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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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傷痕② アンドラーシ

「こちらへ。――くれぐれも、余計なことは口にされませんよう」

「分かった分かった」


 そのバラージュ家の使用人は、アンドラーシのことをひどく胡乱な目つきで見た。調子良く頷きながら、彼は内心でおかしく思う。


 ――余計なこと、とは何なのだろうな?


 気を落とすなとか、まだ若いのだから、とか。そんな類のことだろうか。それとも命は助かったのだから、などというような気休めだろうか。常識的に考えれば、怪我をした若者に掛けるにはそう的外れでもないはずなのだが。この者の主――バラージュ家の若き当主、カーロイの場合は怪我の程度があまりにひどいから、当たり障りのない言葉でさえも心に刺さる剣になり得るということなのだろうか。あるいは、アンドラーシの日頃の言動からして、何か突拍子もないことを言うとでも懸念されているのかもしれない。それはそれでありそうなことではあった。




 戦いが終わって、少なくとも彼らは冬が近づく中で野営を強いられることからは解放された。毛皮を重ねても地面から伝わってくる冷気からも、明け方目を覚ますと露がしっとりと衣服を濡らしている不快からも。

 中でも功績があった者や家格の高い者は、ハルミンツ侯爵についた諸侯の家屋敷を接収することが許されている。功績も地位もあり、更に重傷を負ったカーロイが特に堅牢な――従って過ごしやすい――屋敷を宛てられたのは当然のことと言えた。


 その部屋に入ると、温められた空気と薪の爆ぜる音――そして鼻をつく薬草の臭いがアンドラーシを迎えた。彼の嫌いな、病室の空気だ。幼い頃から身体を壊すということが少なかった彼にとっては、熱があるからと寝台に押さえつけられるのは苦痛でならなかったし、長じた後は伏せるとしたら戦いでの傷のため。多少の痛みで弱音を吐いたと思われるなど屈辱だから、無理をしてでも何でもない風を装うのが常だった。

 だから、薬の臭いは彼には馴染みのないものでもある。甘いような苦いような香りは何か彼を拒んでいるようにさえ思えた。


 ――いや、怖気づいているだけだな。


 アンドラーシは心中で首を振った。馴染みがないから、苦手だからと足を止める理由にはならない。戦場のことを思えば、全てが未知であり敵であるのは当然のこと。戦いにおいては怯まないというのに、今、彼が入り口で足を止めてしまうのは、部屋の主――カーロイに対して掛ける言葉を探しかねているからだ。そして、大した傷もなく済んだ彼と、片腕を失ったカーロイの命運の差に、後ろめたさを感じているから。

 だが、それは今更言ってもどうしようもないこと。彼の力の及ばないこと。


「調子はどうだ?」


 懊悩などなかったかのように見せかけて、彼は努めて明るい声を上げた。




 部屋の奥に据えられた寝台に近づくと、カーロイの顔色は思ったより良かった。ただ頬は()けて目の下には隈が浮き、憔悴した様子も見て取れる。


 ――無理もないが……。


 この部屋に通される間に、少年の容態やこれまでの経過は聞かされている。傷口を侵す毒に苛まれて熱に魘され、会話ができるようになってからは腕を落とすか否かで医師や家人とかなり揉めたということだった。無論、絶対に嫌だと言い張るカーロイと、命のためには仕方ないと説得する者たちの間の――これも一種の戦いだったのだろう。最終的には王の命がものを言ったのだろうか。


「邪魔をするぞ」


 中身のない袖がくたりと垂れるだけのカーロイの右腕――よりにもよって利き腕だった――を直視しないようにしながら、アンドラーシは返事を待たずに寝台の枕元、医師だか介護の者だかのために用意されたのであろう椅子に腰を下ろした。

 外面を取り繕う余裕もないということなのだろうか。招かれざる客に、少年は露骨に顔を顰める。


「何の用ですか」

「口裏を合わせに来たのだ」

「何……?」


 ありきたりな慰めならば斬って捨てるつもりだったのだろう、カーロイは肩透かしを食らったかのように頼りなげな表情を見せた。このような場合であっても、相手の予想を外させたことを愉快に思いつつ、アンドラーシは続ける。


「あの時、罠のない場所を示した者たち――あれらの正体が知れぬままなのだ。だから――」


 慰めや励ましの言葉が浮かばないから、彼はただやるべきことを伝えることにしたのだ。結局のところ、それはカーロイが生きて王に仕える未来について語ることでもある。


 そうして説明したのは、先に王とも話したこと。

 論功行賞を前に、最大の功績を上げたはずの者たちが知れないということ。ならばいなかったことにすれば良いと進言し、王も前向きな姿勢を見せたということ。更に、アンドラーシが目にした、側妃を思わせる金の髪の煌きについて。


「あれは雪の女王が戦馬の神のために遣わした使者だ。そういうことで押し通せ。クリャースタ様の金の髪が確かに煌めいて見えたと言えば良い」

「そんなものは見ていませんが……」

「余裕がなかったのだな。俺には見えたぞ」


 あえて傲慢に決めつけると、カーロイの顔は一層不満げに歪んだ。アンドラーシは人を怒らせるのが得意なのだ。

 ただ、多くの者は誤解しているようだが、誰彼構わず喧嘩を売っているわけではない。礼儀を取り繕う必要もないほどに敵対している相手だからだとか、先に剣を抜かせることで相手に非を押し付けるためだとか、それなりに理由も考えもあるのだ。


 ――いつもの調子になってきたか?


 今回でいうならば、カーロイの気力を奮い立たせるため。これから先の話をすることで――例えば自ら死を選ぶなど――弱気な考えをなくさせ、更に怒りで立ち上がらせることができれば良い。

 乱暴かつ単純なやり方だとは分かっているが、彼にはこれくらいしかできそうにない。言葉を連ねて人の心を変えさせるのは、彼に向いた手ではないのだ。言葉を使うとしたら、もっと端的に、直截に。

 彼の世界はごく単純だ。敵か味方か、戦うか否か。それだけだ。そしてそれは彼の王のために。


「これで戦いが終わった訳ではないぞ? ティグリスが片付けば次はリカードだ。ミリアールトの雪の女王がイシュテンを――陛下を(よみ)していると思わせられれば、クリャースタ様のお立場を強めることになろう。姉君にとっても、良いことではないのか?」


 だから、リカードやエシュテルに言及したのも、ただ事実を述べたつもりだった。為すべきことを思い出させて、カーロイに前を向かせようというだけのこと。しかし、彼の言葉の何かが少年を刺激したようだった。


「戦いなど……っ!」


 カーロイは頬を紅潮させると、アンドラーシに詰め寄ってくる。片腕を失くしてもなお、そしてこの数日の間寝台から動けなくても、鍛え上げた筋肉のしなやかさは健在だった。獣が飛び掛かってくるような勢いさえ感じて――たじろいだアンドラーシに、カーロイは中身のない右袖を示して訴える。


「これで! この腕で何ができると!? 既に左手だけで剣が持てるかは試した! でも使い物になるはずがない!」


 一息にまくし立てた後でその目が潤んだのを見て、アンドラーシはひどく居たたまれない思いをした。大の男が涙を流す場面など、居合わせたいものではない。


「私は、もう終わりだ……。死んでいればまだ誉れにもなっただろうに……! ただ二度目の戦いでこのような……」


 カーロイが右腕の傷痕を掻き毟るのを、アンドラーシは止める気になれなかった。痛みを感じる方がマシだという気持ちは何となく分かる。傷口に確かに痛覚はありながら、その先にあるべき腕が、手がないというのはどのような気分がするのだろう。


 ――やはり難題だったか……。


 内心で溜息を吐きつつ、気休めにしか聞こえないと自分でも分かっている言葉を並べてみる。


「だが、一番の手柄はお前のものだぞ。陛下をお守りしたのだから。それをふいにする気か?」

「手柄など……。この先、片腕でどのように生きれば良いのか……」

「生きるしかあるまい。生き残ったのだから。嘆いていれば腕が生えるというものでもないだろう」

「貴方には分からない!」

「当然だ。俺のことではないからな」


 言葉での説得は彼の柄ではないことだし、過ぎたことについて思い悩むのも縁遠いこと。他者の心情を慮るのも面倒なこと。

 だから次第にアンドラーシは苛立った。子供の聞き分けが悪い、と感じ始めたのだ。大体、王の危機に彼より早く動いたこの少年に、彼は嫉妬めいた思いさえ抱いている。無傷で済んだことに対しては後ろめたさもある。いつまでもうじうじとされていては、彼の思いも踏み躙られるようではないか。


「手柄だと言っただろうが。それもどうでも良いと言うのか? あれほど欲していたのに? ……毒を受けていたのが陛下ならば良かった、などとは言わないな?」

「それは……」


 特に最後の問いは恫喝めいた響きを帯びて、カーロイの顔を青ざめさせた。重傷を負った歳下の者に対する口調ではない、と気付いたのは言い切った後のことだった。重ねて強い言葉で責められるはずもなく、かといって今更慰めを言うこともできず。カーロイも言葉を失って口ごもったので、しばらく気まずい沈黙が降りた。


「……死など許されないのは承知しています」


 やがてカーロイは俯くと、消え入りそうな声で呟いた。


「父をあのような形で亡くし、他に男子もいないのですから……。母や姉を思うと……。

 ただ――そう、思い描いていたこととあまりに違っていて……」

「まあ、想像するとしても生きるか死ぬかだけだろうな」


 腕や脚を失ってまで生き長らえる、などとは大方の者が考えないものだ。考えたくもない、と言った方が正確だろうか。


「それだけではなく……」


 しかしカーロイは首を振った。口を軽く開いては閉じ、を繰り返すのを見て、アンドラーシは――彼にしては珍しいことだが――辛抱強く待つことにした。カーロイが言い淀む理由に、心当たりがあったからだ。


 ――リカードのことを気にしていたからな……。


 ハルミンツ侯爵領までの途上、この少年はひどく緊張した顔をしていたのだ。その理由は、戦いへの不安というよりも表向きバラージュ家の後見ということになっているリカードへの恐れのようで――アンドラーシは不審に思いつつも問い質すことはしなかった。どうせ彼にどうにかできることではないと思ったからだ。だが、この機に打ち明けてくれるというなら、聞かない訳にはいかないだろう。


 カーロイが決意するまでの時間潰しに、室内の調度を見渡す。使い込まれてはいるものの手入れも良い品々は、主の趣味の良さと質実さを感じさせて好感が持てる。薬の臭いさえしなければ、居心地が良いとさえ思っただろう。

 とはいえ、屋敷の主がこの部屋を使うことはもうないだろうが。例え死んでいなかったとしても、反乱に加担して罰が何もないはずはない。命を持って贖わせられるか、少なくとも領地や財産の幾らかを失うことになるのだろう。誰に死を与え誰を生かすか、王は今も頭を悩ませているのだろうか。


「私は――もう何者でもない。何もできない」


 敗れた敵の行く末に思いを馳せていると、カーロイの呟きに意識を引き戻された。少年の声にも表情にも悲嘆が満ちて、アンドラーシでさえ自身の肉体が傷ついたかのような痛みを感じたほど。


「若輩ながら家を背負わなければならないと思っていたのです。陛下に取り入ってティゼンハロム侯を追い落とすのだと、そのためには何でもすると……。しかし、この有り様では――父の復讐どころか家を守ることさえ望めない……!」

「一番の手柄はお前のものだと言っただろう」


 ――聞いていなかったのか?


 人の言葉に耳を傾ける余裕もないのか、と懸念しながらアンドラーシは思い出させた。しかし、それにもカーロイは激しく首を振る。


「陛下には心から感謝申し上げております。ですが、今回の手柄でこの先ずっと守っていただけるはずもない。否、違う……私は栄達しなければならなかったのに」

「陛下に剣を以てお仕えできぬのが悔しい、と?」


 やっと分かった、と思った。この子供は無闇と死にたがっているのではない。不具の身で生きる覚悟をした上で、その道の険しさ、あるいは無為にならざるを得ない生を嘆いているのだ。戦う気力だけはありながら、実際には叶わない。王か、でなければ親族か、何者かを頼らなければならないとは、確かに屈辱だ。侮られる理由が若さならば、活躍次第でどうにでもなるものを、カーロイには最早周囲を見返す術はない。


 端的に問うと、カーロイはこくりと小さく頷き、無事な方の左の拳を握り締めた。しかしそれも一瞬のこと、すぐに拳は解かれ腕は力なく垂れる。


「復讐を陛下に託すなど、考えてもいなかったのです。この手でティゼンハロム侯を――リカードを追い詰めるのだと。王妃の父を告発しても、耳を傾けられるだけの者にならなくてはならなかったのに……!」


 ――告発、だと……?


 悔しげに呟かれた言葉に、アンドラーシは眉を寄せた。いかにも不穏な――だが、妙に惹きつける響き。主君にとって何より目障りなあの老人を追い詰める鍵を、この少年が握っているというのか。


「何を知っている? 陛下にはお伝えしたのか!?」


 怪我人が相手なのも忘れて激しく揺さぶると、カーロイは拒絶も露に彼を振り払った。左手の五指が、失われた右腕の傷にまた強く立てられる。


「ただの若造の言葉にどうして信が置かれましょう!? 手柄は……だから欲しかった。しかし腕と引き換えでは……! 不具になった腹いせと思われたら!? 傷の熱が見せた妄想とでも言われたら!?」

「そのようなことは……」


 ない、とは言い切れなかった。リカードがカーロイに何を漏らしたかは知らないが、王妃の父として権勢を振るうあの老人と、初陣を終えたばかりの若者と。どちらの言葉に重きが置かれるかは明らかだ。リカードは罪を言い逃れるためなら告発者を如何ようにも貶めるに決まっている。そしてイシュテンで戦えない者の地位は低い。カーロイが挙げたような言葉はまだ優しいものでさえあるかもしれない。


 カーロイの悲痛な叫びに怯みつつ――それでも、アンドラーシの裡にだが、と囁く声があった。


 ――だが、陛下は何と仰っていた……!?


 状況は――そして人の心も変わっている。不具ゆえに誰からも顧みられなかったティグリスは、あれだけのことをしてみせた。剣を持つだけが戦いではないと、勝敗を決するのは武勇だけでないと、認めなくてはならないのではないか。

 何より王の言葉がある。先立って呼ばれた時に、王は確かに言っていた。


「陛下は――片腕であっても取り立てると仰っていたぞ」

「バカな……」


 目を見開いたカーロイに対し、アンドラーシはやっと力強く頷いてやることができた。やっと話が単純になった。形はどうでも良い、王と共に戦えるということ、敵と手段がはっきりしているということ、いずれも彼にとっては無上の悦びなのだ。


「ティグリスは剣を使わずして我らを追い詰めたではないか。お前も倣え。武に依らずともリカードを追い詰める手札があるのだな!? 寝込んでいる場合ではないぞ。さっさと起き上がって陛下に奏上しろ。陛下は必ず報いてくださる」


 カーロイの目に疑問と混乱が渦巻くことしばし、しかしそれは次第に希望の色に取って代わられる。


「はい……」


 そしてついに、少年の面に微かながら笑みが宿った。

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