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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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兄との対峙 ティグリス

 間近に迫った兄の顔は、激しい怒りで歪んでいた。このように激しい感情をぶつけられることは、ティグリスが長年願ってきたことではある。しかし、同時に浴びせられた言葉が、彼の心は凍らせる。


『貴様からの施しで、俺が喜ぶとでも思ったか!?』


 ――違う……そんなつもりではなかった……!


 褒美などと言って強請ったのは、兄の気を惹くためだった。兄に背いて敗れた者らしからぬことを言って意表を突いて、彼の言葉に聞く耳を持ってもらうためだった。今のこの場に、余計な臣下も従者もいないから、兄もやっと彼と話をしてくれるのではないかと思ったのだ。

 事実、兄は彼に長々と語ることを許してくれた。だから、とても嬉しくて――つい、口が滑ってしまったのだろうか。


「私は……ただ……」


 兄に施すなど考えたこともなかった。彼はそれほどの者ではない。彼は常に兄を見上げていたのだ。兄に侍る忠臣面した者どもよりもよほど、兄と兄の国のことを考えてきた。ただ、それを知って認めて欲しかっただけなのに。


 ティグリスはほぼ十年ぶりに杖に頼らず自身の脚で立っていた。ただし独力によるものではなく、兄に喉元を掴まれる形で。貧弱な体格とはいえ、成人の男ひとりを支えて揺らぎもしない兄の膂力(りょりょく)に、改めて格の違いを見せ付けられる気がする。

 彼のように卑小な身で兄に挑むなど、端から思い違いも甚だしいということだったのか。


「今回の乱で何人死んだと思っている!? 俺が目的ならば余人を巻き込むな!」


 兄が続けたことは、牢でジュラに言われたことにそっくりでティグリスの胸に刺さる。あの者の方が――一介の臣下に過ぎぬあの男の方が、兄の考えを理解しているというのだろうか。


 ――兄上までそのような瑣末事を……!


 ひどい方だ、と思う。彼にとっては兄が全てだったというのに、兄は有象無象の臣下のことが大事だと言うのだ。この方は何度も彼を絶望させて、死んだ方がマシだという思いをさせて心を引き裂いているというのに。どうして分かってくれないのだろう。


 いっそこのまま首をへし折ってはもらえないものか、と。力なく目を閉じても、兄の怒りは収まらないようだった。


「王族が国を損なうのもイシュテンの悪習と、それは分かっていなかったのか! 貴様が王位を目指していると思えばこそ全力で迎えようと思ったというのに!」


 またも激しく揺さぶられて――しかし、ティグリスの心を揺らしたのは、兄の言葉の方だった。


 ――え?


 思わず目を見開けば、すぐそこで兄の青灰の瞳が燃えている。これほどに激しい感情を向けられたことに胸が高鳴り、全身の血が熱くなる。


「今、何と」


 声が掠れ震えているのは、喉が絞められているからだけではない。兄の言葉が、あまりに信じ難く、そして望外に喜ばしいものだったからだ。


 ――全力で迎えると……仰ってくださった……!?


 反問を口答えと捉えたのか、兄は顔を顰めると彼を突き放した。部屋の真ん中では縋るものもなく、ティグリスは床に崩折(くずお)れる。だが、兄を見上げる体勢は何ら屈辱を覚えるものではなかった。


「イシュテンの弱さを暴く策を描いたのは貴様の功績だ。ただ誇ればよかろうに――俺に勝ったと、見せつける気か」


 彼の言葉は兄の耳には届かなかったらしい。兄の手は剣の柄のあたりをさまよって、抜き放とうとする衝動と戦っているように見えた。激情に囚われてなお、怒りに任せてティグリスを斬り捨てるのは兄の矜持に反するのだろうか。その律儀さ高潔さは、いっそ可愛らしいほどだった。


 それに苦り切った顔で吐き捨てるように言ったことが、彼をどれほど喜ばせてくれたことか。


「私が――勝った、と……?」


 心に浮かんだことをそのまま思わず口にすると、(ファルカス)が牙を剥いて唸るような顔をされた。


「あの罠を越えることができたのは俺の手腕ではない。あの時道を示した者共がいなければ結果はどうなったか分からなかった。――あれは、一体何だったのだ?」


 敗者に対して直截に問うのはよほどの屈辱なのだろう。歯ぎしりせんばかりの低く絞り出すかのような声だった。もはや言葉遊びなどせず、すぐに答えなければ、と思うのだが――


 ――これは……何よりの褒美だな……。


 溢れる歓喜で息が詰まり、容易に言葉を紡ぐことができなかった。兄の怒りは彼を認めてくれていたからこそ。だからこそ卑屈な物言いに激したのだ。知らず、目標としていた方と並ぶことができていた――そうと知るのは、まさに天にも昇るような心地だった。


 目を――絶望のためではなく涙を堪えるために――閉じ、深く呼吸をして。ティグリスは改めて顔を上げると、兄の目を直視した。


「――摂政陛下はイシュテンの力を弱めることを目論んでいました。不具の者が王になればイシュテンは必ず荒れる。頼りない王太子殿下の御代の間、外患を少しでも減らしたいということのようです」


 明瞭に、簡潔に。ここまで言ってくれたからには彼の手の内を明かさなくては。この方ならば、ティグリスを歪めたイシュテンの有り様をきっと変えてくださるだろうから。


「あの王子か……確かに……」


 急にはきはきと語りだしたティグリスに目を瞠ったのも一瞬のこと。兄もマクシミリアン王子とは直に会っているから、例の軽薄な言動を思い起こしたのだろう。眉を寄せつつも頷いてくれる。


「キレンツ河の水を引き込むのにも、ブレンクラーレの兵をお借りしました。あのような策でしたから、イシュテンの者では従わないでしょうから。――そう、ですから摂政陛下も水流を乱したと抗議するのは難しいはず」

「女狐めも承知していたから、か?」

「御意。私が王位を得ていれば、助力の礼として――表向きは賠償として――領土なりを差し出しても揉めることはなかったのですが。こうなった以上は下手につついて陰謀が露見するのは外聞が悪いでしょう。兄上は私が勝手にやったことだと撥ね付けてやれば良いのです」


 するすると会話が進むことに、ティグリスは奇妙な感動を覚えていた。彼の言葉に耳を傾ける者がほぼいなかったことに加えて、例えば叔父などは何を言っても反論したりすぐに無理だと決めつけたり、面倒なことこの上なかったのだ。今はクリャースタ・メーシェと呼ばれるシャスティエ姫も。物分りは非常に良かったが、(たおや)かな女性らしく、血腥い策には眉を顰めて反対の意を示してきたし、彼を見る目には隠しきれない憐れみがあった。


「摂政陛下の策は私をイシュテンの王位に就けるところまで。当面はブレンクラーレからの侵攻はない、と思います。ただ、弱いイシュテン王となり得る方がまだいらっしゃいますから――」

「リカードと通じてマリカを擁する、か。ふざけたことを……!」


 多くを語らずとも兄は彼の言わんとすることを察してくれる。当然のように、国内の事情を誰よりも知っているのがこの方だから。


 ――あの者たちは――いつもこのように……?


 この数日頻繁に顔を合わせたジュラのことを思い出す。このように国の将来について語り合えたら。理想を共に描ける主がいたら。どれほど心が踊るものなのだろう。兄を慕う臣下が多い理由を今になって知った気がする。


「ティゼンハロム侯は――」

「あの者を追い詰める算段はある。忠告はいらぬ」


 言い放つ兄の顔は確信に満ちて揺るぎなく、ティグリスの進言を退けるための方便ではないと知らせてくる。間もなく死を賜る彼を置き去りにして、この方は先へと進んで行くのだ。それが惜しいような妬ましいような。あるいはその道の礎となれたことが誇らしいような――そんな、相反する複雑な思いがティグリスの胸に渦巻いた。


 ――だが、良かった……!


 ティグリスの考えは決して間違ったものでも的外れなものでもなかった。兄も、イシュテンがこのままではいけないと考えていてくれていた。確かに彼は生涯のほとんどの時間、誰にも顧みられることもなく意見を述べる場も与えられなかった。だが、最後の最後に兄がいてくれた。彼の話を聞いて、認めてくれた。複雑な思いにあえて名をつけるとしたら、この上ない甘美さ、無上の歓喜だ。この瞬間をより際立たせるために、彼の人生があったのではないかと思われるほど。


「……例の一団のことは? あれは、貴様にとっても予想していなかったことなのだな?」

「あれは――」


 夢見心地のまま、ティグリスは兄の問いに答えようとした。しかし、ミリアールトの王族の生き残りだ、と口にしようとした瞬間、かの北国の姫の姿が脳裏によぎる。


 ――クリャースタ様が……悲しまれるかも……。


 生き残りとやらがどのような立場の者かは知らないが、クリャースタ妃に近しい者には違いないのだろう。それも、あの方は死んだと信じているはず。今更生きていると知ったところで、兄の耳に入れば――入らずとも、ブレンクラーレと結んでイシュテンに仇なすならば、遠からず討たれることになる。親しい血縁の訃報を、二度も聞く必要はないだろう。兄ほどではないにしても、ティグリスはあの美しく誇り高い姫も気に入っているのだ。

 それに――


 ――あの方が兄上に侍る限り、ミリアールトはイシュテンに従う。女王とその御子がいれば、傍流の王族程度が何を騒ごうと関係ない。


 一瞬のうちにそう結論づけると、ティグリスは滑らかにもっともらしい嘘を紡いだ。


「私にも分かりません。そもそもは伏兵として兄上の軍が罠に嵌ったところに追い討ちを掛けようということだったのですが」

「やはりか……」

「シャルバールの雪辱ができると見て暴走したのかもしれませんし、摂政陛下は実はイシュテンの王族を根絶やしにしようとしていたのかもしれません」

「しかし、結果的に女狐の策はことごとく破れたのではないか」


 周到に策を巡らせたのになぜ、とでも言うように。不審げに、そして疑わしげに目を細める兄へ、ティグリスは笑った。おもねるようなものではなく、心からの賞賛の笑みだ。


「はい。兄上は天命をも味方につけられたということかと」


 兄はそれを聞いて一層顔を顰めたが、それすらティグリスの笑みを深めさせた。以前追い返されたのは、臣下の手前見せた虚勢のようなものに過ぎなかったと確信したのだ。この方は、不具かどうかで言い分を聞かずに退けるような人ではなかった。耳を傾けるべきことには傾け、不審な点があれば質す。隠しきれずに嫌な顔をすることもある。最期のこの時になって兄の様々な表情を見ることができたのは純粋に嬉しいことだった。


「ともあれ、イシュテンへの介入は摂政陛下にも公にしづらいことかと思います。何ぶん卑劣な策ですから。少なくとも、今回の乱に乗じるということはできないかと。」

「そう、か……」


 兄は納得しきってはいないようだったが、頷かざるを得ないようだった。何を疑い案じようと、遥かブレンクラーレの摂政陛下の思惑を完全に読むことはできないし、イシュテンの内情を思えば無理に動くことはできないのだろう。


 ――とはいえ、兄上ならばきっと切り抜けるはず……!


 この短い間のやり取りで、兄への信頼は深まっている。彼と同じことを考えてくれていて、しかも彼にはない力があるこの方ならば、イシュテンを変えることもできるはずだ。武に偏った歪で野蛮な国ではなく、本当の意味で畏れられる国へと。

 彼が戦馬の神の草原に迎えられることはないのだろうが、はぐれた魂にもどこかそれを見守ることができる場所はあるだろう。


「――他に、お聞きになりたいことは?」

「……いや、もう良い」


 微笑みながら問うと、兄はまた嫌そうな顔をした。ティグリスが言外に込めた思いを、汲んでくれたに違いない。牢の中で思い悩んでいたのも、今となってはいらぬ憂いだった。

 兄はちゃんと彼を敵として見てくれていたのだ。成り行き次第では勝敗の結果は分からなかったとまで言ってくれた。そうまでして降した敵ならば――生かしておくなど選択の外だ。


「いつ、どのようにしてくださるのですか」


 反逆者とはいえ、死を命じるのはどのような気分なのだろう。少なくとも兄は敵を苦しめるのに喜びを見出すような悪癖とは無縁のようだが。もうひとりの異母兄やミリアールトの王族たちのように、兄自身の剣を振るってくれるのだろうか。

 期待を込めて見つめるティグリスから、兄は目を逸らさなかった。


「この上引き伸ばしては臣下を抑えるのも厄介になる。この夜が明けたら――それで、覚悟は良いか」

「はい。それで、どのように? 八つ裂きにでもなさいますか」

「バカげたことを」


 自身の死に様を冗談めかして口にすると、兄は叱るように吐き捨てた。不謹慎な言動を咎めるように。これではまるで普通の兄が弟を叱るかのようで、ティグリスの胸は熱くなる。


「そうですね。今からでは準備もできないでしょうし。――兄上のお手並みは、信じております」


 ティグリスの声は恐らく場違いに明るくて、兄も困ったのかもしれない。次いで言われたのは彼の言葉への直接の答えではなかった。


「今宵はどのように過ごすか、願いを叶えてやろう。マシな部屋で過ごすのも良いし、酒を望むなら与えよう」

「では、酒を」


 ――迂闊なことを仰ったもの……。


 王たる者が条件をつけずに願いを叶えるなどと言うものではないだろうに。ティグリスが逃げようとしたり難題を言ったりなどしないと、信じてもらえているのだろうか。彼が口にするのは、ある意味この上ない難題なのかもしれなかったが。


「付き合っていただきたいのですが、叶えてくださいますね?」


 母は幼い彼が寝ているところを押さえつけて脚を折らせた。傷は夜になると疼いて彼を安眠から遠ざけた。だから彼は夜も眠るのも好きではなかった。


 だが、人生の最後のこの一夜だけは。奇妙なことだが心からの安らぎを得ることができそうだった。

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