相応しくない ウィルヘルミナ
ウィルヘルミナの耳に、幾つかの声が刺さってくる。
「どうした? あんなに会いたがっていたではないか」
これは、愛する夫の声。ごく近くに、支えるように立っているから、低い声が彼女の身体に響いている。いつもなら蕩けるように嬉しい感覚で、この上ない安心を得られるはずの響きなのに、今はなぜか遠くに聞こえる。
「ミーナ様! お気を確かに……! しっかりなさって!?」
これは、信頼する乳姉妹で侍女の、エルジェーベトの声。どういう訳か低い位置から聞こえるそれ、今まで聞いたことがないほど必死な声は、悲鳴のようでさえある。
「ミーナ様……このような姿で申し訳ございません。でも、ずっとお会いしたいと思っておりました……!」
最後に、これは歳下の美しい友人、シャスティエの声。異国の人だからか、不思議な抑揚のある澄んだ声は、長く聞くことができていなかった。しばらく不調だとも聞いていたから、無事な姿を見て安心しても良いはずなのに。でも、耳に心地よいはずの涼やかな声も、エルジェーベトと同様にかつてなく緊張して気の毒なほど。
――このような姿……?
言われて初めてものを見ることを思い出したかのように、ウィルヘルミナは目を上下させてシャスティエの全身を視界に収めた。金の髪が変わらず眩い彼女が何を指しているかは、すぐに分かる。細身の少女の下腹には、明らかな膨らみがその存在を主張していた。
――どうしてそんな仰り方をするのかしら。
最初、ウィルヘルミナは卑下するようなシャスティエの物言いに首を傾げた。シャスティエの腹の膨らみの意味は、世間知らずの彼女にとってさえも明らかだ。何しろ彼女自身も経験したことでもあるのだから。懐妊して子を得ることは、女としては無上の喜びではないのだろうか。どうして、まるで悪いことであるかのように言うのだろう。
――お祝いを、言わなくては……。
「あ……あの……」
おめでとう、と。たったそれだけのひと言が、妙に喉に詰まったようで上手く声に出すことができなかった。その間にも、夫とシャスティエが見つめてくるのが分かる。だから、必死に言葉を絞り出そうとするのだが――
「この売女! よくもミーナ様の前に姿を見せられたものね!?」
彼女が声を取り戻すよりも、エルジェーベトが後ろから叫ぶ方が早かった。
――何て、ひどいことを!
暴言を浴びせられたシャスティエの顔が青ざめるのを見て、ウィルヘルミナも血の気が引く思いをする。頬からすっと熱が下がって寒いとさえ感じて。侍女の無礼を詫びなければ、と思いながらも咄嗟に口も身体も動いてくれない。
「――大丈夫か。倒れたりなどはするなよ」
だから、彼女はまた遅れてしまった。傍らにいた夫が誰よりも早く進み出て、シャスティエに手をのべて支えたのだ。
「はい……」
それを見て、ウィルヘルミナは一層の冷気を感じた。白い顔で夫に凭れるシャスティエは、それでもとても美しくて。守るかのようにその細い身体に寄り添う夫と並ぶと、誂えたかのように似合いのふたりだと見えた。
――シャスティエ様の御子は――ファルカス様との……。
その姿を見れば嫌でも悟る。そう、女ひとりで子を授かることはできないのだ。それにシャスティエは夫の側妃になっていた。ウィルヘルミナの他の、もうひとりの妻。それならば、前提として当然ふたりは――
「あ……」
ウィルヘルミナの頬が熱くなり、そしてまた瞬時に血が下がる。目の前の美しいふたりのそういう姿を思わず想像してしまい、その無躾さに恥じ入った後に、何も知らない――できない自身を顧みてしまったのだ。
――シャスティエ様は……何もかも……。
目の前の少女は、ウィルヘルミナよりも若く美しい。金を紡いだような髪も宝石のような碧い瞳も、会う度に見蕩れさせられる。生まれはミリアールトの王族で、異国にあっても通用する立ち居振る舞いは優雅そのもの。夫に進言できるほどの知識も備えているらしい。
それに引き換え、ウィルヘルミナには何もない。
父も夫も可愛いと、ただ笑っていれば良いと言ってくれるけれど。彼女自身も、長年その言葉に甘えてきたのだけれど。でも、シャスティエというもうひとりの妃を目の前にすると、彼女はどうしようもなく不出来な女に過ぎなかった。
何も知らない。何もできない。マリカの養育は任せられているけれど、彼女は十年の間に娘をひとり授かっただけ。対するシャスティエは数ヶ月も経たないうちに夫の子を宿している。
「ミーナ、どうした? その女には構うな。こちらへ来い」
夫の差し出す手から逃れるように、ウィルヘルミナは一歩退いた。どうしてふたりの間に割って入ることができるだろう。夫の役に立つ妻になれるかも、と。夢見ながら帰りを待っていたのは思い上がりも甚だしかった。こんな無知な女が出しゃばったところで何になるのだろう。
――シャスティエ様の方が、ファルカス様に相応しい……!
ウィルヘルミナはただふるふると首を振った。頭の中によぎる思いはもつれた糸玉のように絡まっていて、はっきりと言葉にできるようなものではなかったから。何より無理に声を出そうとしたら今にも涙が溢れそうだった。例え役に立たない妻であっても、人前でそのような醜態を見せる訳にはいかないことくらいは分かっている。
「ミーナ!」
夫の声にも表情にも苛立ちが滲んで、ウィルヘルミナを更に慄かせる。どうしてこの人は彼女のことを呼ぶのだろう。傍らにはシャスティエがいるのに。あのように美しく賢い人と並んだりなんかしたくないのに。
「ミーナ様……私は――」
――聞きたくない!
シャスティエが口を開いたのを見て、ウィルヘルミナは咄嗟に背を向けた。この少女が優しい気性の持ち主だということは分かっている。きっと何か慰めることを言おうとしてくれたに違いない。でも、今の彼女にはそれを素直に聞き入れることはできそうになかった。これは、彼女の側の問題。打ちひしがれてひねくれた今の心持ちでは、何を言われても惨めになるだけな気がした。
聞いたら、きっと泣いてしまう。
「ごめんなさい!」
叫ぶなり、ウィルヘルミナは駆け出した。逃げたのだ。この場に自分の居場所などないと思い知らされて、これ以上留まることなどできなかった。
――私なんかが……!
父や夫やエルジェーベトは正しかった。彼女は何も知らない方が良かった。皆、彼女が何も出来ないのを分かった上で守ってくれていたのに。今になって余計なことを考えたばかりにこんな痛みを味わうことになるなんて。
夫とシャスティエと。ずっと仲良くいられると思っていた。だから耳慣れない側妃という言葉も受け入れようとしていた。でも、受け入れるという発想がまず傲慢だった。何もかも劣っているのはウィルヘルミナの方なのだから、彼女が王妃でいられるのは夫の慈悲でしかないのだ。全てを知った上で、その優しさに縋り続けるなど図々しい。
「ミーナ様……!」
シャスティエとエルジェーベトの声がウィルヘルミナの背を追った。夫が身じろぎする気配もする。けれど引き止められることはないだろうと確信していた。夫はシャスティエを支えているのだから。大事な身体で、あんなに白い顔をしていた人を夫が放り出すはずがない。
「どいて! 通して!」
侍女たちを押しのけるようにして、ウィルヘルミナは自室への道を駆け戻った。
夢中で駆けて――彼女がようやく我に返ったのは、自室の扉を背後に閉めた時だった。こぢんまりとした心地よい空間で、やっとひと息つける。そう思った瞬間、不思議そうな声が聞こえてウィルヘルミナは小さく跳ねた。
「お母様、もうお帰りなの……お父様は?」
見れば、息を切らせた母の姿に、マリカが首を傾げている。先ほど出かけたばかりの母がひとりで、それも涙をこらえたように張り詰めた表情で帰ったのだ。子供でも奇異に思って当然だろう。
何か言い訳をしなければならない。でも、今の自分にできるだろうか。娘の無垢な瞳を前に嘘を吐くことを思うと、心臓が痛むような軋みを訴えた。
「何でもないのよ、マリカ。何でも……」
無理に浮かべようとした微笑みは、子供騙しにすらなっていなかったらしい。マリカもくしゃりと顔を歪めるとウィルヘルミナに抱きついてきた。
「お母様、泣かないで……」
「泣いてなんか」
ない、と言おうとした時、娘の指先が頬に触れた。そこには確かに濡れた感触があったので、ウィルヘルミナは驚きに目を瞠った。こらえていたつもりなのに、いつの間にか涙が溢れ出ていたらしい。
「……本当に、何でもないの……」
「嘘!」
娘を抱き寄せて涙を見せないようにしようとすると、でも、マリカは細い腕を突っ張って母の顔を睨め上げた。
「悲しいことがあったの? お父様は守ってくださらないの!?」
「お父様は……」
シャスティエを抱き寄せるように支える夫の姿が蘇って、またウィルヘルミナの喉を詰まらせた。それを軽い咳払いで誤魔化して、娘と目線を合わせるように膝をつく。
「お父様は、お忙しいの。お母様に構っている場合ではないのよ」
無理に笑って、言葉でそうと認めると胸が張り裂けそうに痛んだ。
夫が戦いに出ている間、無事を祈って待ち続けるのは、彼女にとっては慣れたことだった。戦いは殿方のものであって、女の出る幕ではないと教えられて、彼女もそうと信じてきたから。それだけに、夫が帰った後は思う存分甘えるのがこれまでの常だったのだけど。それももう叶うまい。
王の子を宿し、勝利をもたらす策を進言できるほどの妻は、誰よりも守るべき尊重すべき存在のはず。夫がこれ以上ウィルヘルミナに構ってくれることは、期待してはならないだろう。
「仕方ないことなの……」
とはいえ不満などあるはずもない。笑っていることしかできない妻なのに、十年に渡って大事にしてもらったと思う。今までが幸せ過ぎただけなのだ。
――私にはマリカがいるし……ファルカス様だってたまには来てくださる、はず……。
「じゃあ、私がお母様を守るわ!」
残されたものを数え上げて自身を慰めようとしていたウィルヘルミナは、間近に聞こえた高く力強い澄んだ声に思わず息を呑んだ。
声を発したのは、もちろんマリカ。十にもならない幼い娘が、父親譲りの青灰の瞳に強い決意を浮かべて、小さな拳を握って母を見上げていた。
「ラヨシュに剣の持ち方を教えてもらったの。アルニェクも頼りになるし……お父様がいなくても、ちゃんとするから!」
アルニェクとはマリカの犬の名だ。影のような黒い毛並みだから影、と。やや安直な命名は、父の愛馬に倣ったものだ。呼び間違える機会もないだろうからと、夫は苦笑しつつ許していた。その場面を見たウィルヘルミナは、父娘は似るものだと笑っていたのだが。
――何て、強い目……。
似ているのは、端的な名前のつけ方だけではなかった。王女であることに加えて、顔かたちは母であるウィルヘルミナに似ていたから今まで気付かなかったけれど――
「マリカ……貴女はお父様にそっくりなのね……」
「お母様……!?」
突然抱きしめられて、マリカが戸惑ったように身をよじった。けれどウィルヘルミナには離す気はない。懐妊を知った瞬間から今日に至るまで、娘は彼女の何よりの宝物だった。でも、その本当の尊さに、今初めて気付いたような思いさえする。
娘が夫から受け継いだのは、瞳の色だけではなかった。真っ直ぐで強い気性、怯むことのない勇敢さも間違いなく父親のもの、彼女が愛する夫のものだ。
「貴女がいて、良かった……」
王子だろうと王女だろうと関係ない。マリカがいてくれるだけで、夫の妻になったことに意味がある。彼女が夫を愛した証が、確かに存在していてくれる。
――これからどうなるかは分からないけれど……。
夫に、シャスティエに会うのはまだ怖い。あのふたりとどう向き合えば良いか分からない。夫に愛想を尽かされたら。シャスティエの子が生まれたら、少なくとも夫は喜び夢中になると思う。
夫が言っていた通り、世界を知ることは恐ろしいことでいっぱいだった。
でも、娘さえいれば。こんなに幼いのに母を守ると声と拳を上げてくれる可愛い娘のためならば。耐えて、前に進むこともできるかもしれない。
ウィルヘルミナはそう信じて、小さな愛しい温もりを抱き締めた。