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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
2. 高貴な虜囚
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南下 生き残った者

 ブレンクラーレの山間から発した小さな流れは、地下水と雪解け水を集めて小川に、やがて大河となり、イシュテンの肥沃な平野を蛇行してミリアールトへ至り、最後は北の海へと注ぐ。国によって呼び名は変わるが、その流れは人の営みに関わりなく常に一定だ。


 その河を、ミリアールトからイシュテンへ遡る船があった。商人の船だ。イシュテンの穀物を売って空になった船倉に、ミリアールトの細工物や毛皮を積んで帰る途上にある。国は滅びたとはいえ、民の暮らしは変わらない。イシュテン王の本陣が居座っていた間ならまだしも、今では細々とではあるが交易が復活しているのだ。




 船倉の片隅、大小の木箱に囲まれて、彼は息を潜めていた。

 貨物の改めは滅多にないと聞いたし、不運を引き当てたとしてもまず船を止められるのだからすぐにそれとわかるはずだった。しかし、今はミリアールトを攻めたばかりで国境の監視は厳しくなっているだろうし、初めて船旅をする身には流木にぶつかっただけなのか攻撃を受けたのか区別がつかない。よって彼は気を休める暇がなかった。


 甲板へ続く扉が開き、外の光が射した。彼は俯いていた顔を上げ、まぶしさに目を細めつつ入ってきた者の姿を窺った。そいつは貨物の間をぬって近づいて来る。船員か、あるいは敵か。逆光で彼からは判然としない。敵ならば――大人しく屈する訳にはいかない。


「何者だ!?」


 彼は意を決して立ち上がると剣を抜いた。と、白刃を突きつけられた男は情けない悲鳴を上げた。


「兄さん、物騒なのはしまってくれ。大丈夫だから。無事に国境を越えたと言いに来ただけだから」


 光に慣れた目が船に乗せてくれた商人の顔を認めて、やっと彼は剣を鞘に収めた。その動きは、日頃訓練する時よりも遥かにぎこちなく緩慢な、全く無様なものだった。全身に力が入ってしまっていたのだ。自覚していた以上に神経が張り詰めているらしい。


「そうか」


 彼は軽く息を吐いた。必要以上の緊張で消耗していたのは恥ずべきことだが、同時にひどく安堵したのだ。

 まったく、驚く程あっさりとしたものだった。こうも容易くイシュテンに入れるとは。

 イシュテンの者は馬以外の移動手段をさして重視しないと言っていた従姉の知識は正しかったらしい。


『さすが、戦馬の神を奉る国ね。女性でも殿方同様に乗馬を嗜むのが普通とか。私、あの国に生まれなくて本当に良かったわ』


 乗馬が――というか勉強以外の大抵のことが――苦手な彼女はそう言って笑っていた。そんな彼女が、今はイシュテンに囚われているのは皮肉なことだ。人質の身では馬に乗る機会などないだろうが……。

 彼が追想に耽るうちに、商人は剣が届かない距離に退いていた。彼の機嫌を取るかのように、引きつった笑みを浮かべている。


「まだ朝早いからさ、外の景色でも眺めたらどうだい? 最初に言ったが昼間は隠れててもらわなきゃならんが。……あんたは目立ち過ぎる」

「ああ、ありがとう」


 商人の気遣いと忠告に礼を言って、彼は甲板へと上がった。




 川面は朝もやに覆われていた。この船と同様にミリアールトとイシュテンを行き来する船も幾らかはいるはずだが、もやを通してはぼんやりとした影にしか見えない。


 ――なるほど。これなら出ても良いと言われるはずだ。


 彼は金色の髪を引っ張って陽光に透かした。月の光を紡いだような、と言われるそれは、ミリアールトにおいてすら珍しい。染めようかとも思ったが、白過ぎる肌と碧い目は隠しようがない。何より、この髪も目も愛する従姉と同じ色。彼女とのつながりを自ら消すのははばかられた。


 これが最後かもしれない、と思いながら故郷の景色を見渡す。もやでぼやけてはいるが、見なくてもわかる。緑濃い針葉樹の森。黒い幹が青空に映える。風は夏でも涼しく、いつも冬の気配を漂わせる。何百年前から変わっていないであろう風景。その色彩と空気の匂いを身体に刻もうと思う。


 ――ほんの数ヶ月前のことだなんて信じられない……。


 イシュテンの軍はこの河も通ったに違いない。その時は下生えも踏みにじられ、河の水も泥で濁っただろう。なのに、眼前の景色にはその名残など見つからない。

 蹄の轟きも、鋼を打ち合う音も、血の臭いも、死に行く人馬の悲鳴と喘ぎも。彼にははっきりと思い出せるのに。忌まわしい戦場の記憶を思い出して、彼は知らず剣の柄を握っていた。




 そう、彼はあの場所でとうに死ぬはずだったのだ。

 少なくとも、イシュテンの戦士の剣が眼前に迫った時にはそう覚悟した。しかしその刃は彼の命を奪うには至らなかった。子供に見えたから手加減した――などとはイシュテン人に関しては考えられない。落馬させて戦意を奪えば十分だと、わざわざとどめを刺さずとも蹄にかかって踏み砕かれるとでも思ったのだろう。

 とにかく、彼が次に目を覚ますと、とある貴族の城館にいた。忠誠心篤いその貴族は、彼の顔を見知っていて匿ってくれたのだ。傷も癒えた後も何かと引き止めたがるので、ひと月もするとその忠誠を疑ってしまったが。


 引き止めた理由を知ったのは、一目だけという約束で密かに王都に帰った時だった。ついでにミリアールトの現状を頑として教えなかった理由も瞬時に悟った。

 晒された父と兄たちの首に目が釘付けになる間にも、市民の噂が耳に入る。王と王太子の戦死。そして王女――いや、今や女王――は人質としてイシュテンに連れ去られたと。

 例の貴族が取り押さえてくれなかったら、そこが彼の死に場所になっていただろう。剣を掴んで王宮に乗り込もうとした記憶はある。腕を掴んだ者たちに離せと命じたのも。病み上がりとは言え若い男を静まらせるのは難題だったに違いなく、例の貴族には感謝しなければならないだろう。


 また死に損なって頭も冷えた後、自身の境遇をよくよく熟慮した結果――彼は出奔することにした。


 他に採るべき道がいくらでもあることは承知している。

 ただ一人生き残った息子としては母の元に戻ってやるべきだろう。剣を持てるミリアールト人としては祖国のために戦うべきだ。イシュテンとの対峙には間に合わなかったが、辺境を守る兵力はまだ健在だ。いずれ侵略者に対抗して蜂起することもあるかもしれない。

 しかし、国に留まることのできない理由が彼にはあったのだ。

 笑えることに、彼は現在ミリアールト国内にいる唯一の王位継承者ということになるらしい。彼と王位の間には、王太子と従姉、父と兄二人がいたから、継承順位など意識したこともなかったが。彼らはみな、一夜にして死んで――殺されてしまった。遺されたのは、彼と従姉だけ。


 ――女王がいれば十分だ。僕がいると人質としてのシャスティエの価値が目減りする……。


 彼を匿っていた貴族の厚意は、単に王家に近い者に対するものではなかった。少なからず、イシュテンに反抗する旗印になることを期待されていたように思う。

 ミリアールトの女神、雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)の化身のように美しく賢い――ということになっている――従姉は広く国民の間に人気がある。彼女が囚われている限りそうそう反乱など起きないはず。……なのだが、それを歯がゆく思う者が現れないとも限らない。そんな時に彼が国内に留まっていたら、王として担ごうとするに決まっているのだ。

 彼の存在のために従姉の生命を脅かすなど、僅かな可能性としても耐え難かった。


 何より、彼は知っている。雪の女王の写し身などと、周囲が勝手に言っているだけにすぎないということを。

 彼が知る従姉は、年齢相応の少女に過ぎない。それも、甘やかされ愛されてきた深窓の姫君だ。王族らしい誇り高さも、誰からも(かしず)かれたゆえの高慢さと隣り合わせのもの。祖国でならばそれすらも愛されていたけれど、敵国では彼女は一体どのように見られるのだろう。

 そう思うと、彼の溜息は止むことがないのだ。




 朝もやも晴れてきたので船室に戻ろうと踵を返すと、何人かの船員が手を止めて彼を注視しているのに気付いた。まるで見蕩れるかのように。仮にも、一応は男に対する目つきとしてはそぐわない。


「何か?」


 顔を顰めて問うと、船員たちは慌てたように作業を再開した。中の一人が言い訳がましく愛想笑いしてくる。


「いや、見事な髪だと思ってさ。姉さんも、きっと綺麗なんだろうね?」


 イシュテンの侵攻の際に攫われた姉を探しに行きたい、という。限りなく真実に近いが肝心のことは何一つ漏らしていない説明をしていたことを思い出した。


「……まあね」


 従姉が美しいのは万人が認める事実ではある。しかし、自分の顔を見てそう言われるのは――小さい頃から何度となく引き比べられて慣れているとは言え――男として不快だった。

 眉を寄せたのを姉を案じてのことと思ったのだろう、船員は馴れ馴れしく彼の肩を叩いた。


「イシュテンじゃ金髪は珍しい。その上綺麗なお姫様ならきっと大事にされてるよ」

「そうだと良いけど」


 同情からの言葉だろうとはわかる。しかし、事情を知らない――決して言えないが――者からの慰めは空々しく響いた。


 確かに、普通なら人質は少なくとも生命は保証されている。死体を使っては交渉も脅しもできないのだから。

 しかし、ことあの従姉に関しては不安要素が多過ぎる。彼女が悄然として囚われの身に甘んじるなど、彼にはどうしても想像できないのだ。

 イシュテン王は女を傷つけないと言ったらしいが、あの氷のような眼差しで罵られたり蔑まれたり冷笑されたりしてもその節を曲げないだろうか。


 ――どうかおとなしくしていて欲しい。……無理だと思うけど。


 彼女は侵略者に対してへりくだるくらいなら死んだほうがましだと言うに決まっているのだ。

 小さく、けれど重く溜息をつくと、船員が彼の表情を窺ってきた。気遣われているのを感じる。敵に、イシュテンの者に。まったくおかしな話だ。


「あー、まだ名前を聞いてなかったな? いつまでも兄さんじゃ変だ、教えてくれないかね?」


 適当に偽名を(こしら)えても良かった。しかし、別に良いだろうとも思った。とりあえず、この船の者は彼に同情し、報酬目当てではあっても厄介事を抱え込んでくれた。

 だから、恩に報いて本当の名前を教えてやろう。そう決めると、彼は軽く微笑んで告げた。


「――レフ。獅子という意味だ」


 家名を名乗ったら驚くだろうな、と思う。彼はミリアールトの王家に近しい公爵家の一員なのだ。その首はきっと高く売れる。


 ――誰だろうと、簡単に儲けさせてやる気はないけど。


 王と王太子――伯父と従兄は戦って死んだ。父や兄たちは国のため、女王のために命を投げ出した。従姉でさえ、不本意だろうが人質として女王としての役目を果たしている。幸福(シャスティエ)と名付けられ、その名の通りに誰からも愛され健やかに過ごすはずだった彼女が!

 それならば彼も、彼なりのやり方で王族としての役目を果たさなくては。


 死ぬはずだった命なのだ、彼の女王のために捧げよう。

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