脅迫 アンネミーケ
ブレンクラーレの王宮、鷲の巣城は当代一の壮麗さを誇る宮殿だ。調度や建物自体の意匠が贅を凝らし洗練されたものであるのはもちろんのこと、由緒正しさでも他国の王宮の追随を許さない。数々の王や王妃や貴顕が行き交い、歴史の重要な場面の舞台となってきた。輝かしいもの、屈辱的なもの、おぞましいもの――いずれの逸話にも事欠かず、睥睨する鷲の神の御座所として燦然と輝いているのがこの城なのだ。
その歴史ある城の廊下を、アンネミーケは駆けるような早さで進んでいた。衣装の裾を乱し、絨毯の毛並みを逆立てての早足は、この王宮においては許されざる無作法、普段の彼女ならば決してしないことだった。しかし、今この時に限ってはそうせざるを得なかった。それほどに彼女の心を乱す報せが、イシュテンから届けられたのだ。
――ティグリス王子が敗れた……一体、何があったのだ!?
その報せは、見るも無残な生首の形として届けられた。ティグリス王子の実家の当主、ハルミンツ侯爵のものだというが、無論アンネミーケは本人かどうか確かめる術を持たなかった。例え生前に面識があったとしても、腐敗も始まり苦悶に歪んだそれの相好を確かめるなど難しかっただろう。
使者が捧げ持ったそれを見て、鷲の巣城の謁見の間は混乱に満たされた。侍女たちは女らしく高い悲鳴を上げて卒倒したし、歳若い侍従の中には嘔吐して絨毯を汚す者もいた。
アンネミーケはそのような醜態とは無縁だった――国を導く者として他国の者に相対したからには、無様なところを見せる訳にはいかない――が、使者が述べたひと言ひと言は重く鋭く、彼女の脳に長剣で殴りつけられたような衝撃をもたらした。
曰く。此度のイシュテンの内乱にあたって、王に背いたティグリス王子とハルミンツ侯爵は、卑劣な策を巡らせた。ブレンクラーレにとっても縁のあるシャルバールの地。イシュテンにとっては歴史ある勝利を収めた地を決戦の場に選んでおきながら、河の水を引き込んで泥沼に変え、さらに落とし穴を潜ませて多くの人馬に惨めな死をもたらした。
イシュテンの戦馬の神とミリアールトの雪の女王の加護によって大逆の企みは潰えたものの、キレンツ河――ブレンクラーレではノインテ河と呼ぶのだが――の水を勝手に使ったのはブレンクラーレへの侮辱にもあたったであろう。ついては首謀者のひとりたるハルミンツ侯爵の首を届けるので、以て詫びの証とされるように――
百戦錬磨の軍人どもも、腹黒い官僚どもも。侍女たちなどよりは現実的な反応をして怒りと不満の唸りを上げた。ティグリス王子の策によりノインテ河の水位は減り、確かにブレンクラーレの物流によからぬ影響をもたらした。しかし、その犯人が明らかになったための不平ではなく――イシュテンを非難する口実がなくなった、落胆のための怒りと不満だ。イシュテン王はさっさと詫びを入れて罪を異母弟に押し付けてしまった。――いや、実際にティグリス王子のしたことではあるのだが。
――なぜだ!? 何があった!?
アンネミーケの動揺は臣下たちよりもなお大きかった。ティグリス王子の勝利を、ほぼ疑っていなかったがゆえに。臣下たちがイシュテンに対して怒ろうとも、ティグリス王子が相手ならば領土の割譲など賠償も滞りなく進むと信じていたがゆえに。ティグリス王子には、兵を与えて王位を得るための手助けをしてやった貸しがあるのだから。だが、そのティグリス王子も胴と頭とを分かたれたという。
ならば、この数年を掛けてイシュテンに手を伸ばしたのは、蔦のように這いより根を張り、敵国を弱め取り込もうとしたのは、全て無駄になってしまったのか。
ティグリス王子が、よほど運が悪かったのか。イシュテン王は罠を乗り越えるほどに強かったのか。あるいは――裏切りがあったのか。
イシュテンの使者を問い質したくても、敵国との後ろ暗い取引を匂わせることは臣下の前では口にできなかった。そもそもイシュテン王が全容を知ったかどうかすら分からない。ティグリス王子との密約は、国内にも国外にも知られてはならないのだ。おぞましい詫びの品は、イシュテン王の牽制だろうか、脅しだろうか。お前の企みは知っているぞということなのか、お前もこの姿にしてやるということなのか。
掛ける言葉を見つけられぬまま、使者を、ハルミンツ侯爵とやらの首を、貫くように睨みつけていた時だった。アンネミーケの耳にもうひとつの報せがもたらされた。
イシュテンに送っていた間者のひとり――ミリアールトの王族の生き残りでもある、あの美貌の公子が帰還したという報せだった。
壮麗なる王宮の廊下を、アンネミーケは怒りに駆り立てられて急ぐ。目指す先は、懐妊中の王太子妃の居室がある一角だ。あの公子は、彼女への報告よりも先に、大事な身体のギーゼラを煩わせ惑わそうとしているというのだ。イシュテンで何が起きたかが見えない苛立ちに加えて、自身の美しさを弁えていないとしか思えない公子の軽挙もまた、彼女にはこの上なく不快だった。
「公子! これは一体どういうことか!?」
先触れを出す暇も与えず、手ずからギーゼラの部屋の扉を押し開けながら怒鳴る。と、目に飛び込んできたのは王太子妃の前に跪く麗しい青年の姿だった。
雪に焼けたか、新雪のような白皙の頬はややその色を濃くし、恐らくは厳しい行軍によって体格も一回り引き締まったように見える。つまりは儚げな美貌に男らしさが加わって、アンネミーケが忌み嫌う美しさに磨きがかかったということだ。
「摂政陛下……」
青年は扉の音にこちらへ顔を向けて、ゆっくりと瞬く。宝石のような碧い瞳もまた、うんざりするほど輝かしい。
顔を顰めたアンネミーケには頓着せず、公子は立ち上がると彼女の前に再び跪いた。発言の許しを与える前に、長ったらしい挨拶を省いて。蕩けるような微笑みで、とんでもない無作法を慇懃に述べる。
「褒美を、いただきたいと存じます」
「何を……!」
怒りのあまりに、アンネミーケの舌は凍った。
イシュテンで何があったか、彼女はまだ知らない。しかし、仔細はどうあれ、この青年は彼女が与えた命を全うすることができなかったのだ。ティグリス王子の手足となってイシュテン王を討つ助けになれ、という命を。落ち度を弁明するでもなく、事の経緯を報告するでもなく、アンネミーケを無視して身重の王太子妃を訪ねるとはどういうことか。
――しかも褒美だと!? 何をぬけぬけと……!
「イシュテンを、かつてなく弱めることができたかと思いますが。摂政陛下のお望み通りに。ティグリス王子の策は途中までは成功したのです。イシュテン王の軍は泥の中でもがきながら潰えるところでした」
「……そうならなかったのだな。なぜだ」
公子は軽く首を傾げた。すると髪がさらりと頬に掛かってアンネミーケの神経を逆撫でる。戦いと長旅を経ても、金の髪の艶やかさは憎たらしいほどにいささかも衰えていなかった。唇が微笑みの形に弧を描くと、花の蕾が開く時のように甘い香りが漂うようで――腹の底が、むかついてくる。
「私が、イシュテン王の軍に道を示しました。罠に阻まれることなくティグリスまで辿り着くことができる経路を」
「バカな……っ!」
思わず声を荒げると、ギーゼラが怯えたように身を竦ませるのが目に入った。嫁を怯えさせるのは決して彼女の本意ではない。本意ではないが、高ぶる感情を制するなど、今の彼女には無理な相談だ。
――よりによってなぜギーゼラの前で……!
ギーゼラの強ばった表情を見れば、この部屋を真っ先に訪ねたことへの怒りが一層深まる。ギーゼラにこのような顔をさせるのは、この男のせいだ。その憤りは鞭のように鋭い詰問となって公子に叩きつけられた。
「なぜだ! なぜそのようなことを!」
「シャスティエを脅かす者を生かしてはおけないでしょう」
公子は当然のように堂々と答え、会ったこともない姫の名を聞いたギーゼラの顔は泣きそうに歪められた。この娘は、夫の子を孕みながら美貌の貴公子にまだ心を寄せているのだ。公子と、王太子妃と。ふたりの裏切りを目の当たりにして眩暈を覚えながら、アンネミーケは必死に言葉を探した。
「……そなたを信じた、妾が愚かだったのだな」
この青年をギーゼラから遠ざけることを何よりも優先したために犯した過ちだった。あの時は、それが最善と思えたのだ。しかし結果を見ればどうだ。
公子のシャスティエ姫への執着はいささかも衰えず。ギーゼラも、数ヶ月ぶりにひと目見ただけでまたこの男の見てくれに心奪われている。
「とはいえイシュテンの受けた痛手は大きい」
ギーゼラが惑わされるのも無理はない。怒りに全身の血が滾るような思いをしていてなお、この青年の微笑は危うく見蕩れそうなほどに美しかった。
「王の側も反乱側も、等しく大きな損害を受けました。策が策でしたから、死者に加えて戦えなくなった者も多い」
「だから褒美を寄越せ、と? 命に背いておきながら、図々しいにもほどがある!」
「更に策を献じます。異母弟を退けて、イシュテン王は諸侯の支持を集めるでしょう。このままではブレンクラーレが最も忌むイシュテン王になってしまう。若く力を持ち――他国を攻める野心を持った強い王に」
滅ぼされた祖国に言及した時、公子の目には確かに昏い憎悪が宿った。ギーゼラでさえ口元を抑えるほどの強く激しい感情――しかし、アンネミーケを動じさせるほどのものではない。
「そなたがそう仕向けたのだろう。なぜ詫びて許しを乞わぬ?」
「この方がブレンクラーレの利になると思ったからです」
他国の王族に対して、あえて高圧的な物言いをしてみても、公子は動じなかった。以前はちょっとした挑発にもすぐに顔色を変えて感情を露にしていたものだったが。兵を貸して戦う機会を与えたことで、この子供に策の巡らせ方と人の使い方を教えてしまったのだろうか。
「イシュテン王が力をつけるのを、快く思わない者が残っているでしょう。――ティゼンハロム侯爵。王妃の父で、王女の祖父。イシュテンの王女はまだ幼いのでしょう。しかもあの国では女は王とは認められない。ティグリス王子以上に、イシュテンを荒れさせてくれるでしょう。そして、その引換えに――」
「ティゼンハロム侯は既に我らの誘いを断っている。娘を脅かした側妃は自ら引き裂くと言い放ったとか」
――やはり、例の姫のためか!
公子の言い分を予測したアンネミーケは、先回りをして黙らせようとした。しかし、この上なく愛しているらしい姫に、更にはその死に言及したというのに、美しい青年の余裕は消えない。
「それはティグリス王子の乱が起きる前でしょう」
跪いた体勢からアンネミーケを見上げる碧い目は揺るぎなく、あくまでも澄んでいる。自身の正義を確信し、疑いなど欠片も持たない者の目だった。
「イシュテン王が勝利を収める前ならば、ティゼンハロム侯は婿などいつでも降せると思っていたはずです。あの国では王よりも諸侯の力が強いことはよくあることなのですから。ですが、他に王位継承者がおらず、卑劣な策を堂々と破った今ならば、幼い王女を擁して王と争うのは難しいのではないでしょうか」
「…………」
「ティゼンハロム侯は焦っているはず。かつては撥ね付けた誘いも、今なら検討してくれるのではないでしょうか」
――そなたがそのように仕向けたのだろうが!
したり顔での献策とやらに、アンネミーケの怒りは増すばかりだ。ブレンクラーレのためなどと片腹痛い。この者の主張は結局、だからシャスティエ姫を取り戻すように交渉しろ、ということに尽きるのだ。
「必要以上に他国に介入してブレンクラーレの兵を磨り減らすつもりはない」
他国という表現には複数形を使った。イシュテンへの介入というだけではなく、ミリアールトを助けるつもりはないと仄めかしたのだ。ティグリス王子への力添えという口実があればこそ兵を貸す気になった。王族であり継承権を持っていたティグリス王子と比べると、ティゼンハロム侯とその孫娘を支援する正統性は薄い。
ミリアールトの――ひいては亡国の姫のために、他国の王位簒奪を目論んだなどという評判を被るのでは採算が合わないのだ。
「では今回戦って死んだ者たちは無駄死にですか? 生き残った者たちを伴って帰ったのですが、彼らは報われることを望んでいます。報奨が欲しいというだけではない。ブレンクラーレがイシュテンを降すための礎になったと思いたいのです。その思いを、無為になさるおつもりですか?」
「あの者たちの働きには報いよう。そなたにも――いずれ祖国は返して差し上げよう。従姉姫のことは諦めて黙って待て」
結局のところ、この者は彼女の臣下ではない。滅びたとはいえ一国の王族。シャスティエ姫を切り捨てるならば、ミリアールト王に押し上げて恩を売るという利用価値もある。いかに怒りを募らせても、安易に処罰するなどできないのだ。
「分かっていただけないのは残念です」
言葉では諦めたように言いながら、しかし、公子の微笑みは崩れない。形の良い唇は、むしろ彼女を嘲っているようにさえ見えた。
「それでは言い方を変えましょうか。――シャルバールで汚名を重ねたと、ブレンクラーレで広まるのは拙いのでは? イシュテンの国内で醜い内乱があったのではなく、名高い摂政陛下があのような策を後援していたなどと知れたら――」
「な――っ!」
――こやつ、妾を脅そうというのか!
怒りで息を詰まらせ、思わず唇を噛み締めたアンネミーケを他所に、公子はギーゼラにどこか媚びるような上目遣いをくれた。
「妃殿下、シャスティエのことを憐れんでください。義母君様に口添えを。貴女と同じく身重の若い姫が、命の危険に曝されているのです」
「あ――」
美しい青年の視線を浴びて赤面したのも一瞬のこと、ギーゼラは膨らんだ腹を抑えて顔色を青褪めさせた。娘のおどおどとした目が、義母と公子の間を行き来する。アンネミーケの顔色を窺いつつ、公子のシャスティエ姫への恋慕を知りつつ。それでも恋する男の力になれるという誘惑は甘いのだろうか。
「あ、あの、お義母様……」
ギーゼラが再び口を開く前に、アンネミーケは義理の娘が出した結論を知っていた。姑の怒りを買うことを恐れながら、それでもこの娘は恋を取った。夫と――生まれていないにしても――子を持ちながら、浮ついた恋に屈して誇りを捨てたのだ。
「ミリアールトの姫君を……助けて差し上げる訳には、いかないのでしょうか……」
――ああ、何ということ……!
怒りと失望を呑みくだすために瞑目しながら、アンネミーケは深い敗北感を味わった。
彼女は賭けに負けたのだ。息子マクシミリアンのためにイシュテンを弱めようという賭けに。十分に分が良いと考えて、更に慎重に慎重を重ねたはずなのに、いつの間にやら負けが込んでこの有り様だ。イシュテンを追い詰めるはずが、今や追い詰められているのは彼女の方だ。
ギーゼラの懇願は駄目押しに過ぎない。アンネミーケはもはやこの賭けを降りる訳にはいかないのだ。
公子は、アンネミーケの介入を知る者が自分だけではないと匂わせた。イシュテンに赴いて生還した者たちがいる。中途半端に乱に加担して、何も得ずに終わらせたとなれば、彼らは不満の声を上げるだろう。人数自体は少なくとも、それを利用しようとする者も現れる。
アンネミーケは、所詮嫁いできた王妃の身だ。王に代わって国政を預かることすら分を超えていると言う者もいる。夫君にそのような器はなかったのに! この上他国の争いに手を加えて、しかも失敗したと知られれば、国を憂える忠臣どもとやらに格好の口実を与えてしまう。国を壟断する女狐を追放するという口実を。
――そうなっては……マクシミリアンではこの国は手に負えぬ。
深く息を吸って気を落ち着けてから目蓋を開くと、彼女を見上げる碧い瞳と目が合った。アンネミーケに他の選択肢がないことを承知しているのだろう、口元に浮かんだ笑みが晴れやか過ぎて気に障る。
「……ティゼンハロム侯爵に使いを出そう。その際にはまた公子にも協力を願う」
彼女が頼っていた間者たちのほとんどは、イシュテンから帰らなかった。かの国の事情と言葉を介する手駒が、彼女の手元にはもう少ない。信用できずとも、裏切られても。まだこの者を使わなければならないのだ。
「まことにありがたく存じます」
勝ち誇るように微笑んだ公子の美貌が、眩すぎて忌々しい。
無性に苦い茶が飲みたいと思った。