国境へ レフ
傷の痛みと共に目を覚ますのは、レフに祖国が滅びた時のことを思い出させる。あの時は、傷のために伏せっている間に全てが終わっていたのだった。無数の屍。父と兄たちの首。王と王太子も死んで、美しい従姉は連れ去られて。
目が覚めたら愛する者全てが失われていたあの時の恐怖と後悔は筆舌にしがたく、彼の心に深い傷を残している。思い返すだけでも彼の魂を引き裂いて、今も目を開けるのを――眠っている間に何が起きたのか確かめるのを――恐ろしいと思わせるほど。できれば暖かい闇の中、眠りという安らぎに浸っていたいと思うほど。
――もうあんなことは起きない。起きさせない。僕が、怯む訳にはいかない……!
自らを叱咤しながら、目蓋に力を入れてこじ開ける。身動ぎすると全身に痛みが走るのを無視して身体を起こす。傷のために多少の発熱もあるのだろうか、初冬のひんやりとした空気は火照った頬に心地良かった。
「公子。大丈夫ですか。魘されていたようでしたが……」
「大丈夫だ。何でもない」
心配げな顔で覗き込んできた男――ブレンクラーレの兵のひとり――もまた、レフに劣らず全身を傷に塗れさせていた。イシュテン王とティグリス王子とが雌雄を決する戦場を逃れて後、彼らは人目を避け、山中を分け入るようにしてブレンクラーレを目指している。イシュテン入りする際はティグリス王子の手引きがあったのだが、もはやそれは望めない。イシュテン王は乱の後始末に忙しいのだろうが、不審な一団が国境を越えようとしているとなれば放っておいてはくれないだろう。
怪我人を抱えて、更には冬が近づく中での強行軍は決して楽なものではなく、双方の顔には疲労が色濃く刻まれていることだろう。
「今朝は――皆、無事だったか?」
「はい。幸いに」
だから、重傷を負った者の中には夜明けを迎えることができない者もいた。日を追うごとに彼らの人数は欠けていき、目覚めることがなかった者は異国の土に抱かれて永の安らぎを得ることになっている。高みから見そなわすという大鷲の神、ブレンクラーレの守護神ならば、彼らの魂を拾い上げて天空の玉座に侍らせるということもあるだろうか。
「それは良かった」
友を異国に捨て置くのは心が痛むことなのだろう。同輩の無事を告げる男の表情は、疲れきって黒ずんだ顔色とは裏腹に明るかった。レフが内心で舌打ちをしているなどとは、想像もつかないに違いない。
――もう少し数が減れば良いのに……!
同道する者たちは知らないことだが、彼は摂政陛下――ブレンクラーレ王妃アンネミーケの命に背いている。話の通じるティグリス王子を勝たせてイシュテンの脅威を削ごうという展望に対し、真逆の結果をもたらしてしまったのだから。それも、単に失敗したということではない。わざと、ティグリス王子を敗北へ導いたのは、明白に彼の意思によるものだった。
無論、怒り狂うであろうアンネミーケへの言い訳というか対案も用意してはある。というか、結果的にイシュテンの軍は大幅な消耗を強いられたのだから、文句を言われる筋合いはない、とさえ思ってもいる。それでも彼の嘘を実際に見聞きした者の数は少ないに越したことはない。この者たちにとっても、友が死に自らも傷ついた作戦が、自国の王妃ではなく異国の者の私情に因るものだったなどとは知らない方が良いのだろう。
「先を急ごう。一日も早くブレンクラーレに帰り着くために」
無論、レフが内心の昏い算段を表情に上らせることはない。それどころか、励ますように微笑みを浮かべてやると、相手の頬に僅かながら赤みが差した。嬉しげに力強く頷く姿は、ブレンクラーレの王太子妃と対した時のことを思い出させる。彼の美貌が世間知らずの姫だけでなくむくつけき男たちにも効果があると分かったのは、驚くべき――しかし利用すべき収穫だった。
――シャスティエも、自分の容姿の価値に気付いて欲しいものだけど……。
彼によく似た顔かたちをしている従姉は、姫であるがゆえに彼よりもなお嫋やかで美しい。その微笑みにはあらゆる悪意を萎えさせ敵さえも魅了する効果があるだろう。……ただし口を開きさえしなければ。強情で矜持高い彼女が、他者に――ことに憎い仇であるイシュテン王に媚を売るなどという発想ができるだろうか。
愛しく美しい従姉の面影を思うとレフの胸は甘く痛み、彼女の置かれた境遇を思うと不安と恐怖に潰れんばかりに感じる。いずれにしても、難路を進む力を彼に与えているのは、従姉への想いに他ならなかった。
下生えを掻き分け、谷間や急な勾配などの難所が続く道中では、馬はさほど役に立たない。だから、戦場を駆け抜けて生死を共にした馬たちも、順番に肉に変わって彼らの腹を満たすことになった。怪我人を運ぶのに残しているものもいるが、狩りで食料を得られる保証もないし、怪我人自体も数を減らしていっているから、遅かれ早かれそれらも務めを終えるだろう。イシュテンの国境の内でのことだから、よく人に仕えた馬なら死しては戦馬の神の眷属として遇されることもあるかもしれない。
鷲にしろ戦馬にしろ、レフが信じる神ではないから知ったことではないと言えばそれまで、そもそも今の彼は神の加護など雪の女王のそれであっても信じられない。だって、女神が本当に存在するなら、自身の娘と称えられたシャスティエの苦境を放っておくはずがないのだから。だからレフが人の身でありながら尽力しているのだ──などとは、それはそれで不遜な考えなのだろうが。
とにかく彼は祖国を遠く離れて彷徨っている。
「公子はよくついて来られるものです。安心いたしました。――失礼ながら、荒事に慣れているようには……」
「女の子のようだとよく言われたよ。自分でも分かっている」
霜を踏み砕きながら歩を進めていると、兵のひとりが話し掛けてきた。褒めるつもりで、途中で無礼なことに気付いたらしい。それに対してレフは笑って、気にしていないと示してやった。
「寒さは傷には障りませんか」
「ミリアールトの冬に比べればどうということもない。傷も割と浅かったし。雪の女王のご加護ということなのかな」
とうに板についた作り笑顔で、レフは良心の呵責を覚えることもなく思ってもいないことをさらりと答えた。すると相手は感心したような顔を見せて彼に憐れみと嘲りを同時に抱かせる。
彼の傷が他の兵たちに比べて浅く、数自体も少ないのは事実だ。しかし、それが祖国の女神の加護などではないことは、彼自身が一番よく知っている。
彼はあの戦場で、何よりも逃げること――生きて戦場を離脱することを優先した。ブレンクラーレの兵たちにもそのように命じていたものの、彼らはレフとは心の持ちようが違っていた。
かつてブレンクラーレがイシュテンに大敗を喫したシャルバールの地。ただでさえ因縁のある地で、眼前の敵は混乱しまともに武器を取ることさえできていない。背後からは津波のようなイシュテン王の軍が露に怒号を上げながら追ってくる。因縁の地。脆い敵。その条件が重なった時、多くの者は背後から迫る殺気に呑まれ、溺れたのだ。
そうなると、彼の命令など何の意味もなかった。長年争い続けた仇敵が、たやすく屠れる状況は、恐らく楽しかったのだろう。兵の多くは積極的に敵を追い求め――そして、引き際を誤ったのだ。
もちろん混戦にあっても冷静さを保ったものも少なくなかったし、止めなかったレフにも責任はあるのだろうが。だが、ティグリス王子の陣営が損害を受け、同時にブレンクラーレの兵が損耗するのは非常に都合の良いことだったのだ。従姉を脅かす者は生きていてはならなかったし、生き残ったブレンクラーレ兵を誤魔化すのも面倒だっただろうから。
――今頃は、ティグリス王子も生きてはいないだろう……。
父や兄たちのように晒された首を想像して、レフは嗤う。ブレンクラーレの――アンネミーケの支援を信じて挙兵した王子への後ろめたさは、ない。ティグリス王子が王位を得た暁には、現王の子を宿した従姉は必ず殺されていただろうから。イシュテンの王族など彼にとっては嫌悪と憎悪の対象でしかないから。
「――ブレンクラーレに着いたら何をする?」
道中の疲れや寒さ、傷の痛みを紛らわそうというのか、誰かが声を上げた。
「そうだな……何をおいても妻に無事を伝えなくては」
「俺は子が生まれているはず。父の顔を教えてやるのだ」
他愛ない――けれど切実な願いが次々と挙げられる。故郷の風景、家族の姿、馴染んだ酒や料理の味。無駄口は体力の消耗に繋がりかねないのに、男たちは止めることができないようだった。故郷をしのぶ声に、レフの胸にも郷愁の念が呼び起こされる。
――ミリアールト……懐かしいな……。
祖国を離れてから既に一年以上が経った。イシュテンとの国境を越える時に、二度と故郷の土を踏まない覚悟を固めたつもりではあるが、だからといって祖国を忘れられるものではない。
一歩ごとに故郷に近づいている、周囲の者たちが羨ましくてならなかった。友を失い、全身に傷を負った苦難の道だとしても、彼らの旅路の終わりには愛する家族が待っている。だが、レフにとってはまだ通過点――長い長い戦いのただ中でしかないのだ。ブレンクラーレにたどり着いたとしても安寧とは遠く、アンネミーケとの対峙が待っているのだろう。
「――公子は? 他国のためにこうまで尽力してくださったのです。せめて後はブレンクラーレで安らかに過ごされるのですか……?」
レフが異国の者で、故郷を捨てた身だと思い出してくれたらしい。男のひとりが気遣うような目を向けてきた。
「そうだな……まだ何も考えていないのだが」
心の裡を明かせない時に目を伏せて言葉を濁すのにももう慣れた。そうすれば、周囲の者たちは何か自身に都合の良い解釈をしてくれる。今も、イシュテン王に殺された父や兄たちを悼んでいるとでも思っているのだろう。せいぜい彼を哀れんで、声を掛けるのを憚ってくれれば良い。嘘を重ねなくて済むに越したことはないのだ。心が痛むからではなく、矛盾を指摘されるのが厄介だからという理由だが。
彼はブレンクラーレで平穏な余生を過ごすことなど考えてもいないし、鷲の巣城の門を潜った後、真っ先に何をするかの算段も既に立てている。
――ブレンクラーレに着いたら、まずあの人に会わなくては。
ある人の面影を思い浮かべてレフはこっそりと微笑んだ。ギーゼラ――ブレンクラーレの王太子妃。夫のある身だというのに、彼女はどうやらレフに好意を抱いているらしい。鷲の巣城に滞在している間に感じた、あの女性の熱い視線は彼には鬱陶しいほどだった。
軽薄なマクシミリアン王子の妃、という。従姉がいたかもしれない立場を哀れんだのは、ごく最初の頃だけのこと。不実な夫に厳しく優れすぎた義母と、もちろん彼女も同情すべき立場ではあるのだが――従姉のそれと比べると甘いとしか言いようがない。
特に従姉がイシュテン王の側妃などにさせられたと聞いてからは、その程度のことで悲嘆にくれるギーゼラを疎ましくさえ思っていたのだ。
そこへ両者の懐妊の報だ。まがりなりにも祝福されて王子か王女をもうけようとしているギーゼラと対照的に、従姉は孕まされた胎児のために命を脅かされている。ギーゼラに罪はないと分かっていても、心穏やかに接することなどできるはずもなかった。
だが、今となってはそれも都合が良かったかもしれない、と思える。レフが見たところ、ギーゼラは人並み程度には優しく思いやりのある心の持ち主だったようだから。
――ご自身が幸せの絶頂にあるというのに、シャスティエは見捨てられて殺されようとしているなんて。……そんなことは、嫌でしょう?
従姉の苦境を他所に、自身ばかりが幸福を得るなど、ギーゼラとしても気まずいに違いない。心置きなく出産に臨むためにも、夫や義母に対しては慈悲深い行いを望むはず。まして、彼が懇願すれば。王太子妃にとって大層価値のあるらしい微笑みや熱い視線のひとつも投げてやれば。アンネミーケへの取り成しだって買って出てくれるだろう。
そして、冷酷非情と名高い摂政陛下も、嫁に対してはどうやら甘いようなのだ。初孫を宿したギーゼラを無碍に扱うなど、アンネミーケにとってさえも難しいのではないだろうか。
彼を信じたまま死んでいく兵たち。ギーゼラ。アンネミーケ。生まれてもいない胎児。
あらゆる人を利用し、あらゆる屍を踏みつけても、従姉への道はまだ遠い。しかし、確実に近づいてはいるはず。少なくとも、彼の行動によって従姉の死――ティグリス王子によって辱められて殺される運命は避けられたのだ。
だから、この道も彼女の元へと続いているはず。
そう自身に言い聞かせて、レフはまた一歩を刻んだ。