表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
131/347

手の内 シャスティエ

 遠くで大気がざわめくのを感じて、シャスティエは頭を巡らせた。顔を向けた先は、王妃と王女の住まう一角。耳と肌に感じたのは、女たちが笑い衣装をさざめかせる気配。王が遠征で不在の間にはついぞなかった華やいだ雰囲気が、側妃の離宮にまで届いているのだ。


「王が戻ったのね……そして、王妃様を訪ねている」

クリャースタ様(こちら)の方へもすぐにお渡りになりますわ。御子のことを気にかけていらっしゃるはずですもの」

「そうね……」


 何気なく呟いただけなのに、従っていたエシュテルは慰めるような調子で答えてきた。後回しにされたのをこぼしたつもりではなかったので、シャスティエとしては曖昧に頷くしかできない。ただ、腹を撫でながら初冬の冴えた風を頬に感じるだけ。

 周囲の者たちが過剰に――としか思えない――気遣うから、庭先であっても建物の外に出ることが許されるのは晴れた日の昼間だけになっている。今も、外の空気を味わう貴重な機会として戸外に出た瞬間に、王妃の居所からのざわめきを感じたのだ。


 ――王が来たら……話をしなくては……。


 王が無事に帰ったことで、シャスティエと胎の子は一段階安全になったのだろうとは思う。例えティゼンハロム侯といえども、王の目が光っていてはあからさまに側妃を害する動きなどは取れないだろうから。

 ただ、シャスティエの心情は安寧とはほど遠い。むしろ鉛の重石で胸が押しつぶされそうな思いさえしている。


 王が帰ったということは、敵を――ティグリス王子を退けたということ。実際会ったのは片手で足りる回数ではあるが、イシュテンにおいて不遇をかこつ境遇には同情も共感もした。陰謀に誘われたのは恐ろしくもあったし、母に脚を損なわれてこの世の全てを憎んでいる風だったのは憐れでもあった。……その人も、また王によって死を与えられたのだろう。シャスティエの叔父や従兄たちと同じように。シャスティエは、見知った人を殺した男を夫として頼らなければならないのだ。


 とはいえそれは分かっていたこと。王の子を生んでイシュテンの王位をミリアールトの血筋で盗むと決めた時から覚悟していたはずのことだ。実際に乱で多くの人名が彼女の胎の子のために失われ、王が彼女たちを守るために剣を取ったのも受け入れがたいことではあるけれど。でも、理性では折り合いをつけているはず。


 シャスティエを苦しめるのは、今までのことではなくこれから起きることだ。


 ――ミーナ様……本当に私を赦してくださっているのかしら。


 腹を撫でると、内側で胎児が身じろぎするのが伝わってきた。心の中での疑問に頷いたのか首を振っているのか、シャスティエにはやはり判じることができない。母を慰めてくれている、などと図々しいことは考えてはいけないだろう。


 腹の膨らんだ今の姿でミーナと会わなければならないこと。ティゼンハロム侯――あの方の父を、王と共に放逐するつもりだと伝えなければならないということ。優しく美しく、何も知らないミーナの世界を脅かさなければならないこと。それこそが、シャスティエが憂い恐れていることなのだ。


「シャスティエ様――クリャースタ様。イルレシュ伯がお見えです。どうぞ中へ……」


 不意に呼ばれて、シャスティエはびくりと身体を震わせた。それで、辺りの音が聞こえないほど物思いに耽っていたことに気付かされる。


「そうね……」


 呼びかけたのは、イリーナだった。心配げに見つめてくる若草色の瞳から、単に来客を告げるためだけでなく、主の身を案じて呼びかけたのだろうと思う。彼女の気鬱は確実に侍女たちにも伝わっていて――だからこそ過剰に世話を焼かれる事態になってしまっているのだ。


 ――しっかりしなくては……。


 ティグリス王子の乱で戦ったのは王を始めとする男たちだった。しかし、これからの戦い、ティゼンハロム侯とのそれに際しては、シャスティエも戦わなければならないのだ。

 始まる前から怖気づいていては勝つことなどままならない。勝てば、彼女の復讐の完遂にまた一歩近づくことができる。ミーナに許しを乞う機会も訪れることもあるはずだった。




 部屋に戻ると、シャスティエは老伯爵に席を勧めて茶菓を出した。そして当たり障りのない時候の挨拶を交わすと、グニェーフ伯――シャスティエにとってはまだこの人は祖国の称号の方が馴染みがある――は単刀直入に切り出した。


「王が帰還し――今、王妃と王女を訪ねております」

「そのようですね。庭にいたので声が聞こえました」

「明日にもこちらにも顔を見せたいとか。クリャースタ様のご体調は――」

「問題ございません。……王には、早く会いたいのです」

「は」


 グニェーフ伯は真剣な面持ちで頷いた。シャスティエが王を――形ばかりの夫、密かに復讐を企む相手を――言葉通りに恋しがっているなどとは思っていないだろう。()()は、この人にも明かしてあるから。シャスティエが何を待ち望んでいるかは、ちゃんと聞き取ってくれているはず。


「これで御身も心安らかに御子の誕生を待つことができましょう」

「そうなると良いわね」


 侍女たちと同じような案じる口調から、グニェーフ伯が安易に成功を信じているのではなく、シャスティエを慰めるために言っているのだと分かる。その心遣いを重々理解した上で、気休めなど煩わしいとも思う。


 ――全て上手くいったとしても、心安らかに、なんて無理でしょうし……。


 もちろん、不満を言っても何の益にもならないことはよく知っている。だからシャスティエは胸の裡を漏らすことはしないでエシュテルに目配せをした。


()()()()が揃うのです。王も喜ぶのでしょうね」

「私どもの忠誠を、お見せすることができると――やっと亡父にも顔向けが叶います」


 いっそ誇らしげに頷くエシュテルの力強い眼差しは、かつてシャスティエも持っていたものなのだろう。父の仇を狙う揺るぎない想いは、今のシャスティエには眩いとさえ感じられる。




 証拠と、証人。――つまり、ティゼンハロム侯爵を追い落とすためのもの。シャスティエの胎の子、王の血を引いた子を殺そうとしたという、大逆の証。王妃の父でありイシュテンで最も強大な諸侯のひとりでさえも罪に問えるほどの、疑いを挟む余地のない動かぬ証拠と信頼できる証人が今こそ揃うのだ。


 シャスティエは、ティグリス王子の挙兵を聞いた直後、エシュテルが平伏しながら小さな包みを差し出したのを思い出す。


『これは……?』


 娘のただならぬ様子に首を傾げながら包みに手を伸ばそうとすると、その手を叩き落とすような勢いでエシュテルが叫んだ。


『御手を触れてはなりません!』


 差し出しておきながら何を、と思ったのも一瞬のこと。エシュテルが続けた言葉に、さすがにシャスティエの動きは凍った。


『ティゼンハロム侯から賜ったものです。――クリャースタ様の御子を、亡きものにするために使え、と』

『そんな……』

『必ず良いように使う、とあの老人には請け負いました。ですから、クリャースタ様が使ってくださいませ。王の御子の命を狙ったとなれば大罪ですもの。それを裁くことこそ、この毒の正しい使い道です!』


 それからエシュテルは弟と共に描いた計画を語ってくれた。父の汚名を雪ぐため、家の名を保つため。姉弟でティゼンハロム侯爵に取り入ろうとしていると信じ込ませたということ。シャスティエに毒を盛ると約束して、余人の手出しは無用とさせたこと。それによって王が不在の間、シャスティエの身の安全が図れるであろうということ。


『――では、王にも話さないと』

『それは……今はできません』


 命を狙われていたという事実、彼女の知らぬところで巡らされる陰謀を突きつけられて震えた後、シャスティエは我に返った。確かにこれは反逆にほかならないだろう。当面はティグリス王子の相手をするとしても、王もその後のことを考える必要があるだろうと考えたのだ。

 しかしエシュテルは首を振った。


『一体、なぜ?』

『今の私どもでは証人としては弱いのです。……お恥ずかしいことですけれど』


 話を聞いてみれば、まるでイシュテンの縮図のようなことだった。


 バラージュ家は、古くからティゼンハロム侯爵家の庇護下で繁栄してきた家だ。よって、代々の当主のみならず家臣たちも侯爵家に忠誠を感じているのだという。王よりも近しい存在で、より直接的に恩恵を受けるからには、そして王の権威の弱いイシュテンならではの事情も手伝って、その忠誠は時として王家に対するものより強いのだという。

 加えて、現在の当主であるカーロイは歳も若く、父親の奇禍によってあまりにも早くその地位を継いだ。領地の運営にも兵を動かすにも、古参の家臣の助力と同意は欠かせない。


『マズルークを退けた手柄によって、ティゼンハロム侯は弟に耳を貸す気になってくれました。ですが、それは侯に利になる話だからこそ。大恩ある侯爵家に背くとなれば、家臣たちは若輩者の命には従ってくれません』


 大恩、と。エシュテルは大層苦々しげに発音した。この娘にとっては、ティゼンハロム侯は権力を笠に着て父に無理を命じ、死に追いやった存在でしかないのだろう。


 ――家臣たちにとっても、主の仇ではないのかしら。


 侯爵に逆らっては生きていけぬ、と。下々にいたるまで骨身に染みて信じ込んでいるのだとしたら、これもまたイシュテンの歪みのひとつのように思えた。

 ならば、ティゼンハロム侯爵家に依らずともカーロイは独力で――あるいは王の庇護によって――立てると示さなければならない、ということだろう。


『此度の乱で、陛下は弟に活躍の場をくださいました。そのご期待に答えることができたなら――』

『その言葉には信が置かれる。ティゼンハロム侯爵を告発しても揉み消されることはない。――そういうことね?』


 確認するように問うと、エシュテルははい、と力強く頷いた。


『ですから、弟が手柄を収めるのを、どうかお待ちくださいませ』




 そういうことがあったから、エシュテルは弟の無事だけではなく、勝利をも祈り続けていた。生きて帰るのを望むだけでも贅沢な願いだろうに、死地にある弟に手柄を上げろと念じるのは、さぞや後ろめたく苦しい思いがしただろう。いまだに王が死ぬところをどうも想像できず、よって危機感が薄いシャスティエとは大違いだ。

 しかも、エシュテルの祈りは叶えられたとは言い難い。


「あの少年も無事ということで……良うございました」


 グニェーフ伯の言葉も、腫れ物に触るような響きがある。片腕を失ったのを無事と言っても良いものなのかどうか。命さえあれば良しとすべきなのかどうか。迷う心の内がはっきりと聞こえるようだった。


「はい。お陰で()()を増やすことができました」


 弟の不運に言及されて、それでもエシュテルは気丈に頷いてみせた。ふたつめの証拠――ティゼンハロム侯直筆の証書を得るためにあちらの手の者と会うことさえしてくれたことも、この娘の必死さを証明していると思う。


「それこそ良いように使わせてもらいます。あの方たちは――王ばかりかミーナ様やマリカ様にとっても害になる」


 自身の命が危険に晒されていたというだけの問題ではない。後ろ盾が欲しければ大罪に手を染めろ、と仄めかし追い詰めるティゼンハロム侯爵のやり方は恥ずべきものだった。あのエルジェーベトという侍女が、カーロイの怪我を喜ぶかのような物言いをしていたと聞いて、シャスティエも腹が煮える思いをしたのだ。


 ――義憤などとは……言えないけれど。


 ティゼンハロム侯爵らが罪に手を染めるのは、ミーナやマリカの身を守るためでもあるのだから。シャスティエの思惑とは関係なく、彼女や彼女の子があの方たちを脅かすのは十分にありえることなのだ。

 とはいえこれもまた、今憂えても仕方のないことだ。


「私もそう思います。かつて王女様から目を離してしまったのは私の落ち度ではありますけれど――王妃様を何も知らないまま閉じ込めておくのは間違っているように思います」


 エシュテルも憤ったように強く断言し――そして、不安げに表情を曇らせる。


「もっとはっきりとした書面が得られれば良かったのですが。さすがに侯は狡猾でした」

「そうね……」


 ティゼンハロム侯は、確かに長年権力争いを生き抜いてきただけのことはあるようで――エシュテルのような小娘に言われるがまま、自身の罪の証拠を残すことをしてはくれなかった。エシュテルに渡された証書の内容は、単に命令に従えば便宜を図ってやる、という程度のもの。とはいえ侯爵の署名と侯爵家の紋章が印されたもの、しかも僭越にすぎる内容ではある。毒と併せれば手札になってくれるだろうか。


 強ばったエシュテルの表情を見て、シャスティエはまだ心に懸かることがあるのだろうと推し量る。状況は不確かなことばかりではあるが、この娘が第一に案じるのは弟のこと、家の行く末のことだろう。


「弟君のことなら心配はいらないわ。王の命を救った者が冷遇されることがあって良いはずがない。仮にイシュテンの倣いが違うのだとしても、王の子の母として王に頼んでみるから」

「クリャースタ様……恐れ入ります……!」


 エシュテルがわずかながら微笑んでくれたのは嬉しいが、シャスティエの心中は複雑だ。王に媚びるかのようなこと、王の妻としての物言いが自然に口をついて出るようになってしまったのだから。


「王は、きっと聞いてくれると思うわ」


 実際、全くの空手形という訳でもない。少なくとも王は、人質にすぎないシャスティエの言葉に耳を傾けてくれた。意見を容れてくれた。王が憎い仇であるのと同様に、ある程度信用がおける男であることも動かしがたい事実なのだ。


 ――確かめることができれば良かったわね。


 手紙など、王と情報を交わす手段を取り決めておかなかったのは完全に落ち度だと思う。どうせあの男の方では女は黙って夫の帰りを待つものだと考えているのだろうし、ティゼンハロム侯に気付かれないように書簡を交わすのは至難の技ではあっただろうけれど。こちらで知っていること起きていることを伝えられていれば、それに対するあちらの考えを知ることができていれば。エシュテルはもう少し心穏やかに弟を待つことができただろうに。


 もしも次、などという事態があったら、今回の反省を活かせるだろうか。王と共に戦う機会など、ないに越したことはないと思うが。


「もうすぐ分かる……もうすぐ王と会える」


 それでも、今はまだシャスティエと王は進む道を同じくしている。ティゼンハロム侯爵――共通の敵を前に、頼れる同盟相手が戻るのをひとまずは喜ぶべきだろう。


 父に会えるのを楽しみにでもしているのだろうか。落ち着きなく動く胎児をなだめようと腹を撫でながら、シャスティエはそのように結論づけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ