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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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弟との対峙 ファルカス

 ファルカスは、夜の闇に紛れてティグリスを連れて来させた。彼自身が牢に向かうことも考えたが、王が動くとなるとどうしても人目につく。卑劣な罠を巡らせた反逆者に、王が耳を傾けようとしているなどとは誰にも知られてはならない。ならば、相手を呼び出した方が安全だろうと踏んだのだ。




 ティグリスは両腕を人に抱えられて、荷物のように運ばれてきた。あの仕込み杖は既に取り上げたから、暴れることを警戒しているということではない。普通なら――あの時のように背を向けたりしなければ――ファルカスが不具の異母弟に遅れを取るはずはない。杖を使わせないのは、単に遅い歩みや杖をつく音で人の注意を引かないように、というためだけだった。


 ――だから、辱めるためではない……!


 自らの心に対し、ファルカスはわざわざ言い訳をした。戦いの後で散々殴られたとあって、目の周りが痣で黒ずんでいるティグリスの姿は惨めなものだったから。食を絶ったのはこの者の勝手ではあるが、頬も()けて(やつ)れている。そのような姿の者を見下ろすのは、いささか落ち着かないことではあったのだ。


 ジュラの配下の者だろう、屈強な男たちが手を放すと、ティグリスは立つことができずにその場に崩れ落ちた。捻れた脚に加えて、絶食によって体力を奪われているのだろうか。こうして引き出したのも、敗者を嘲るためだと思っているかもしれない。だが、断じて彼にそのような意図はないのだ。


「そなたたちは下がれ」

「は──」


 彼がティグリスに害される可能性を口にする不敬を、男たちは冒さなかった。ティグリスを連行した者たちを下がらせれば、彼ら兄弟はふたりきり。異母弟がどのような顔をしていようと恥じることはない、と。ファルカスは口元を引き締めてティグリスが体勢を整えるのを待った。


 そして、ゆっくりと首を持ち上げたティグリスが浮かべていたのは――彼が、予想もしていなかった類の表情だった。


「拝謁の機会を賜り、恐悦至極に存じます、兄上。――褒美をください」

「何……!?」


 人払いをしていて良かった、と心から思った。気構えも虚しくあっさりと驚きを露にしてしまった醜態を、余人に見られる訳にはいかない。しかし、ティグリスの陶然としたような笑みも、言葉の内容も、それほどに理解し難く気味の悪いものだったのだ。


「ふざけるな。何が言いたい」

「ふざけてなどおりません」


 睨んでみても、ティグリスの笑顔は依然として明るく、言葉も淀みがない。更には恐れるどころか、呆れと不審のあまりにファルカスが絶句してしまったのを何かの承諾と捉えたようで、滔々と滑らかに続ける。


「兄上にまつろわぬ諸侯は、此度の乱で多くが死にました。生かすことになる者もいるでしょうが、一度逆らったのを目溢(めこぼ)しされた身となれば抑えることは容易いでしょう。兄上に残る敵はティゼンハロム侯のみ。この私を――あの罠を破った御身にあえて逆らう者は少ないのではないでしょうか」


 ティグリスが馴れ馴れしく兄、などと呼ぶのを咎めるのは、もはや時間の無駄のような気がした。夜が明ける前にはティグリスを牢に戻さなければならない。その前に、ブレンクラーレと何を企んでいたか、乱の全容を明らかにしなければならないのだ。

 この異常な様子ではまともな情報を聞き出すのは難しいかもしれないし、信じられるかどうかも分からない。仮に聞き出すことができたとしても、公にすることはまず不可能だろう。かの大国と正面から争う余裕は、今のイシュテンにはないのだから。

 だが、それでも知らないままでいることはできない。知らないでは、備えることもできないまま。リカードという内憂を抱えたまま、外患を捨て置くこともまた、許容できることではなかった。ファルカスはティグリスの戯言に構わず、単刀直入に問い質した。


「それは、結果的にそうなったというだけだ。貴様はブレンクラーレとも結んでいたのだろう。女狐に何を約して何を得ようとしたのだ」


 ブレンクラーレの名を聞いても、ティグリスの表情が揺らぐことはなかった。側妃には打ち明けたことがあるというから、彼が知っていることも想定の内なのだろうか。晴れやかな――晴れやかすぎる笑顔は、依然として彼の目には気味が悪く映ったが。


「ですが、私は信じていました。兄上ならば摂政陛下や私の策など軽々と越えてくださるだろうと。第一、私が勝ったところで王が務まるはずがないではないですか」


 ごくあっさりと淡々と、自らを卑下してみせるティグリスに、ファルカスは返す言葉が見つからなかった。ティグリスの言は、厳然とした事実を突いていたから。ハルミンツ侯爵家の権勢があろうと、ブレンクラーレの後ろ盾があろうと、イシュテン諸侯は不具の王を戴くことを良しとするはずはないのだから。


 ――自らそれを言うのか……!?


 不具のくせに、と。リカードをはじめ王についた諸侯は散々嘲っていたのだ。ハルミンツ侯爵も自棄を起こしたものだ、と。

 とはいえ麾下の諸侯の手前、行動を起こさなければならなかったのは理解している。イシュテンの歴史には乱で得た王位を乱で失った王もいるのだから、これもまた国の気質の問題だ。だが、ティグリス自身がこのように醒めたことを言うのは聞き捨てならなかった。


「ならば、なぜ……!」


 ファルカスの脳裏に浮かぶのは、臣下たちの亡骸だ。それに彼を庇って毒刃を受けたカーロイ・バラージュの顔。皆、国の行く末を賭けた戦いだからこそ命を投げ出したのだ。なのに、敵の首魁がこの有り様では死んでいった者、消えない傷を負った者たちは報われない。


「今の、この時のため……兄上と向き合って話したかったからです」


 ティグリスの頬にほんのりと朱が差すのを、ファルカスは信じられない思いで眺めた。断罪と詰問のために呼び出された状況を分かっていないはずはないだろうに、この嬉しそうな――はにかんだような表情は何事か。


「――ふざけるなと言っている! 聞かれたことだけに答えよ。ブレンクラーレと何を謀った!?」

「ふざけてなどおりません!」


 先ほどと同じ言葉を、しかし遥かに鋭い口調で繰り返しつつ――ティグリスの目が不意に険を帯びた。じっとりとまとわりついて恨みがましい目つきは、まるで何かを責めているかのような。しかしファルカスにはその覚えが全くない。


「こうでもしなければ、兄上は私の話など聞いてはくださらなかったでしょう。あの時追い返されたこと、私は決して忘れません」

「あの時……?」


 何の話だ、と眉を寄せても答えが与えられることはなかった。母親の寡妃太后(かひたいこう)を思わせる昏い熱を帯びた目は、ファルカスを捉えて離さない。


「いえ、それだけならばこの脚ゆえと納得もできたのですが……。私の邪魔をしたあの者を、兄上は重用なさるとか。片腕失った不具にも関わらず! これは一体どういうことなのですか!?」

「貴様の預かり知らぬことだ!」


 叫ぶようなティグリスに対して怒鳴り返しながら――不意に、彼の方が詰問される立場になっていることに気付いて慄然とする。ティグリスの瞳には揺ぎも迷いも怯えもない。命永らえるために言い逃れをしようというのでも、狂人の振りをしてやり過ごそうというのでもないのだ。というよりも、彼を見つめる妙な熱のある視線は、狂人のそれそのものだ。嘘をついているとは思えない。ならば、この者は真実を述べているだけなのか。


 ――俺と話がしたいと言っていたというが……。


 ジュラからの報告を、彼は今までさほど気に留めていなかった。命乞いであれ恨み言であれ、彼の想像の範囲内のことだろうと疑ってもいなかったから。しかし、ティグリスのいうことは彼にはさっぱり理解できない。そこで改めて疑問が浮かぶ。


「俺に会ってどうするつもりだったのだ」


 すると、ティグリスはよくぞ聞いてくれた、とでも言いたげに、嬉しそうに微笑んだ。


「私を敵として認めていただきたかった。剣を握ることはできずとも、兄上と対等に戦えるのだと気付いていただきたかった。不具とはいえ思うことも感じることもあるのだと、分かっていただきたかった。全てそのためにしたことです」


 明瞭な言葉は、しかし意味をなさずにファルカスの耳を通り過ぎる。彼の目に浮かぶのは、眼前のティグリスの姿ではなく、やはり死んだ者たちの顔だ。それぞれ野心も打算もあって戦いに臨んだのだろう。死者の半分は彼に背いた者たちでもあるとはいえ、彼らは自らが戴いた者の本性をどこまで知っていたのだろうか。全身を引き裂かれて死んだハルミンツ侯爵も、乱の首謀者などではなく、甥に踊らされただけだったのか。


「摂政陛下の助力も含めて、私の全てを尽くして挑みました。そして、例え敗れても兄上の糧となれるように。此度のことで兄上の権威も名声は高まったはず。だから――」


 褒美をください、と。ティグリスは悪びれずに繰り返した。当然もらえるはずだと疑ってもいないような、曇りのない笑顔だった。


「褒美……何の褒美だ?」


 ティグリスは先ほど何か言っていた。乱は結果的に彼に利するものであったと。だから命を助けろ、などと言われたならばまだ分かりやすかったのに。褒美とは、普通は手柄を上げた者が主君に対してねだるものだ。断じて乱を起こした者が言い出すことではないはずだった。


「私は兄上の御心を理解していると信じています。武に偏り過ぎたこの国(イシュテン)の在り方は、おかしい。――だからこそ、ミリアールトを手中にされたのではないのですか。ただ奪うだけでなく併合することで、かの国の文化をも取り入れようと……」


 脚のために立てないということもあるのだろうが、ティグリスの体勢は跪く臣下そのものだった。顔を上げているのは不遜だが、それは即ちこの者は何の負い目も感じていないということでもある。


「クリャースタ様のことも、大変嬉しく思っているのです。ミリアールトを治めるならば、雪の女王の写し見の方と戦馬の王の結婚はまことに正しい。あの時は最後まで申し上げることができなかったのですが、言わずとも分かってくださったのですね」


 ファルカスを見上げる異母弟の目からは、言葉通りの喜びしか読み取れない。しかし戦いに敗れ彼に生死を握られた状況で見るものとしてはあまりに異様で――止める隙を、なくしてしまう。


「私も、ずっとイシュテンは変わらねばならないと思っておりました。だから、イシュテンの()()を知らしめてやろうと考えたのです。力だけでは通らないこともある、と臣下に思い知らせること。独断をせずに王に従う重要さを教えること。――これらもまた、兄上の治世のお役に立つはず」


 言われて蘇るのは、乱の勃発からの諸々のこと。奇襲による挑発。血気に逸る諸侯。明らかな罠を前にしてそれに飛び込んだ愚者に対して、ファルカスも確かに怒ったし、彼が治めるイシュテンの、国としての未熟さを噛み締めたのだ。


 ――この者も、気付いていたというのか……!


 ティグリスの言葉が、少しずつ頭に浸透していく。勝者が敗者を引き出して詰問する場には全くもって似つかわしくないものではあるが。にも関わらず思いのほかすんなり呑み込むことができたのは、彼も同じことを考え、懸念してきたから。だから、このある種異常な状況でも耳を傾けることができたのだ。


 ――何という……!


 ティグリスの主張を理解すると同時に、ある思いが腹の底から湧き上がった。その激情に駆られるまま。ファルカスはティグリスとの距離を一歩で詰めると、その襟首を掴んで引き上げた。ろくに鍛えていないであろう上に絶食していたという身体は意外なほどに軽く、支えるのにほぼ片腕だけでこと足りる。


 目を瞠るティグリスの顔が近づくと同時に、肺いっぱいに息を吸い込み――怒鳴る。


「――余計なことを!」


 彼の胸を燃やすのは、目が眩むほどの激しい怒りだった。ひとりでは真っ直ぐに立つこともできないティグリスへ、乱暴を働くことを思い切らせるほどの。


「それで恩を着せるつもりか!? 貴様からの施しで、俺が喜ぶとでも思ったか!? 何を回りくどいことを――気色悪い!」


 今回の戦いを経て、従軍した者たちの意識に多少なりとも変化があったのは感じている。馬を駆り剣を振るうだけが戦いではないと、自分たちの行動を省みる空気もある。カーロイ・バラージュや、その他にも多く出た重傷者は報いられてしかるべきだし、それならば戦い以外で身を立てる道も示されなければならない。


 それは、確かにファルカスが望む変化に繋がるのかもしれなかった。だが、それを全て見透かして操っていたかのように語るのは不快でしかない。元より彼は他人の力を借りるつもりなどなかったのだ。ましてティグリスは彼の敵だ。敵からの施しを僥倖として受け取るなど、彼の矜持が許さない。

 やはりこの者は彼の気性をよく知っているようだった。これほどの屈辱――これは、その上での嫌がらせに違いない。


「……あ……兄上……?」


 そして間近で怒声を浴びて初めて、ティグリスの笑顔が凍りついた。

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