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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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牢の中で ティグリス

 ティグリスは固い寝台の上で膝を抱えて身体を丸めていた。ハルミンツ侯爵家に代々伝わる屋敷の奥深く、彼でさえその存在を知らなかった薄暗く湿った一角で。

 半ば地下に埋もれた部屋の、窓の地上に出た部分からはまだ陽の光が射している。とはいえその色は赤みがかっていて日没が近いと判じられる。そうなれば、この牢は真の闇に包まれるだろう。彼のような大罪人には蝋燭の灯も分不相応ということらしい。別に、彼は闇に怯えることも扱いに不満を訴えることもしないが。


 夕暮れ時の薄赤い光が照らすのは、床に投げ捨てられた皿と、その中身。兄は――あるいは兄が命じた者は、少なくとも彼を餓えさせる気はないようだった。それどころか兄は臣下たちが彼を殴り殺そうとするのを止めたし、傷の手当さえまともにさせた。誰もが死を望んでいるであろう大逆者、憎むべき卑劣な策を巡らせた者に対しての過分な待遇は、ティグリスにひどく厭な予感を抱かせる。


 兄は、彼をこの地下牢に繋いだままにするのではないか、幽閉するだけで済ませようとするのではないか、という。


「あにうえ……」


 乾ききった喉でつぶやけば、唇が割れて血が滲む。それも、身体の各所を苛む殴打の痕と、内臓を抉るような飢餓感と。内外から襲う痛みに比べれば、何ということもない。更に、いずれにも増して彼を苛むのは、肉体ではなく心の痛みだ。


 ――兄上は……もう会ってはくださらないのか……!?


 最後に見た兄の姿を思い出して、悔しさと悲しさに唇を噛み締める。兄は、倒れた彼のことなど見向きもせず、自身を庇って毒を受けた者を支えていた。ティグリスは顔も名前も知らない者だったが、いずれにしても臣下に過ぎない者のはず。兄にとっては幾らでも替えのきく者のはず。なのになぜあのように顔色を変えて、弟である彼を捨て置いてまで介抱したのか。彼には理解できなかった。


 歯が唇を噛み破り、口中に血の味が広がる。錆の味がする血であっても、飲むことさえ極力拒んでいる身には甘く感じた。父を通じて兄との繋がりを示すものだと思えばなおのこと。会ったのも数えるほどで、育った場所も立場も違い、見た目もまるで似ていなくても、彼らは確かに兄弟なのだ。あらゆる手段を尽くして挑んだ弟に対して、手ずから首を刎ねるくらいの慈悲を見せてくれても良いと思うのに。


 このまま顧みられることなく、乱の責を問われることもなく飼い殺され、朽ちるに任されるのか。そう思うと飢餓よりも激しい焦燥感に身を灼かれるようだった。囚われの身にできる唯一の抵抗として、食を絶っているものの――兄が彼に会おうとする気配はない。あの方の気性からして、それにこの期に及んでティグリスに拷問を加える様子さえないことからして、彼が苦しんで死ぬことを望んでいるとは思えないのだが。彼のことなど、兄の意識にも留まっていないということなのか。あるいは、見張りの者は彼の有り様を正しく兄に伝えていないのではないだろうか。




 自身の血を啜りながら絶望に浸っていた、その時――扉の外に足音が聞こえて、ティグリスはゆっくりと顔を上げた。重々しい、成人の男の足音。二本の脚で健常に歩くことができる者――彼が憎み妬む類の者が立てる音だった。


「――また、このようなことを」


 扉が開くと同時に、苛立ちと不快も露に呟いた声の主を、ティグリスはよく知っている。ジュラとかいう、兄の側近のひとり。絵に描いたようなイシュテンの優れた武人。彼がいたかもしれない立場を平然として占め、その僥倖を――彼の嫉妬と羨望を知りもしない。ティグリスはこの男が大嫌いだった。


「いらぬと言うのに運ばせたのはそちらだろう。余計なことをしたものだ」


 ジュラが言ったのは、床に撒き散らされた食事のことだ。第一の目的は、餓えに負けて供されたものを口にしないように――彼もまだ床に落ちたものを拾って食べるほど追い詰められてはいない――、だが、この男へのあてつけの意味も大いにある。彼を捕虜として扱うのも業腹だろうに、せっかくの厚遇を無碍にされるのは、さぞや腸が煮える思いがするだろう。


「……貴様が殺した者たちは物も食えぬ酒も飲めぬ屍に成り果てた。のうのうと生き残っておきながら……!」


 男の言うことのあまりの真っ当さに、ティグリスは思わず苦笑した。いかにも曲がったことを嫌う者の――曲がった手段を取らざるを得なかった者のことなど想像もできない者の言葉だ。正義面して全く気分が悪い。

 それに――


 ――私を屠ってくださらなかったのは兄上ではないか……!


 彼だとて戦いが終わってもまだ生きているなど思ってもいなかったのに。

 だが、内心の叫びは、もちろん口にも表情にも上らせることはない。このような者に本心を曝すなど耐え難い屈辱、不具とはいえ王家に生まれた者の矜持が許すことではない。代わりに、寝台に半身を起こしただけの体勢でジュラを見上げて嘲る。


「何なら墓に供えてやれば良い。私の邪魔をした、あの者も死んだのか?」


 答えをほぼ予想しながら、ティグリスは相手が顔を顰めるのを目を細めて愉しんだ。母が取り寄せたのは、象をも殺すという蛇の毒だ。人が受けて生き残る可能性はごく低い。


 ――私と兄上の間に入った罰だ……!


 そして――怒りを抑えるためにか――拳を固く握ったジュラが告げたことは、彼の期待以上のものだった。


「……カーロイ・バラージュは右腕を失ったぞ」

「それは朗報だ!」


 絶食のために薄くなった腹を抱えて、ティグリスは笑った。若く頑健な男が、腕を失った! まだ長い生涯を、蔑まれ哀れまれて日陰で生きる! その運命を、彼自身の手で嫌いな相手に届けることができたのだ。女のように細い彼の腕でも、できることがあったのだ。この一事だけを希望に、この暗い地下牢で朽ちるのも受け入れられるとさえ思えた。


「なぜ笑う……!?」


 蛇蝎(だかつ)を見る目で睨むジュラの視線さえ、心地良かった。この男も、死とは華々しい戦いの末にもたらされるものと信じて疑っていなかったに違いないのだ。同輩の悲運を見て、せいぜい肝を冷やせば良い。この先戦いに臨むごとに、死よりも負傷を恐れて剣先を鈍らせれば良いのだ。


「良いザマだからだ! 五体満足なのを自慢げにひけらかす者共は気に入らない! 皆、泥の中で死ねば良かったのだ!」


 肺の空気を絞るようにして絶叫すると、くらりと目眩が襲って視界が揺れた。たまらずに顔を膝の間に埋めれば、彼を見下ろすジュラが、今はどのような顔色をしているかは見えなくなる。


「……そんなことのために……!?」


 ただ、声の色から多少なりとも想像はつく。この男が彼に対する時に常に見せていた嫌悪に加えて、今は呆れと憐れみが混ざっているのがはっきりと聞き取れてティグリスはひどく苛立った。


「それで、何の用なのだ。また無理に口をこじ開けに来たのか」


 どれほど食事を拒もうとも、抑えつけられてしまえば彼の力では逆らえない。食べたくもないものを飲み下すまで、口元と顎を抑えられて――聞き分けのない子供のような扱いを受けるのは、彼に自身の不具を嫌というほど思い出させた。

 ジュラがわざわざ新しい食事を用意させるのも勘に障った。嫌がらせに彼が投げ捨てた食事を拾って食わせる、くらいのつまらないことをしてくれたら、その品性の下劣さを嗤うこともできたのに。この男は、結局笑えるほどに真っ直ぐで高潔でまともなのだ。身体の健常さが精神にも反映されるのを見せ付けられるようでまったく気分が悪い。だからこそ兄も重用しているに違いないと思うとなお更だ。


 顔を伏せたまま、ふてくされた態度を崩さないでいると、重い溜息が耳に届いた。


「……違う」

「ならば何の用だ。さっさと済ませろ。お前の顔など見たくない」


 そもそもジュラがこの地下牢まで降りる必要もないはずなのだ。罪人の世話など卑しい身分の者に任せるものだ。兄に命じられたから目を離すことができないとでも言うのだろうか。忠臣の務めとでも気取っているのだろうか。この男の姿を見るたびに、ティグリスは彼が兄の眼中にないのだと思い知らされる。兄は信の篤い側近に恵まれて、彼の存在が入る余地がないのだ。


 もう一度、ジュラの溜息が牢の湿って澱んだ空気を揺らした。


「俺には貴様の考えなど理解できないし、理解したくもない……が、貴様が苦しむであろうことは、今分かった気がする」

「拷問でもするのか」


 ティグリスは期待を込めてジュラを見上げた。役に立たない身体がどう損なわれようと未練はないし、それが兄の命だというなら、少なくとも彼を憎んではくれたということ。ならば、痛めつけた仇敵の姿を見に来てくれることもあるかもしれない。


「まさか」


 しかし、相手は嫌悪も露に首を振り、彼を落胆させた。やはりこのつまらない男には、捕虜を嬲るなどとは考えの外ということらしい。


「ならば、何だ」


 ティグリスは醒めた声で、何の感慨もなく促した。苦痛も屈辱も絶望も、彼は短い人生で散々()めた。今更、この男が考えつく程度のことで心を動かされるとは思えない。ならばこのやり取りは全て時間の浪費――力に訴えて黙らせたることも退出することもできない身が、鬱陶しくてならなかった。


 しかし、甘かったのは彼の考えの方だった。


「陛下は引き続きカーロイ・バラージュを重用なさるおつもりだ。王を凶刃から救った功績には必ず篤く報いると」

「バカな……っ!」


 ジュラが静かに告げた言葉は、確かにティグリスの胸を抉り、刺した。雷に打たれでもしたかのような感覚だった。


「片腕の者をどう使うおつもりなのだ!? 何の役にも立たぬ者を!」

「あの少年はティゼンハロム侯爵の閥を離れて陛下に忠誠を誓った。姉もクリャースタ様にお仕えしている。父のいない者だから、弟のように扱われることだろう」

「バカな!」


 ティグリスは再び叫ぶと、寝台から転がるように降りた。弟、という一語が耳鳴りのように彼の脳を揺さぶる。兄の弟は、血の繋がった彼しかいないはずなのに。

 捻れていない方の脚で一歩を踏み出し、半ば倒れるようにジュラに詰め寄る。冷め切って土と混ざった汁物が足を汚すのも気にならない。それほどに、ジュラの言葉は聞き捨てならなかった。


「ならば、なぜ兄上は私を顧みてくださらない!? 惰弱だ、戦場に立ったこともない者だと耳を傾けてくださらなかった! お前もあの場にいたではないか!」


 もう遥か遠い世界のことのように思えるあれは、兄がミリアールトを落とした年のことだった。彼はミリアールトとその元王女の処遇について進言しに兄を訪れたのだ。兄は彼の言葉を最後まで聞くことさえなく彼を追い返したが――その時は、何とも思わなかった。予測していたことだったから。下手に不具の者の言葉を聞いて、それが有用だったとしても、イシュテンの王が取り入れることはあってはならないから。だから、本当に不満はなかったのだ。むしろ兄の見識を確かめられて安心さえしたように思う。


 だが、彼と同じ不具に成り果てたくせに、兄に仕えることができる者が現れた。そうなると、話は全て変わってくる。兄に背を向けられた絶望などまだ生ぬるいものだった。兄は、本当は彼の性根を全て見透かしているのではないか。だから、このように彼を突き落とすことができるのではないだろうか。


「なぜ不具の者が取り立てられるのだ!? なぜあの者に限って剣によらずとも仕えることが許される!? 私には、許されなかったことが……っ!」


 ジュラの胸ぐらを掴んで訴える――つもりが、縋りつくような姿にしかならないのが口惜しくてならなかった。彼が体重をかけても鍛え上げた男の身体を揺るがすことはできないのだ。


「忠誠が報われるのは当然のこと。乱を起こした貴様が今更泣き言か」


 ふわ、と身体が浮くような感覚に続いて、全身を鈍い痛みが襲う。腕を掴まれて寝台に投げ出されたのだ。そうと認識することで屈辱が身を灼き、ジュラの言葉が更に彼の矜持を傷つける。


 ――では他にどうすれば良かったのだ!?


 正面から話に行っても兄は聞いてくれなかった。あの時、兄が彼の言葉に耳を傾けてくれていたなら。全ては変わっていたのではないか。彼も、心の片隅ではそのような奇跡を望んでいたのではないだろうか。縋るにもあまりにか細い希望だから、気づかない振りをしていただけで。


 血の味を舌に感じて、また唇を噛み破っていたことに気付く。しかもなお悪いことに視界が水の中にいるように揺らいで、内心で大いに焦る。悔しいのか悲しいのか、憤りゆえなのか。自分でも判ずることはできないが、とにかく誰にも見せてはならないことだった。


「――身体を清めて着替えをしろ。陛下のお召しだ」

「……何だと」


 この上ない惨めさを感じながら身体を縮めて顔を背けるのに必死だったので――ティグリスは、ジュラの言葉を聞き逃した。というか、理解できないと思った。


「陛下のお召しだ、と言った」


 ジュラは苛立つ様子もなく辛抱強く繰り返す。そして二度聞いてなお、その言葉は信じがたい。


「なぜだ」

「知らぬ」


 思わず顔を上げると、ジュラはひどく嫌そうに顔を顰めていた。その表情が暗く陰って見えるのは、言葉を交わすうちに日が落ちたからだろうか。


「なぜ貴様の願いを叶えて差し上げるのか――そのような慈悲をかけられるのか、俺の知るところではない。しかしご命令には違いない」

「そうか……」


 牢の中は既に闇が落ち始めている。しかし、ティグリスの胸にはほのかな灯りがともったような心地がした。兄の真意が何であっても良い。首を刎ねるために呼び出すということでも構わない。ただ、とにかくもう一度会うことができるのだ。


「……ならば食事を運べ」

「何だと?」


 聞き返すのはジュラの番だった。間抜けな顔を晒す相手に向けて、ティグリスは破顔して見せる。


「頭が回らなくて受け答えができぬということのないように。まともな食事は久しぶりだから、消化の良いものにするのを忘れるな」

「…………」


 命じてやった時のジュラの顔こそ見ものだった。呆れと嫌悪と怒りを剥き出しにして、しかし頷かなければならないことを嫌というほど分かっている――兄の意を汲むならそうせざるを得ない――者の顔。獲物を目の前にしながら首輪を抑えられた猟犬はこんな悔しげな顔をするのだろうか。律儀で真っ直ぐな者、忠実な臣下ならではの苦々しげな表情は、ティグリスを大層楽しませた。


 そして、彼の願いは予想通りすぐに叶えられた。湯気を立てる汁物を味わいながら、ティグリスは兄に何を言うかに考えを巡らせた。何か、兄の意表を突くようなこと。あの方の心に彼の存在を刻むことができるようなことを。

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