表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
13. 揺らぐ絆
133/347

暴かれる嘘 エルジェーベト

「どちらが良いかしら。シャスティエ様はご不調ということだから、落ち着いた色が良いかしら。それとも気分が塞がれているならこちらの方が……?」


 側妃の離宮を訪ねることになっている、その当日。ミーナはどの衣装にすべきか頭を悩ませているようだった。様々な色の衣装を広げた王妃の居室は、季節外れの花が咲き乱れたような鮮やかな色彩に溢れている。


「明るい色の方がよろしいのではないでしょうか。花も少ない寂しい季節ですもの」


 あの女に会うのが楽しみでならないといった浮かれようは、かつてのエルジェーベトなら我慢ならないと思っていたことだっただろう。しかし今は心穏やかに主を着飾らせることだけに集中できる。


 王の帰還以来、側妃は不調を理由に王と会おうとしていないということだ。常ならば、そこで無理を押すほど王はあの女に溺れてはいない。しかし、今あの女は王の子を孕んでいる。懐妊していながら不調とは何事かと、王は苛立ちを募らせたようで――半ば強引に、王妃を伴って見舞いに行くと取り決めたのだ。


「そうかしら」

「ええ。ミーナ様もその方がお好みでしょう?」

「そう、だけど」

「お髪も結わなくてはなりませんから、そろそろ決めていただきませんと」

「……じゃあ、やっぱりこちらにするわ」


 そう言って、ミーナはエルジェーベトが勧めた薄紅色の華やかなドレスを手に取って侍女を大いに喜ばせた。彼女の助言を聞き入れてくれるのは、どのような些細なことでも嬉しいものだ。


 ――あの女にも早く見せてやりたい。健やかで美しいミーナ様のお姿を……!


 エルジェーベトはリカードの命に従ってバラージュ家の姉娘、エシュテルと密かにやり取りを続けていた。書簡を託した息子のラヨシュはさすがに聡くて、人に見咎められることも手紙の中身を聞いてくることもなく、便利な遣いとなってくれた。息子を生んでおいて良かったと、エルジェーベトが心から思った数少ない瞬間だった。


「さあ、どのようにいたしましょうか……?」


 ミーナの絹のように滑らかな髪の感触を指先で堪能しつつ、エルジェーベトの心は意地の悪い喜びに満たされている。


 エシュテルからの最後の手紙には、またとない吉報が記されていたのだ。リカードが授け、側妃に与え続けていた毒が、やっと功を奏したのだ、という。


 ――あの女、一体どんな顔色をしているかしら……。


 毒で蝕まれて、子を失って、さぞ窶れきっていることだろう。自慢の美貌もさすがに色褪せているに違いない。しかも王の怒りを恐れて怯えてもいるはず。憂いなく微笑むミーナの輝かしい美しさとは比べるべくもない、惨めな姿を見ることができるだろうか。


 ――使用人も罪に問われるでしょうね。あの小娘は助けてやらないと。


 生意気な小娘――エシュテルの姿を思い浮かべると、エルジェーベトの口元はさらに緩む。自分から言い出した策の癖に、あの娘は怖気づいてリカードやエルジェーベトの手を焼かせてくれたのだ。覚悟の足りない者ではあったけれど、どうにか側妃の懐妊はミーナには知られぬままで済ませることができそうだから、手間取ったのは不問にしてやっても良いだろう。


 リカードは若く見た目の良いエシュテルに目をつけていたようだった。王の怒りから救い、片腕となった弟を後見してやる代償に、エシュテルはきっとその肉体を差し出すことになるだろう。その時は、エルジェーベトがリカードの好む振る舞いを教えてやるつもりだ。良家の令嬢には想像もつかないであろうことでも、あの娘の立場なら否とは言えまい。


 嫌いな小娘ふたりの不幸が間近なことを、そしてミーナの幸せが揺るがぬことを確信して、エルジェーベトはいつもよりも浮き立った心持ちでミーナの支度を整えた。




「今日も美しいな」

「ありがとうございます」


 やがて王も現れて、ミーナの装いに目を細めた。無粋な、ごく短い賞賛にも頬を染めるミーナを、エルジェーベトは常々悔しい思いで眺めるものだった。そのような素っ気ない言葉でも喜ぶほどに、主は王に心を奪われているのだと思い知らされるから。ミーナは王をこの上なく愛しているのに、王は同じほどの思いを返していないのを不満に思わずにはいられないから。

 だが、今日に限っては。エルジェーベトの胸を焼く嫉妬も憤りも幾らかは大人しいようだった。王が側妃を責め立てる姿を目の当たりにすれば、ミーナは怯えるに違いない。王妃や王女の前では、王が声を荒げることなどほぼないのだから。

 訳も分からぬまま王の怒声や側妃の悲鳴――聞けるものなら――を浴びせられ、混乱の最中にある時、ミーナが縋るのはエルジェーベトしかいないはず。


 ――私がお慰めして差し上げるのよ……!


 主の柔らかい身体が自身の腕の中にいる瞬間を思うと、王への敵愾心を抑えることも難しくはなかった。


「今日はお見舞いだから、マリカはお留守番ね」

「はあい。お姫様によろしくね?」

「ええ、必ず伝えるわね」


 ここのところ、マリカの聞き分けが良いのも良い傾向だと思う。かつての王女ならば、絶対について行くと言って聞かなかっただろうから。あの女への関心が薄れているのか、成長して大人の言うことは聞くものと認識してくれたのか。いずれにしても、この分ならば側妃が消えたところで悲しんだり騒いだりすることはないかもしれない。


「次の時にはお前も連れて行ってやろう」

「ほんと!?」


 ――次、なんてないのに……。


 王の言葉にマリカは顔を輝かせたが、エルジェーベトは密かに冷笑するだけだ。王も、疑っているのではないだろうか。懐妊中の側妃が会おうとしないことを、怪しまないほど愚かではないだろう。わざわざマリカに次、などと言うのは、疑いを拭おうとでも言うのだろうか。空手形だったと分かれば、娘に嫌われてしまうだろうに。


「ファルカス様……シャスティエ様は……大変なご病気ではないのですよね?」

「ああ、心配いらぬ」


 不安げなミーナに対して王が頷いて見せるのも、軽々しいこととしか思えなかった。王のたったひと言でミーナの顔に安堵がよぎり、微笑みが浮かぶのも、やはりさほど腹が立たない。


 王は何も知らない。これから何が起きるのかを本当に知っているのは、エルジェーベトただひとりなのだ。




 エルジェーベトは王と王妃の訪れを告げるべく、一足先に側妃の離宮に入った。彼女が王宮のこの一角を訪れるのは二回目になる。一度目は、まだあの女が側妃になったばかりの頃のこと。毒入りの石鹸で肌を爛れさせてやったところを見てやろうとした時のことだ。


 ――今度はあの時のようにはいかないわ……!


 あれは、側妃への嫌がらせや牽制というだけではなく、側妃とミーナの間に不和の種を撒こうとしてのことだった。側妃という言葉の意味も分からないように育てたから当然といえば当然なのだが、ミーナがあの女に会いたがるのが気に障って仕方なかったのだ。

 あの女がミーナの指図と信じ、王妃を嫌うことを期待していたのだが――あの女は、白々しくも王妃を信じている、慕っていると言ってのけたのだった。

 全身をかぶれさせた無残な姿での負け惜しみとでも思わなければ、とてもやり過ごすことのできない生意気で憎たらしい物言いだった。あの時の苛立ちを思い出してエルジェーベトは唇を噛み締め――すぐに笑みの形に歪めた。


 もうすぐ、今度こそ、あの女の泣き顔を見ることができるはず。初めて見た時から美しすぎて高慢で鼻持ちならないと思っていた女。ミーナの幸せで穏やかな世界を脅かす敵だとひと目で分かったし、実際に側妃に収まった油断のならない女。それが、やっと片付くのだ。


「両陛下がいらっしゃいます。側妃様のご準備はよろしいでしょうか――?」


 あの女も、その周りの者たちも。どのような反応を見せてくれるのか、ひと目も見逃さずひと言も聞き漏らすまい、と。エルジェーベトは意識を凝らした。




「はい、お待ちしておりました」


 離宮の扉の前でエルジェーベトを迎えたのは、側妃が祖国から連れてきた侍女だった。主と同じく、イシュテンの者にはあり得ない金茶の巻き毛に、若草色の目。言葉もいまだに訛りが残って聞き苦しい。ミーナがあの女を招いた際に従っていたから、顔を合わせたことは何度もある。


 その若い侍女の声も表情も硬く強ばっていて、やはり側妃の子は()()()流れたのだろうとエルジェーベトに確信させた。だが、その割に離宮の中からは慌てた気配が伝わってこない。それどころか痛いほどの張り詰めた緊張が漂っていて、何かを待ちわびている風でさえある。

 この娘など、身体を張って王の訪れを止めようと立ち塞がっても不思議ではないほどの忠義面をしている癖に。


 どこか、おかしいと思った。


 ――まさか。


 嫌な予感を覚えて、エルジェーベトは辺りを見渡した。エシュテルも出迎えの中にいるのではないかと、探したのだ。彼女の目を恐れているのか、その姿を見つけることはできなかったが。

 あの娘が――怖気づいたのか裏切ったのかは分からないが――偽りを報告していたのだとしたら。あの女がまだ胎児を胎に抱えているのだとしたら。決して、ミーナに会わせてはならない!


「長くお召しにお応えすることができず、今日はわざわざご足労いただくことになってしまって。とても、申し訳なく思っております」


 離宮の扉が開き、その隙間から涼やかな声が聞こえてきた。侍女と同じ訛りの、しかしより力強く自信に満ちた声。怯えなどとんでもない、忌々しいあの女の声が、どこか勝ち誇る響きを帯びている。どういう訳か、美しく嘲る唇までが見える気がした。


 その瞬間――側妃の姿を見るまでもなく――エルジェーベトは失敗を確信した。礼儀作法をかなぐり捨てて踵を返すと、転がるように主に駆け寄る。


「ミーナ様! いらしてはいけません!」


 突然の叫びに目を見開いたミーナに飛びついて、目を背けさせようとする。側妃の腹など目に入ることがないように。夫の不実など知らないままでいられるように。しかし、それは叶わなかった。


「下がれ。――ミーナ、心配いらぬと言っただろう。この通り、側妃は無事だ」


 ミーナとの間に、王が割って入っていたのだ。鍛え抜いた体躯の王に、エルジェーベトが勝てるはずもない。駆け寄った勢いそのままに、横に払われてくずおれる。

 床に伏して見上げる先では、王がミーナの手を取って離宮の扉へと導いている。


 もう間に合わない。ミーナがあの女と顔を合わせてしまう。全てを知ってしまう。エルジェーベトの心は絶望によって凍りつき、引き裂かれた。


 ――このバカ!


 自国の王であろうとミーナの愛する夫であろうともう関係ない。エルジェーベトは心中で口汚く王を罵った。何が心配いらぬ、だ。無邪気でさえある王の口ぶりが、腹立たしくてならなかった。エルジェーベトの絶望は、間もなくミーナが味わうものでもあるのに、王はそれを知らないのだ。


 今になって王の余裕の意味が分かった、と思う。王は側妃の無事を知っていたのだ。エシュテルとも、どういう手段によってか通じていたのだろう。わざと偽りを報告させて――リカードもエルジェーベトも、疑いなくミーナを送り出すように仕向けたのだ。

 やはりあの娘を信用してはならなかった。か弱い振りも空涙も、エルジェーベトだって使う方便だったというのに。彼女はまんまと嵌められたのだ。嵌められて、主を悲しませてしまうのだ。


「ミーナ様! 止めて! 見てはダメ! ……行かないで……!」


 間に合わないのは百も承知で、叫ばずにはいられなかった。あの女はもう扉のすぐ内側にいるはず。扉が開かれれば、ミーナにとってさえも事態は一目瞭然だろう。


 ――ああ……どのように説明すれば良いの……。


 主の心中を思って心を痛めつつ、エルジェーベトは頭の片隅で保身にも頭を巡らせていた。側妃の懐妊を伏せていたことを、ミーナにはどのように釈明すれば良いのだろう。彼女も知らないことだったと、言い抜けることができるだろうか。いや、リカードも懐妊を知っていたことは、王の口からすぐに明らかになるだろう。ミーナはエルジェーベトのことを誰よりも信頼してくれているはずだが――このような隠し事をされていたと知った後でも、変わらないでいてくれるだろうか。


「ミーナ様……!」


 そして離宮の扉が完全に開け放たれた。辺りがわずかに明るくなったように感じられたのは、離宮の内では明るく灯がともされているのか。それともあの女の金の髪の煌きのせいか。まったくもって憎たらしい。ミーナは既に倒れたエルジェーベトを通り過ぎて、背中しか見えない。


「……シャスティエ様……?」


 だから、ミーナがどのような表情で呟いたのか、エルジェーベトは知ることができなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ