宥めるように口にしたのは聞こえが良いであろうことだけだった。だが、事実でもある。無知であることを強いてきたのは彼やリカードの罪ではある。だが、彼の血濡れた手を知らないミーナやマリカの微笑みは、確かに彼を癒したのだ。それだけは、伝えておきたかった。


「シャスティエ様も……そうではないのですか……?」

「違う。あれに、お前にできないことができるのは事実だが……その逆も、また真実だ」

「でも、私が何かしたという訳では――」

「それでも。お前が迎えてくれたことは、他の何にも代えがたい」


 かつて、彼は側近の前で妻たちを比べた。酒席の上での戯れに、ごく軽く冗談のように。どうしてあのようなことができたのか分からない。今、ミーナと側妃を比べてどちらがどうだと述べるのは、どちらに対しても後ろめたさが伴った。


 ファルカスの顔も声も、恐らく硬く張り詰めていただろう。それを真摯さと見てくれたのか、ミーナの身体の力が緩み、彼の腕に収まってくれる。


「嘘です……」


 まだ言葉では否定するのは、信じて裏切られるのが怖いからか。周囲の者たちの嘘を、嗅ぎ取ってしまったからか。妻を頑なにさせるのも、言葉をそのままに受け取ってもらえないのも、やはり彼の咎なのだろう。


「嘘ではない……」


 ミーナの涙を口づけで拭い、一層強く抱き締めながら、ファルカスはこの思いが伝わることを切に願った。

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