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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
13. 揺らぐ絆
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会合 アンドラーシ

 イシュテンの貴族、ことに男が移動に馬車を使うということはない。戦馬の神の加護の下、この国においては戦うことができるということこそが権威の源であり、車の中に守られる臆病者が崇められることはないからだ。

 カーロイ・バラージュが片腕を失ってもなお騎乗することにこだわったのはそのためだし、アンドラーシが真冬の寒風吹く中、毛皮に身を包んで馬を駆けさせているのも同じ理由だ。まあ、薄暗い車中で息が詰まる思いをするよりは、身を切る寒さの方が遥かにマシだ。雪や嵐ということもないし、凛とした冬の空気を肺に吸うのもこれはこれで悪くない。


 ただ、今日の道行きはどうにも居心地が悪かった。


 ――やりづらいな……。


 王都の近郊だから、道が荒れているということもなく、供を数人連れただけの気楽な外出のはずだった。訪ねる先が目上の家だから多少は肩の凝る出で立ちをしてはいるが、それだけなら何ということもない。アンドラーシは相手が歳上だろうと地位が上だろうと、敬意に値しないと見れば幾らでも手を抜いて相対する。愚者を相手に気を張るなど、無駄も良いところだとさえ思っている。


「バラージュ家の屋敷はもうすぐです」

「…………」


 訪ねる相手ではなく――ごく平静な声で告げた従者こそ、彼の居心地の悪さの原因だった。彼と同じ年頃で、身分に相応しく簡素な衣装を纏ったその男は、しかし、従者の割には体格が良い。


「王都を出た以上は人目もないはずですが。言葉遣いはいつもの通りという訳には――」

「半端なところで止めてしまっては、ここまでした意味がないかと存じますが」


 溜息混じりの苦言というか泣き言は、楽しそうな微笑によって撥ね付けられた。言葉遣いも物腰も慇懃そのものなのが、肌が粟立つほどの気味の悪さだった。アンドラーシとしては、この方のこのような姿は決して見たくないというのに。完全に面白がられているのだろうと思う。


「なぜ馬の脚を止めさせるのですか? バラージュの若君もお待ちでしょう」


 その従者は、(ファルカス)を思わせる鋭い青灰の目を細めて笑い、アンドラーシを――仮の主を急がせた。




 イシュテンでも有数の名家であるバラージュ家は、先のミリアールトの乱で当主を失い、その後を継いだ息子もティグリスの乱で片腕を失った。伝統ある家はかつてない窮地に立たされており、だから先の当主が勘当した娘も呼び戻されてもおかしくはない。


「ようこそお出でくださいました。弟もお待ちしております」


 という訳で、エシュテルが出迎えたのも当然のことだった。だが、今日はアンドラーシも見たことがある侍女の衣装ではなく、家の格に見合った出で立ちをしている。品良く着飾った姿も、彼に向けられた笑顔も眩すぎるように思えて、アンドラーシは少々困惑させられる。


「いや……弟殿をお守りすることができず……」


 何しろ、彼はこの娘に約束していたのだ。乱に際して、戦いの経験の浅い弟――カーロイを守る、と。確かにカーロイは生還したとはいえ、負った傷は生涯残る深いものだ。この娘は、彼を詰っても良いところだと思ったのに。


「とんでもないことですわ」


 なのに、エシュテルは柔らかな笑顔で首を振った。


「戦う前から心構えについてご教示いただいたし、戦場でも先導していただいたと」

「そのようなことを言っていましたか」

「はい。何より……怪我の、後に励ましていただいたことも。大変にありがたいことだったと申しておりました」


 ――何の話だ……。


 どうもカーロイは幾らか事実を曲げて姉に報告したようだった。戦いの後に見舞った時など、慰めたり励ましたりというよりはほとんど挑発したようなものだと思ったのに。


「姉上、そのような話、今は良いでしょう。――それよりも、皆様を中へ」


 アンドラーシが答えに迷う間に、なぜか顔を赤くしたカーロイも現れた。


 ――そのうち詳しく聞いてみるか。


 傷はとりあえず癒えたようで、顔色も良く足取りも安定したカーロイの姿に安堵しながら。アンドラーシは屋敷の奥へと通された。




 エシュテルが呼び戻されたというだけではなく、名家を続けて襲った奇禍により、バラージュ邸を訪れる見舞いの客は引きも切らない。――ということは、王が密かに側妃に仕える者と接触するのに、ここは格好の場所という訳だ。


「あの者は息災か。胎の子にも障りはないのだろうな」


 例の従者――に扮した王は、挨拶を終えて人払いが済むなり本来の身分に相応しい立ち居振る舞いを表した。堂々たる体躯に、目には覇気が溢れ、どのような衣装でも王は王なのだと思わせる。果たしてこの扮装で人目を憚ることができたのかと一抹の疑いさえ抱かせるほどだった。


「はい。クリャースタ様も陛下にお会いできるのを心待ちにしておられます」


 エシュテルも、言葉遣いを改めて深く腰を折る。当主の姉が従者の姿をした者に恭しく跪くのを、しかし、この場で不思議に思う者はいない。


 この場にいるのは、バラージュ姉弟の他には王と、そしてアンドラーシだけ。側妃とその御子を守り、リカードを追い詰めるための計画を、煮詰めようというところなのだ。


「あの者は特に俺に会うのを楽しみになどしないだろう」


 口では突き放したようなことを言いながら、王の目元や口元がわずかに笑んでいるような気がするのは、アンドラーシの気のせいだろうか。

 クリャースタ妃は、王がティグリスの乱で不在の間、敵地にも等しい王宮で気丈に耐えたばかりでなく、王の敵を退けるための手札を集めさえしてくれていた。その功績を、王が認めないはずはない。並の夫婦のような愛情とは違うのかもしれないが、だからこそ戦友にも似た絆があって欲しいものだと思う。


「そのような……あの方も大変心細いご様子でいらっしゃいましたから。早く憂いをなくして差し上げたいものと思っております」


 王は帰還した直後に王妃と王女を訪ねたらしい。あの無邪気な女は、単純に夫との再会を喜んだのだろうか。王が自身の父親との対決を控えているなどとは考えもしていないに違いない。

 一方で、身重の側妃は夫に会えていないままだ。何故なら、王と会ったとリカードに知られれば、御子が無事なことを悟られてしまうから。リカードを糾弾するその時までは、エシュテルが毒を盛り続けていると信じさせておかなければならないのだ。そのために、側妃は不調のために王の訪れを拒んでいるということにしているということだった。


 ――つくづくあの老人(リカード)は邪魔をするな……!


 アンドラーシとしては、王が何の気兼ねもなくクリャースタ妃やその御子と過ごせるようになれば良いと願ってやまない。取り柄といえば可愛いだけで厄介な父親がついている王妃よりも、よほど王に相応しい方だというのに。いち早く懐妊したことといい、マズルークの侵攻の際の機転といい、今の王妃こそ側妃に退けてあの方を正妃に据えれば良いとさえ思う。


「まずはミーナと会う席を設けると伝えよ。側妃もその子も、王妃を脅かすものではないと安心させる。その上で側妃からも説得させるのだ。リカードを――見捨てるようにと」


 とはいえこの場ではアンドラーシは聞く一方だ。側妃の今の様子を知るのも、リカードや王妃の周囲を牽制する手回しをする役を担うのもエシュテルなのだから。この屋敷の今の主であり、この場を整えたカーロイも、張り詰めた面持ちで姉と王とのやり取りを見守るだけだ。


「クリャースタ様も王妃様のお立場を案じていらっしゃいます。ご夫君と父君が争うのはさぞご心痛になるだろうと……」

「しかし止むを得ぬ。赤子を殺そうとしたと知ればミーナも分かるだろう」

「はい。王妃様もクリャースタ様もお互いを慕い合っていらっしゃいます。ティゼンハロム侯さえいなければ、御子様がたも、きっと……」

「そう願いたいものだ」


 王とエシュテルが言葉を交わす、その軸は側妃よりも王妃に置かれているようで、アンドラーシは沈黙を保ったまま内心で首を傾げた。


 ――陛下もクリャースタ様も王妃に甘いのではないか?


 確かに、当面王の最大の敵であるリカードは王妃の父だ。しかし、王妃がどう感じたところで何ができる訳でも――王の邪魔をする訳でもあるまい。これまで通りに争いごとからは遠ざけておけば済むだろうに。

 エシュテルの口ぶりだと、実際に命を狙われている側妃でさえも、王妃を慮っているように聞こえる。リカードの企みを明かすのならば、王妃こそ父の罪を伏して詫びるべきではないのだろうか。側妃には十分にその権利があると思うのだが。


「あの、王妃様は本当にクリャースタ様のご懐妊をお怒りではないのですね? あの方は何よりもそこを案じていらっしゃいました。王妃様にお会いしたいと仰る一方で、ご不快に思われるのではないかとも仰って――」

「ミーナもあの者に会いたがっていた。だから心配はいらぬと伝えるが良い」

「はい……。クリャースタ様はお喜びになると思います」


 王妃の機嫌を知って側妃の心が和らぐとは、まったく不可解なことだった。しかし、エシュテルは安堵したように頬を緩めて――アンドラーシの疑問をますます深めた。


「……直接会って話しておくことができないのは不安だろうが。しかし王妃も側妃も決して疎かにするつもりはないのだ。心安らかに過ごせるように努める、と――まあ、俺の言葉など信じないのだろうが。王の言葉だといえば幾らかマシか」

「必ずお伝えいたします」


 それでも、王が続けた言葉には確かに側妃への情がこもっていたので、アンドラーシとしても頼もしかった。王も側妃に、それにまだ生まれていない御子に会いたいのだろうと思う。リカードを警戒しなければならない状況がそれを許さないだけ、本心では王妃と比べて側妃の占める位置が低いということは決してないはずだ。


「リカードを追求するのはミーナと話した後になる。そなたには危険な役目だろうが、まだ言われるままに毒を盛っているように装って欲しい」

「覚悟しております」

「リカードからは、何か?」


 王と、弟であるカーロイ、そしてアンドラーシ。場の男の視線がエシュテルに集まった。若くか弱い娘が、国の行く末と王の御子の安否を左右する企みに深く関わっているのだ。男としては憐れにも歯がゆくも思っている。しかしこの娘は自らこの役目を買って出たのだ。父の復讐と家のために。

 娘の白い頬には恐れと同時に揺るぎない覚悟も現れている。それを見て、女のくせにと嗤うよりは見事なものだと思うのは、ティグリスの乱を経たからかもしれない。剣に依らない戦いとはいかなるものなのか、アンドラーシは――恐らくカーロイなども――ずっと考えているのだ。


「陛下がお戻りになる前に、必ず――効果を出せと言われております。今も、ご不調とは……そういう、ことなのかと突かれていて。クリャースタ様が陛下のお怒りを被ることを望んでいるようでございます」


 主を憚ってか、女の身にはあまりに酷い言葉だからか。エシュテルは直截に毒だの流れるだのとは言わなかった。とはいえ意味を誤ることなどない。


 ――御子ばかりかクリャースタ様までも陥れようというのか!


 王の子を死なせた側妃や寵姫が勘気を被って遠ざけられたり罰を与えられたりするのは確かに例があることだ。だが、自ら毒を盛る謀を巡らせておいて、邪魔な側妃に罪を着せようなどと、許しがたい卑劣な所業だ。


「……業腹ではあるが()()したと偽りを伝えよ」

「はい」


 王の声にもまた、苦い怒りが満ちていた。その鋭い目を受けるエシュテルがわずかに怯えた色を見せるほどに。妻と子を標的にした企みに対して、王も平静ではいられないのだろう。


「ミーナはともかく周囲の者たちの目を欺く必要がある。側妃の見舞いに、王と王妃がふたりして訪れるということにしよう」

「王妃様の目の前でクリャースタ様が叱責されるようにしたい。その場を見物したい。……そのように思いそうな者に、心当たりがございます」


 エシュテルが浮かべた嫌悪と怒りの表情を見て、アンドラーシはそういえばこの娘は王妃に仕えていたこともあったのだと思い出した。王妃に肩入れして側妃の不幸を願う者を、具体的に思い浮かべているのだろうか。リカードの手の者ならばいかにもありそうなことだった。


「ミーナを離宮に伴う口実さえできれば良い。側妃に会うことさえできたなら、人払いなどどうにでもなる」


 王は自身にも言い聞かせる口調で総括した。敵を陥れるため、その計画の前提のための方便とはいえ、御子の生死を利用することを内心面白くは思っていないのだろう。


 ――だが、このようなことももう終わるはず……!


 リカードの命運ももうわずか。バラージュ姉弟の機転。王の不在の間、悪意に耐えて御子を守った側妃。彼ら彼女らが集めた証拠。これらが揃えば、国の重鎮たるティゼンハロム侯爵リカードといえども罪に問うのは不可能ではない。


 ここまで段取りを整えてもらったからには、王としても、支えるアンドラーシらとしても、好機を逃すつもりはなかった。




「ところで、帰りも行きと同様になさるのでしょうか」

「そうでなければ意味があるまい」


 バラージュ邸での会合の後。アンドラーシは、供の者を引き連れて自身の屋敷へと戻る手はずになっていた。そこで王は本来の衣装に着替え、独り身の側近の屋敷で酒でも楽しんだかのように見せかけて、明朝何食わぬ顔で王宮に帰るのだ。

 つまり、帰路では再び王を従者として扱わなければならないということだ。


「……心得ておりますが」


 ――また悪ふざけをなさるのだろうな……。


 きっとまた嫌がらせのように慇懃な態度で揶揄われるのだろうと思うと、ほんの少しだけ憂鬱だった。

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