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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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血の繋がり ファルカス

 平穏な王都の町並みを目にした時でもなく、重い鎧を脱いだ時でもなく。帰って来た、とファルカスが心から実感したのは、何よりも輝く笑顔で彼を迎えた妻子と対面した時だった。


「ファルカス様……よく……ご無事で……」

「大げさな。心配するなと言っただろう」


 大きな目を潤ませるミーナに笑いかけてやろうとすると、頬が強ばったような感覚があった。それで、乱の鎮圧の間はほとんど笑うことなどなかったのだと思い出させられる。無事に帰るとは、争い殺し合う獣のような心持ちから、妻や子を愛おしむ人のあり方に戻るということでもあるのだろう。

 マリカも、父のもとへ駆け寄ってくるりと回って見せる。広がる衣装の裾が花のようで、鮮やかな色合いと共に彼の目を楽しませた。


「お父様! あのね、お母様と一緒にドレスを作ったの。私もちゃんと縫ったのよ!」

「そうか、見事なものだ。側妃などよりよほど上手い」


 娘が小さな掌を突き出してくるのは、抱き上げるよう強請っているのだと分かっていた。しかし、ファルカスは気づかない振りをして言葉で褒めるだけに止めた。


「……お父様ぁ……」


 マリカが責めるような傷ついたような目で睨め上げても、知らない顔を通して頭を撫でるだけ。すると業を煮やしたのか、娘は父に思い切り飛びついてきた。背伸びをしても彼の腹のあたりまでしか届かないのに、全力でしがみつこうとするのが可愛らしい。


「はしたないな」


 全力とはいえ子供の細い腕だ。あっさりと剥がして身体を離させると、マリカはもう、と叫んで母の方へ駆けて行った。久しぶりに会った父に意地悪をされたと思ったのだろうか。嫌われたのかもしれない。


 ――赦して欲しいものだが。


 無邪気に笑う妻や子を見れば嫌でも意識せざるを得ない。彼女たちが何も知らず父や夫を慕って待つ間に、彼が何をしてきたか。どれだけの命を奪って来たか。

 彼の手が血塗れなこと自体はいつものことだ。彼が戦わねば妻子の命も危ういのだから、他者の命を奪うのは厭うことでも恥ずべきことでもないと思う。


 今回に限ってマリカを抱き上げるのを躊躇うのは――多分、ティグリスを斬ったからだ。


 乱を起こした反逆者を生かしておけないのは初めから分かっていたことだし、不具を理由に目溢しをするつもりもなかった。事実、ティグリスは武勇に長けた健常の者より遥かに多くの死を、頭で巡らせた策によってもたらした。だから彼は王として為すべきことをしただけと言える。


 仕方のないこと、当然のこととして割り切り、忘れることもできるはずだった。だが、彼は失敗を犯した。ティグリスとふたりで話す時間を設けてしまったのだ。

 あの者の思い描くイシュテンの姿を聞き、理があると認めてしまった。不具ゆえに鬱屈する思いがあるのを知ってしまった。その結果、肚の読めない敵に過ぎなかったはずのティグリスは、確かに弟としてファルカスの胸に刻まれたのだ。


 ――()はこのようなことを考えたりはしなかったというのに不思議なものだ。


 彼が兄弟を殺したのはこれが始めてではなかった。王位を争った異母兄の首を刎ねた時、マリカはまだ生まれていなかったが――それでも、既に妻として娶っていたミーナを抱きしめるのに躊躇いなど持たなかったと思う。異母兄などと言葉の上だけのこと、あの男は彼にとってあくまでも他人だったのだ。


 つまりは彼が肉親を殺したのは、ファルカスの認識の上では今回初めてとなる。その気まずさと後ろめたさを噛み締めるのも。


 彼らしくない女々しい感慨ではあると思う。しかし、彼の血の繋がった弟を斬ったばかりの手で娘を抱くのを、そのような思いが何か憚らせてしまうのだ。


「ファルカス様……?」


 戸惑うように彼と娘とを見比べるミーナに、ファルカスはやはり気づかぬ振りで笑って見せた。


「冬までには帰ると言っていたか。それは守れたかどうか危ういが、まあよかろう。そんなことで怒りはすまいな?」

「……え、ええ、お怪我がないのが何よりですもの」


 ――無傷か……俺はな……。


 妻が何気なく呟いたことさえ彼の神経を逆撫でた。彼の指揮が行き届かなかったばかりに命を落とした数多の男たちのこと、更に彼を庇って片腕を失ったカーロイ・バラージュのことが頭を()ぎったのだ。

 だが、そのことで妻に苛立つなど筋違いにも程がある。この女が外のことを知らず、想像することさえしないのは、彼や父親のリカードのせいだ。ただ笑ってさえいれば良いと言い聞かせてきて、その通りにしたからといって――どうして咎めることができるだろう。


 残酷なこと恐ろしいこと忌まわしいこと。いずれも女が知る必要のないことなのだ。特にミーナは優しい気質の持ち主なのだから、何も知らず思い悩むこともない方が良いに決まっている。


「あの、シャスティエ様もきっと寂しがっておいでだと思いますの。だから、近いうちにお見舞いに……」


 だから、ミーナが恐る恐るといった表情で言い出した時、彼は答える前に一拍を置いた。約束とは出立の前に交わしたもののこと。妻としての役目を与えて欲しい、そうできるように知らないことを教えて欲しい、と。涙を浮かべて訴える妻と彼は約束したのだった。


 ――心は変わっていなかったか。


 正直に言えば、忘れていれば良かったと思わないでもない。彼が今さっき覚えたような苦い思いは、ミーナには似合わないし耐えられないのではないかと思う。

 しかし、妻の黒い瞳に浮かぶのは、夫に裏切られるのを恐れる不安の色だ。それを見れば、彼が不在の間のミーナの想いも窺える。彼の無事を願って心を痛めただけではなく、約束が守られるかどうかにも同じくらいに悩み苦しんだということなのだろう。


 長年に渡って世界から遠ざけたことで、彼は妻の信頼を失っていたらしい。夫と父の間の確執までを知るのは辛いのだろうが――側妃の子が生まれれば、どの道対立は表面化する。ふたりの妻とふたりの子と。ファルカスはいずれか選ぶ気も譲る気もない。ならば今が好機かもしれない。


「そうだな。あれの顔も見てやらねば――共に、な」

「ファルカス様……!」


 輝く笑顔で抱きついてきた妻を受け止めれば、彼女の憂いの深さを改めて思い知る気がした。約束を守ると口にした、ただそれだけのことでこれほどに喜ばれてしまうとは。

 (けが)れた手で妻を抱き締めるのに若干の躊躇いはある。しかしそれもいずれなくなるかもしれない。夫が何をしてきたか知ってなお、ミーナが変わらぬ思いを向けてくれるならば。彼の心に懸かることを、多少なりとも打ち明けて分けることもできるだろうか。


「お父様、私も――」


 母親ばかりずるい、と言わんばかりに、娘が声を上げた時だった。低い咳払いが聞こえてファルカスは妻の身体に回していた腕を解いた。


「真っ先に娘を訪ねてくださるとはまことに嬉しく存じます、陛下」

「お父様……」


 父を呼んだのは、マリカではなくミーナだった。王妃の父であるティゼンハロム侯爵リカードが、訪れていたのだ。


「無事なところを見せてやりたかったからな。当然のことだ」

「ご不在の間の塞ぎようは、親として見ているだけでも胸が痛むものだったのでございます。ご無事のお帰りを、心からお慶び申し上げます」

「舅殿も。留守を預かってくれたこと、感謝する」

「恐れ入ります」


 ミーナとマリカの前でのこと、何気ない風に言葉を交わしながらも王と王妃の父の間に流れる空気はいつも以上に冷ややかなものだ。リカードにとってはミーナと共に側妃を訪ねるなど許しがたい発想だろうし、ファルカスとしてもこの男を許せない理由がある。


「クリャースタ様を見舞われるとか。臣としても良い考えと存じます。さすがのあのお方も、さぞ不安な心持ちでいらっしゃるでしょう」

「そうだな。早く安心させてやりたいものだ」


 ――そろそろ子が流れたと思っているのだな。


 以前ならば、側妃のもとへ通うことに対してあれほど口うるさく反対してきたのに、この掌の返しようだ。その背景にある企みを思うと、腸が煮える思いがする。

 カーロイ・バラージュが明かしてくれた謀――側妃とその腹の子を狙った企みは、ファルカスを激怒させ、同時に少なからず心胆を寒からしめた。イルレシュ伯を残し、王妃との接触を禁じて側妃を守ったつもりが十分な対策にはなっていなかったのだ。

 リカードが彼の想像以上に狡猾で躊躇いなく卑劣な手を用いてくると知って、一刻も早く排除しなければ、という思いは前以上に強くなっている。


「マリカ、こちらへ」


 祖父の姿を見て、目を輝かせて甘えに行こうとした娘を手招きして呼び寄せる。今度こそ抱き上げてやる、と仕草で示すと、マリカはあっさりと方向を変えて父の腕に飛び込んできた。


「俺の妻たちは仲が良いからな。マリカも併せればさぞ華やかになることだろう」

「まことに……」


 マリカを抱き上げると、嬉しそうに首筋に抱きついてくる。繋がりの近さで祖父が父に適うはずもないのだ。

 孫娘を攫われて悔しげな表情を見せるリカードに向けて、ファルカスは勝ち誇って笑う。弟殺しの彼の手以上に、この男に娘を触れさせるなど汚らわしい。リカードが殺そうとした側妃の子は、マリカのきょうだいでもあるのだ。


「マリカも。側妃とまた遊びたいだろう?」

「そくひ……金色のお姫様のことね……? うん!」


 嬉しそうに破顔して頷く娘に安堵する。ミーナについては心配していなかったが、リカードや周囲の侍女などは側妃について口さがなく言うこともあっただろう。それでも妻も子も側妃の悪口に耳を貸すことはなかったのだ。そうと知ることができれば、彼も希望を持つことができる。


 ――母親が違うからと王族同士で争うのは繰り返させぬ……!




 彼が斬った異母弟、ティグリスの言動は終始理解しがたいものだった。ファルカスを挑発しているとしか思えないものも多々あった。中でも最も不可解だったのが、最後の望みとして彼と杯を交わしたいなどと言い出したことだった。

 泥酔して死の恐怖を紛らわしたい、ということであればまだ分かったのだが。やむを得ず酒を運ばせてみれば、ティグリスはごく行儀よく節度よく酒を楽しんでいた。あまつさえ取り留めのないことを話し掛けてきて彼を困惑させた。死にゆく者への手向けだからと、迂闊なことを口にするものではないということは、今回の件で得た教訓のひとつだっただろう。


 とにかく、ティグリスが嫌がらせのように口にして彼を戸惑わせたことのひとつに、その言葉があった。


『兄上、クリャースタ様を大切になさいませ』

『……言われるまでもない』


 異母弟がわざわざ側妃の名を口にしたので、ファルカスの胸は不穏にざわめいた。あの女はこの者と会ったことがあるという。断ったとはいえ、ブレンクラーレと結んで彼に逆らう計画に誘いさえしたとか。

 側妃として迎える前の話ではあっても、そのような経緯のある者が妻に言及するのは愉快なことではなかったのだ。


『お美しいばかりでなく聡明なお方でもいらっしゃいます。何よりミリアールトの王族の血と、雪の女王さながらのお姿というのが強い』


 ティグリスが彼の機嫌に無頓着なのも、もはや慣れたことだった。うっとりとした表情で妻を褒めそやされても――他の者ならまだしも、常軌を逸した言動を繰り返すこの者とあっては――不快なものだと、想像することすらないようだった。


『あの方は兄上と並ぶのに相応しい方です。女とはいえ、共に国を導くことさえできるかも。決して、ティゼンハロム侯などに手出しをさせてはなりません』

『分かっている。何ものからであろうと妻子は守る』


 妻子、に複数形を使うことで、ファルカスはミーナとマリカの存在を思い出させた。アンドラーシなどもそうだが、側妃ばかりに肩入れして既に子を成した王妃のことを軽んじる者が多いのは理不尽なことに思えた。


 彼の意図を察したのか、単に荒げた語気に驚いたのか。ティグリスは軽く目を瞠ると微笑んだ。これもまた短い間に馴染みになってしまった、どこか陶然としたようなまとわりつくような――とにかく気味の悪い類の笑みだった。


『さすがは兄上です』




 そのティグリスももういない。彼が自ら首を刎ねた。ティグリスの方も、自ら進んで首を差し出した。死に際しても穏やかな表情で、彼としても苦痛を与えることなどしなかったが。だが、とにかく兄弟同士で殺しあった。兄が弟の命を奪ったのだ。


 ――この子らにはそのようなことはさせぬ。


 マリカは、ただ父に抱き上げられたのを喜んで笑っている。その温かさやささやかな重みを感じるにつけても、娘たちに不和や憎しみを教えてはならないと思えた。


「あちらの都合も聞かねばな。お前も早く側妃に会いたいだろう?」

「ええ……」


 一方でミーナの笑顔は曇るのかもしれなかった。ファルカスがふた組の妻子いずれをも守るということは、ミーナを父と決別させるということだから。妻から言いだしたのを良いことに、父と夫を選ばせようというのだから残酷なことだとは思う。

 かつての彼ならば、当然のようにミーナは夫を選ぶものと信じていただろうが。血を分けた肉親とは他人とは全く違うものだと、今さらになって分かったのだ。


 これもまたティグリスと対峙して知ったことだった。

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