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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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証 エルジェーベト

「まあ、それではファルカス様はご無事でお戻りになるのですね!?」


 その報せを聞いて、ミーナは朗らかな声で叫んだ。花がほころぶような笑顔が、エルジェーベトの胸を照らす。内乱の鎮圧で、遠征で。夫の不在に心を痛めていた主の心労が拭われる度、これまでにも何度も見た美しい笑みだ。しかし今回はいつものように見蕩れるだけという訳にはいかない。


「そうだ。既に勝利を収め、王にはさしたる怪我もないという。年が変わる前には王都に凱旋するであろう」

「約束してくださった通りだわ……!」


 報せをもたらしたリカードが、娘のミーナに対して口元だけは微笑みつつ、目は決して笑っていないから。時折エルジェーベトに投げる視線は鋭く、怒りと苛立ちを隠そうともしていないから。


 ――私を責められても筋違いというものよ……!


 リカードの目が言わんとすることは分かりきっている。王の帰還と共に生じる諸々の難題をどう片付けるかの算段に忙しいのだ。そもそもミーナに告げるのに先立って、彼女はこのことを知らされていた。ミーナが何よりも喜ぶであろう報せを、わざわざ遅らせたのには無論相応の理由がある。


 ミーナとリカードには、ティグリスなどよりよほど厄介な敵がいる。敗れた国の元王女の分際で、王に取り入りその子を孕んだあの売女だ。王が帰るということは、出陣前にミーナに約束していた通り、あの女との席を設けるであろうということで――側妃の懐妊など露も知らない王妃に伝えても良いものか、エルジェーベトはリカードとふたりで頭を悩ませたのだ。




『バラージュの娘は何をしている!? あの女は、胎の子は、まだ生きているのか!?』


 ――私が知るはずないじゃない!


 例によって深夜、ティゼンハロム邸にて。激昂して声を荒げるリカードを、エルジェーベトは醒めきった目で眺めたものだ。失態を犯した父の罪滅ぼしに、と。側妃に毒を盛る役を買って出ていたあのエシュテルとかいう娘を信じたのは、結局のところリカードの判断だ。エルジェーベトは反対したというのに!


 側妃が流産したとの報は、いまだ届いていない。無論、胎児とはいえ王の子を死なせたとなれば罪は免れないから、必死に隠しているのだ、とも考えられるが――それにしても、離宮に動きが見えない。

 ならばあの売女はまだのうのうと生きているのだろうか。めでたく懐妊して王妃を追い落とすのだと得意顔でいるのだろうか。大口を叩いてエルジェーベトを嘲ったあの娘は、胎児に情でも移ったか、それとも大罪に怖気づいたのか。この背信と怠慢は、いずれにしても見逃せるものではない。


 ――私なら、決して躊躇ったりはしなかったのに……!


 つくづく、リカードは判断を誤ったのだと思った。エルジェーベトを甚振(いたぶ)りたいがためだけに、覚悟の定まらない者を使ってこのザマだ。


『バラージュの娘はどうしている!? お前は会うことはないのか』

『ミーナ様にお仕えしていたことを知っている者もおりますから……人目を避けるため、表に出ることは少ないようです』

『どうにかして誘い出せ。改めて役目を果たせと命じるのだ』


 とはいえ、エルジェーベトも他人事として傍観することは許されなかった。王宮の奥向きについて意に染まないことがあれば、リカードは最終的には彼女を責める。当然のように手を打てと言ってくる。叶えられないとなれば、罰はエルジェーベトにも及ぶだろう。


『はい。良い案がございます』


 だが、エルジェーベトは微笑んで頷いた。彼女は最初からエシュテルという娘を信じていなかった。ミーナのための大役を奪われた恨みもある。この事態になることを、そしてリカードの怒りを恐れた小娘が離宮に引きこもることを見越してというか願って、接触する手立てをずっと考えていたのだ。


 ――王が戻ると知って安心でもしているかしら……。でもその油断が命取りになるのよ!


 何より、ミーナを脅かすあの女を生かしておく気は、彼女としてもさらさらない。何か、手を打たなければならなかった。




 ミーナに気付かれぬよう、しかししきりに剣呑な視線をくれるリカードへ、エルジェーベトは目線だけで頷いた。彼女の案は成功していると示すために。

 彼女は息子のラヨシュに言いつけて、側妃の離宮へ忍び込ませたのだ。王女の犬が逃げてしまったから探させてほしい、という。ありそうな筋書きをつけてやって。


 ――子供や獣の方がよほど使い物になるということね……。


 実際、犬と一緒に駆け回る王女の姿は、王宮の誰もが目にしたことがあるだろう。ラヨシュの言い分はあっさりと信じられて、バラージュ家の娘に書き付けを渡すことに成功したとのことだった。リカードの手はどこまでも及ぶと知って、あの娘は震えながら王宮の片隅で待っていることだろう。


「ミーナ様、少しお傍を離れさせていただきますわ。人に会う用があるものですから」

「まあ、そうなの? よろしくね」


 菓子や衣装の手配だとでも思ったのだろうか、ミーナはあっさりと侍女の申し出に頷いてくれた。エルジェーベトが動くのは自身のためだと疑わない、その無邪気さ盲目さが愛おしい。


 ――確かにミーナ様のためのことではあるけれど。この方が想像もしないような、でもとても大切なこと……。


 笑顔のミーナと、刺すような視線のリカードと。対照的な表情の父娘に見送られて、エルジェーベトは約束の場所へと向かった。




 人目につかない庭園の隅で、白い顔で立ち尽くすエシュテルを見て、エルジェーベトは大層満足した。リカードからの呼び出しも恐ろしかっただろうが、この娘には更なる心労の理由がある。役立たずの娘を揺さぶる種を、リカードはもうひとつ授けてくれていた。


「弟君にお悔やみを」


 挨拶もそこそこに、いっそ弾むような声で斬りつけると、エシュテルの頬に朱が差した。


「――弟は生きています!」

「死んだも同然でしょう。お若いのに片腕を失うとは本当にお気の毒」


 エルジェーベトは声高く笑った。エシュテルの弟、バラージュ家の今の当主でもあるカーロイの奇禍を聞いて、彼女は心底愉快に思った。たまたま初陣で勝利を収めたというだけで調子に乗っていたからこうなるのだ。思い上がった子供、姉と一緒になって彼女を嘲り侮った者が相応の代償を支払うことになった。どうして喜ばずにいられよう。


「陛下をお守りするための傷だと……誉にも手柄にもなりましょう!」

「確かに。でも、この先はどうするおつもり? 不具の者に名家の当主は務まらない。――それなりの後見がいなくては」


 それに、カーロイの負傷は姉を脅すのにも丁度良い。ティグリスが長らく顧みられなかったように、イシュテンにおいて戦えぬ男は男と見做されないのだから。父親の汚名に続いて、息子も剣を握れぬ身になったとなれば、バラージュ家の先行きはごく暗い。


「家のためにはどうすれば良いか……分かるでしょう?」


 紅潮したエシュテルの頬がまた色を失うのを、エルジェーベトは目を細めて眺めた。側妃を、その子をどう始末するかということと同じ程度に、この娘は実家の未来をも案じているに違いない。ティゼンハロム侯爵家の機嫌を損ねては生きていけないこと――そして、その事態を避けるためには何をすべきか。甘やかされた小娘といえど、それが分からないほど愚かではないはずだ。


「…………」

「今なら殿様も許してくださる。早く済ませておしまいなさい」


 かつてティゼンハロム邸で顔を合わせた時と違って、エルジェーベトは目下の者に対する言葉遣いを敢えて選んでいた。後がない立場を思い知らせるために。

 エシュテルが今はおどおどと目を伏せて怯えた風を見せているのも、侍女(エルジェーベト)に対して丁寧な言葉を使ったのも心地良かった。マリカから目を離す不始末を犯した時にこの娘を打ち据えたのと同じ構図だ。これで良い。エルジェーベトの方がミーナへの忠誠が篤いのだから。家のためなどという下心がある者たちとは違う、ひたすら真心からの献身こそが報われるべきなのだ。


「あ……証を、くださいませ」

「何ですって?」


 だから――あまりにも悦に入っていたので――エルジェーベトはエシュテルの言葉を聞き漏らした。そのこと自体も、数秒の後に頭に入ってきた内容も、この上なく苛立たしく忌々しいことだった。


「証? 何の証だというの?」

「侯爵様が私共をお見捨てにならないという証です」


 胸の前で手を組んだ、懇願するような姿勢で。しかしあくまでも悪びれず、エシュテルは訴えてくる。その図々しさもエルジェーベトの気に障った。


「侯爵様の――王妃様の御為(おんため)とはいえ、大罪ですもの。必ず報いてくださいますよう、この弱い身に力を与えてくださいますよう、確かな約束が欲しいのです」

「――呆れた! 最初から分かりきっていたことでしょう!」


 半ばは嘲り、半ばは本心からエルジェーベトは声を高めてしまう。リカードは何も無理に命じた訳ではない。バラージュ姉弟の方から恩着せがましく言い出したことではないか。危険だからこそ高く報われるだろう、と卑しい算段を巡らせたのだろうに、今更何を被害者ぶったことを言うのか。


「恥を忍んで申し上げておりますの。でも、弟があのようなことになっては……」


 言葉通りの恥じらいによってか頬を染めつつ、ついにエシュテルは地に膝をついた。以前、名門バラージュ家の娘だからとエルジェーベトを跪かせたのと全く逆の構図になる。


「弟共々、何でもいたします。ですから、侯爵様から何かひと言――」

「バカバカしい……殿様がそのようなことをなさるはずがない。生まれてもない赤子ひとり始末できないくせに……!」

「陛下がお戻りになるまでには、必ず! クリャースタ様はずっと私をお傍においてくださって、私が毒見したものを口にされています。私も、同じものを食べているのです!」


 ――あれは、遅効性の毒だったわ……。


 役目のために毒さえ口にしているのだと仄めかす悲鳴のような叫びに、エルジェーベトはこの娘に渡された包みのことを思い出した。毒見役の立場を利用して毒を盛るからには、すぐに効果が現れる類のものは使えない。リカードはせめて胎児だけでも、と言っていたか。


 ――恐ろしくて量を惜しんだのね。


 堕胎薬ならば孕んでもいない娘にはなんの害もないだろうに。

 改めてエシュテルの心の弱さを見下しながら、一方でエルジェーベトはでも、と思い直す。少量とはいえ毒が蓄積しているのなら、側妃の子が流れる時は確かに近いのかもしれない。王の出陣から約二月が経っている。それだけの間、母が毒を口にしていたならばまともな子が生まれるとは考えづらいし、エシュテルの手も白くはない。この娘は、既に罪を犯しているのだ。逃げようとしても、もう遅い。


「……殿様にお話するだけはしてみましょう」

「――ありがとうございます!」


 たったひと言投げてやるだけで、エシュテルの顔は輝いた。その目に涙さえ浮いているのを見て、エルジェーベトの自尊心はくすぐられる。生意気な小娘を絶望させるのも期待を持たせるのも、更には側妃の運命さえも、彼女が握っているかのような思いがして。


 ――いいえ、私の力ではない……この娘がひれ伏すのはティゼンハロムの力。履き違えては、ならない……。


 思い上がりは命取りになると、この姉弟が証明してくれたばかりではないか。ミーナのためにも、彼女はその轍を踏んではならない。

 そう自身を戒めても、エルジェーベトの口元には昏い愉悦の笑みが浮かんでいた。




 とはいえリカードは良い顔をしないだろうと思っていたのだが――意外にも、主はあっさりと頷いた。


「ふん、では一筆書いてやるか」

「よろしいのですか……!?」


 王の留守中に押し付けられた諸々の雑事で、リカードは鬱憤が溜まっているはずだった。昼間、娘と孫に会えたことで多少は晴れたのかもしれないが、エシュテルの強請りごとに怒らないとは不可解だった。


「あの娘、殿様を疑っているのですよ!? 証拠だなんて……それを種に脅すつもりかもしれないのに……!」

「誰にどう訴えるのだ」


 分かり切ったことを口にして叱責されるのを恐れつつ、それでも諫言すると、リカードは笑って酒杯を干した。愚かな女に教示してやるのが愉快で堪らないとでも言うかのよう。


「娘は既に罪を犯している。頼みの弟も片腕失って儂の後見なしでは生きて行けぬ。そもそも家のためにと申し出た者どもが、家を絶やすような真似をするはずがない」

「それは、そうなのでしょうが……」


 エルジェーベトの懸念を承知した上での判断となれば、もはや彼女に口を挟む余地はない。それに、リカードの言も一応もっともらしくは聞こえる。


「お前は余人を信用しなさすぎる。そこが頼もしくもあるのだが。だが、人を使うことも必要なのだ」


 下僕(しもべ)への説諭もまた、主の気分を良くさせるのだろう。リカードは酒杯を置くと一枚の紙片に何ごとか書き付けた。口元には笑みが刻まれたまま。


「バラージュの娘も嫁ぎ先を見つけるのには苦労するだろうな。お前同様儂が面倒を見てやっても良い」


 そんな言葉と共に渡された書簡には、見慣れたティゼンハロム侯爵家の紋の封がされていた。


 ――バラージュ家……これでも存続したと言えるのかしら。


 リカードの声に潜む欲望を聞き取って、エルジェーベトは内心で嘲った。若い当主は腕を失い、その姉は彼女と同じくリカードに弄ばれようとしている。賢く立ち回ってティゼンハロムに取り入ったつもりが、逆らうことのできない下僕として絡め取られようとしている。バラージュ家となれば――先の失態で降爵させられたのを考慮しても――領地も豊かだし家臣も優れた者が揃っている。それをまるごと取り込めたとなれば、リカードの上機嫌も当然と言えるのだろうか。エシュテルも、若いのは当然のこと、見た目も悪くない。


 形ばかりは対面を保てるとしても、実態はエルジェーベトと同じ。命令次第でどのような汚いことにも手を染める、リカードの犬に成り下がるのだ。




 翌日、同じ場所に呼び出したエシュテルは輝く笑顔でリカードの書簡を受け取った。エルジェーベトに対して生意気な態度を取る余裕さえ見せた。


 ――自分のしたことの本当の意味に、いつ気付くかしら。


 しかし、近くこの娘を待つ運命を思うと、さほど腹も立たなかった。

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