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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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帰途 アンドラーシ

 ティグリスの死に顔は眠るような穏やかなもので、アンドラーシにはほんの少しだけ気に入らなかった。とはいえ多くの者が言っていたように、拷問して苦しめてやれと思っていた訳ではないし、王がそのようなことをするとも考えてはいなかったのだが。それでも、多くの血を流し多くの命を奪った者が裁かれたのだ。何か――悔恨なりのもっと重々しい表情を浮かべていて欲しかったということなのかもしれない。


 王が、全軍が目覚める前の夜明けの薄闇に紛れて処刑を行ったのも不満に思う者がいるようだ。王族を跪かせて嘲りや辱めの言葉を投げてやりたかったということらしい。これも悪趣味かつ器の小さい考えというべきだろう。

 だから、気に入らないからといってこうだったら良いというほどのこともなく、ましてや死者を蘇らせて処刑をやり直すなどできるはずもない。そういうことなので、アンドラーシは王の手並みが確かなものだったのだな、と思って納得することにした。




 ティグリスの首を掲げながら、王の軍はやっと王都への帰途についた。死体や平野を浸した泥水の後始末に追われるうちに、季節は完全に冬を迎えている。とはいえ年が明ける前には王都にたどり着くことができるだろう。イシュテン全体に多大な犠牲を強いたティグリスの乱も、やっと集結を見ることになるということだ。


「――穏やかな顔だな」


 後ろから聞こえた声に振り向けば、ジュラが馬を寄せて来るところだった。視線を辿れば何をさしての発言かは一目瞭然――彼がちょうど考えを巡らせていたのと同様に、友はティグリスの首を見上げていた。


 ――そういえば、こいつはティグリスに手を焼いていたな……。


 必ず死を賜るべき罪人は、裏を返せばその時までは必ず生かしておかなければならないということ。その点、ティグリスは頑として食事を拒み、警護を任されたジュラを苛立たせていたのだった。そう聞いていたのもあって、穏やかな死に顔に違和感を持ったのかもしれない。


「さすがに覚悟を定めたということなのかな」


 彼自身も信じていることではなかったがとりあえず言ってみると、ジュラはさあな、と愛想なく答え、手振りでついてこいと示した。

 何か内密に言いたいことがあるのだな、と察してふたりして無言のうちに馬を並べて列を離れる。冬の鋭い風を感じつつ、十分に人の目も耳も避けられるほどの距離を稼ぐと、ジュラはぼそりと呟いた。


「陛下は密かにティグリスと会ったのだ」

「ほう?」

「あの者に確かめたいことがある、と仰ってな」

「それで何か得心したことがあって、あの表情だと?」

「それは知らん。陛下が必要なことを聞き出したのならば、我らには時期を見て教えてくださるだろう」


 ジュラの口ぶりから、この男も王とティグリスが会ったその場にはいなかったのだと分かる。そして、その内容を聞かされていないことを重要だと考えていないことも。王は彼らを信じ、彼らも王を信じている。王が何を知ったにしろ、聞かされるべき時に聞かされるだろう。アンドラーシも友とまったく同じ見解だった。


「ならば、わざわざ呼び出したのはなぜだ?」


 ジュラもティグリスに対しては複雑な思いがあったに違いない。とはいえ死者にいつまでも拘泥するのはこの男らしくないと思う。ティグリスのもたらした惨禍と怨嗟の凄まじさゆえ、死した後でも首が損なわれることのないように、今もその周囲は兵で固められてはいるが――ジュラはそのように器の小さい男ではないはずだ。


「……ティグリスめにカーロイ・バラージュが腕を失ったと伝えたのだ。あれほどの犠牲を生み出しておきながら、子供の駄々のような態度が気に入らなくてな」

「ほう」


 ――よく言ったものだな。


 むっつりと、どこか不機嫌そうな顔をしたジュラを、アンドラーシはまじまじと見た。黙々と主命に従うことを持って信条とするような愚直な男だ。だからこそ全軍から憎悪を浴びせられるティグリスの身柄を任せられたのだと思う。そのジュラをしてひと言言わせたということは、ティグリスの態度はよほど目に余るものだったのだろう。


「だが、あやつは嗤ったのだ。良いザマだと。五体満足なのをひけらかすからだ、と……」

「ひねくれているな」


 アンドラーシは顔を顰めた。彼はカーロイ・バラージュの悲嘆を目の当たりにしている。歳若い身で家名を背負い、癒えない傷を負ってなお王のために尽くそうとしていた。それほどの悲愴な覚悟を固めた者を嘲るなど、まともな神経とは思えなかった。


 ――いや、奴は最初から狂っていたのか……?


 カーロイに毒刃を浴びせた時のティグリスの声は、この上なく嬉しそうだった。敗れた身でありながら、背を向けた勝者に暗器を向けるのも理解しがたい卑劣な行為だ。つまりはあの者の性根も理解しがたい狂人のもの、となるだろうか。


「だが、分からないでもないと思ったのだ」

「何を言う!?」


 一層眉を寄せ、頭を振って蘇るティグリスの哄笑を振り払った瞬間。耳に入ったのは、思いもよらない友の言葉だった。咎める目を向ければ、ジュラはどこか困惑したような表情で彼の視線を受け止める。


「カーロイ・バラージュを見たからこそ、だな。仮に俺が手足の一、二本も失うことがあったなら。二度と戦えぬ身になったとしたら。――ひねくれるに違いないとも思うのだ」

「そうか?」


 アンドラーシは子供っぽいと思いながらも唇を尖らせた。ジュラはまだカーロイと腹を割って話したことがないはずだ。歳下とは言え一人前の男が涙ぐんだ場面など他言する気はないが、少なくともあの少年は不具の身を受け入れて前へ進もうとしている。ティグリスのように捻れた性根の者ばかりではないのだ。


「……ティグリスは泣いていた。不具のために陛下に顧みられなかったのに、カーロイ・バラージュはなぜ、と」

「……何?」


 ジュラは大層気まずげに、ごくゆっくりと言葉を紡いだ。その理由はよく分かる。ちょうどアンドラーシが考えたように、男が泣いた場面を人に漏らすのは後ろめたい。たとえそれが死んだ者、許しがたい敵であったとしても。


 非難と驚きを込めて声を上げると、ジュラは言い訳がましく目を逸した。


「だからといって許す気はないぞ。ただ、憐れになったのだ。……陛下にお仕えする道が絶たれたら、と思うとな」

「バカバカしい!」


 ジュラの言いたいことは分からないでもなかった。カーロイの奇禍を憐れみ、ティグリスの所業を憎むと同時に、彼はその運命を受けたのが自分自身でなくて一抹の安堵も感じていたから。戦えなくなるということ、その可能性を考えるだけでもイシュテンの男には死よりも恐ろしい恐怖になるのだ。

 それをよく承知した上で――アンドラーシはあえて強く否定した。


「それこそカーロイを見ろ。陛下はあの者を重用しようとなさっている。剣でしか戦えぬ者こそ弱いのだ。戦えぬなりに、陛下のお役に立つ方法を考えれば良いのだ」

「それも……そうだな……」

「大体、なぜ俺にそのようなことを言う? 俺が慰めるとでも思ったのか。あるいはティグリスを憐れむとでも?」


 曖昧に言葉を濁すジュラを、アンドラーシは不審の目で眺めた。そのようなことを期待されていたのだとしたら、友人は彼の性格を大きく見誤っている。長い付き合いだというのに今更おかしなことだった。


「いや。うん……そうか、お前ならばあっさりと否定してくれるだろうと思ったのかもしれないな。迷うなどくだらぬと両断してくれるだろうと」


 そして、ジュラは軽く苦笑のような表情を見せた。


「戦う以外の道などと、お前から聞かされるとは思わなかったが。読み書き勉強の類は大嫌いなくせに」

「……別に学問の方面に限らなくても良いと思うが」


 確かに、具体的にどうすれば良いのかは考えていなかったし、彼が勉強嫌いなのは事実でもある。ただどこかバカにされたような空気を感じてアンドラーシは少し機嫌を傾けた。ただ、同時に安心もする。ジュラはティグリスに同情しているとか戦いを恐れるようになったとかいうのではないらしい。ただ胸に(こご)ったことを吐き出して、後に引かないというならそれで良かった。




 しばし、ふたりは無言のうちに馬を進める。言い出したのはジュラだったが、戦いの前にアンドラーシがカーロイを連れ出したのと同じような構図になった。


 ――あの子供……王都まで保つと良いが……。


 カーロイの傷は、一応は塞がって膿むこともなかったということだ。王の命で高価な薬を惜しみなく与えられたというし、寒い季節であったことも幸いしたのだろう。ただ、重傷から来る発熱がまだあの少年を苦しめている。にも関わらず王都まで騎乗すると言って聞かないというから強情だ。高熱と慣れない片腕で、手綱さばきを誤って落馬でもしたら、それこそ拭えない汚名になるだろうに。


 ――まあ、意地なのだろうな。


 不具になったとはいえ余人の手を煩わせる気はないし、形だけでも馬に乗ることができるのだ、と。身体で示しているのだと思う。

 それに、カーロイはリカードの弱味を握ってもいるらしい。これまた詳細は王が時機を見て教えてくれることなのだろうが、絶大な権力を握るあの老人を告発するからには、強がりでも堂々と構えていなければならないのだろう。


 これからの政争に思いを馳せ――同時に、アンドラーシは王都には吉報も待っていることを思い出した。


「奥方が懐妊したそうだな」

「ああ……知ったのが戦いの後で良かった」


 ジュラの屋敷からの手紙は、戦いが終わった後で届いた。薬などの物資や訃報、故郷に送られる死体までもが行き交う中、宛名の人間に正しく届いたというだけでも奇跡のようなことだった。純粋にめでたいというだけでなく、友人を揶揄(からか)う種ができたという点で、アンドラーシにとっても良い報せだったのだ。


「子供ができるから怖気づいたのではないだろうな」

「まさか」


 早速意地悪く聞いてやると、即座に否定が帰ってきた。だが、少なからず図星をついていることは、わずかに引きつったジュラの頬が教えてくれる。第一、先ほどの呟きで白状したのも同然だ。知ったのが戦いの後で良かった――つまり、その前に知っていたらどうだったというのだろう。


 ――妻子ができると思い切りが悪くなるものなのかな?


 少なくとも王は、王妃や王女や側妃がいるからと判断を鈍らせることはないようだが。勇猛な武人であるジュラをして腑抜けさせるとは、やはり結婚とは厄介なものらしい。


 そのような感慨はさておき――


「クリャースタ様の御子と同い年になるということか。世継ぎの王子の乳兄弟というのも悪くないのではないか」


 アンドラーシは、ややわざとらしく底抜けに楽観的なことを言ってみた。側妃の御子もジュラの子もつつがなく生まれ、しかも共に男児である、という。ジュラの奥方が王のこの乳母を務める、という。今回の乱の結果は――勝ったとは言え――凄惨なものだったから。勝ってなお、次の戦いはすぐそこに控えているから。少しは明るいことを考えても良いと思ったのだ。


「御子の方が先にお生まれになるであろう。それでは乳母は務まるまい」


 すると、流石に不遜に思ったのかジュラは顔を顰めた。が、すぐににやりと人の悪い笑みを浮かべる。


「王の御子との(よしみ)を繋ぎたいというのならば、お前が励めば良い。まだ結婚はしないのか?」

「陛下の御代が落ち着くまでは、余計な(しがらみ)に囚われたくない」


 旗色が悪くなったのを感じて、アンドラーシはふいと目を逸した。ただでさえ親きょうだいや親族が結婚しろとうるさいのだ。この上他人にまで余計な世話を焼かれたくない。妻や子供など、戦いの邪魔になるだけ。たった今ジュラが教えてくれたばかりだ。


「カーロイの様子を見て来る。朦朧として馬から落ちることのないように。話し相手を務めてやろう」


 だからアンドラーシは面倒な話題から逃げることにした。カーロイの体調が気になるのは事実でもある。どうせあの子供は熱を押して無理をしているのだろう。騎乗を止めさせるなど誰にもできないが――意識があるのに車で運ばれるなど屈辱だ――話し相手がいた方が気が紛れるだろう。


「あまり虐めてやるなよ……」

「分かっている」


 幸いにジュラも軽く皮肉っただけのようで、殊更に追求されることはなかった。




 手綱を引き、馬を駆けさせて。アンドラーシはバラージュ家の紋章を探した。話をするのはカーロイのためだけでなく、彼自身のためでもあったかもしれない。ジュラに対しては強気に言い切ったものの、彼も戦えなくなることは恐ろしい。


 ――お前はティグリスなどとは違う……陛下のご期待に、何としても応えるのだ、そうなのだろう?


 片腕失ったあの少年の活躍は、アンドラーシらにとっても希望なのだ。取り返しのつかない傷を負っても、主君に見捨てられることはないのだ、という。

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