傷痕① アンドラーシ
草原に立ち込める死臭に、アンドラーシは顔を顰めた。
王の軍がティグリスの策を蹴散らしたあの戦いから、既に数日が経過している。ティグリスが引き込んだ水については、どうにか掻き出させる作業が始まっている。そもそもブレンクラーレやミリアールトの物流にも影響する大河の堤を切るなど、実行した者にも危険が伴う難事だ。規模や被害が広がり過ぎぬように慎重の上に慎重を期したはずで、排水も――草原の広大さの割に――手こずらずに済みそうだと聞いていた。少なくとも本格的な冬が訪れて、即席の沼地が氷の平野と化するようなことはないということだった。
――だが、その方が臭いはマシだったのではないか?
戦いの後を残されたものを目の当たりにすると、そんな埒もないことも頭をよぎる。
大河の豊かな水はシャルバールの草原へ流れ込み、見渡す限りの平原を泥の沼地に変じさせた。濁った水はティグリスが仕掛けた死の罠を覆い隠し、王の軍に苦杯を舐めさせた。
排水が粗方済むと、輝かしい戦勝の地に縦横に穿たれた溝や穴もその全貌を見せ、アンドラーシらの気を滅入らせたが――泥水の下から現れたのはそれだけではなかった。罠に掛かって脚を折った馬、その騎手、味方の蹄に踏み躙られた者、敵の剣や槍や矢に貫かれた者――夥しい数の死体もまた、この内乱の犠牲の大きさを見せつけてきたのだ。
無論、ただの死体であれば――否、多少骨格がひしゃげていたり内臓を覗かせていたりしたとしても――アンドラーシが怯むことなどあり得ない。だが、今回に限っては多少事情が異なる。
死者の多くがまともに戦うことを許されず、卑劣な罠によって泥の中でもがきながら息絶えた戦場の後を、彼は初めて見ることになった。刃によってではなく、混乱の中で溺死した者も多かったのではないか。更に、水を吸った死体は醜い。死体の顔は――死の恐怖と苦しみからというだけでなく――膨れ上がって変形しているし、腐臭も一際酷い。それらの埋葬には通常よりも時間が掛かるだろうし、疫病も蔓延しやすいだろう。
それでも後始末をしない訳にはいかない。誰が死んで誰が生き残ったか。逃れた敵はいないのか。どれだけの家が当主や後継を失ったのか。確かめなければならないのだ。そうでなくても友の亡骸が打ち捨てられて鳥や獣の餌となるのは、親しい者には耐え難い。雪と寒さに任せて凍らせておけば良い、などとは自棄にも似た暴言に過ぎないと、アンドラーシでさえ承知している。第一、そのようなことをすれば春先には一層悲惨な光景が見られることだろう。
戦うことは、楽しい。だから彼は常に喜んで戦場に赴くし、敵を屠るのに躊躇ったことも自らの命を惜しんだこともない。だが、血が沸き立つような高揚が去ると、犠牲や失われたものの大きさに戸惑うような気持ちを覚えるのはよくあった。
今回は特に、戸惑いに強い怒りと悔恨が加わっている。過ぎたことは深く考えないことにしているアンドラーシにしては、非常に珍しいことではあったが。だが、それだけの理由があってのことだ。
蘇るのは、あの日のこと。王との一騎打ちに、あっけなく馬から叩き落とされたティグリスがしでかした暴挙のことだ。
捕らえよと命じた王は、乱の首謀者の自害を懸念していたのかもしれない。だが、ティグリスはそのような諦めの良さとは無縁だった。誰もが、あの者が携えていた杖に注意を払っていなかったのが悔やまれる。敗れた者だから、不具だからといって、決して目を離してはならなかったのだ。
杖の中から現れた白刃の煌きが、今もまだ目に灼きついているような気さえした。
――あんな奴のために……!
忌々しい仕掛けによって空を裂いた刃の、成果を見届けたティグリスは高く笑ったのだ。囮として顔を見せつけるためにか、兜もかぶっていなかったために、アンドラーシは間近で見聞きすることになった。昏い悦びに満ちた歪んだ笑みも、心底愉快でならないといった風の哄笑も。
アンドラーシは奥歯をぎり、と噛み締める。怒りの対象はティグリスだけではない。あの場にいて、ティグリスを取り押さえようとした中にいながら仕込み杖を抜かせてしまった自分自身に対しても、彼は深く憤っていた。あのように常軌を逸した――嬌声めいた高笑いに、気を呑まれることなどあってはならなかったのだ。
彼は、つい先ほど掴まえた医師との会話を思い出していた。
その男は呼び止められて非常に嫌そうな顔をしていた。死者が多いということはそれ以上に怪我人が多いということだから、医術の心得があるものは多忙を極める。戦って殺すだけが務めのアンドラーシとは、働きどころが違うのだ。
『――容態は?』
だから、問いに対してすぐに答えず眉を寄せた男を、彼は咎めるつもりになれなかった。それより先に質したいことがあった。聞いたところでどうしようもないのはよくよく承知した上で、それでも問わずにはいられなかったのだ。
ティグリスの刃には、毒が仕込まれていたと聞いたから。細い杖の中に潜んだ頼りない刃の、恐るべき――そして恥ずべき効果を知ったから。
――やはり寡妃太后の血を引くだけのことはある……!
あの場の顛末は陣内に広く伝えられているし、この医師は王の近くに仕える者。彼が王の側近であることも知っているはず。だから、誰のことを指しているのか、言わずとも悟ったのだろう。相手は一瞬目を泳がせてから、重々しく咳払いした。
『生命には、別状はございません』
『――には?』
何の安心も抱かせない言い回しに、アンドラーシも眉を顰めた。恐らく人目を憚る内容になるのを察して、医師を手近な木陰に導きながら。
『いつから塗布されていたのかは分かりませんが、毒は多少なりとも劣化していたようでして。全身を侵すとか、脳に障害を及ぼすことはございませんでしょう』
『全身』
身体の一部分は毒に侵されるのだ、としか取れない言い回しに、眉間の皺は深まった。恐らくは彼の激昂を恐れて回りくどく言葉を選んでいるのだろうが、嘘でも気休めを言わないのは職業柄の矜持ということだったのか。
落ち着いているように見せねば、と。深く呼吸をしてから、アンドラーシは努めて抑えた声で重ねて問うた。
『だが、とにかく助かるのだな? 毒の影響が残るとしてどの程度なのだ?』
傷が残るとか皮膚が爛れる程度ならば良い、と願いながらの言葉だった。男は女と違って見た目を装う必要がない。乱の鎮圧に際して負った傷ならば、却って誉れとなることさえあるだろう。そうであって欲しい――否、そうでなければ、という願望が言わせた、半ば懇願のような口調になった。だが、医師はふいと彼から目をそらして、言葉を濁した。
『お若い方でもありますし――多少の訓練を経れば、日常に差し支えることはないでしょう』
『日常だけでは意味がない!』
先に呼吸を整えたのは無駄になった。だろう、ばかりの医師の言葉はアンドラーシの苛立ちを増しただけ。
『すぐには無理でもまた剣を持つことはできるのだろう?』
『……できません』
医師の頑なな態度は、アンドラーシに舌打ちさえさせた。イシュテンの男にとって、戦うことができなければ残りの人生は死んだも同じこと。それで助けたなどとは、いかな名医だろうと言わせはしない。
『何のための医者だ!? 全力を尽くしてそれなのか!? 手立てはないのか!?』
『無理です!』
肩を掴んで揺さぶると、医師は悲鳴のような声を上げた。それは暴行への恐怖ではなく、恐らくは自身の至らなさへの悔恨だったのだろう。アンドラーシが思わず手の力を緩めるほどの悲痛さが、その声には込められていた。
『どういうことだ……』
『肉を侵し全身に巡る類の毒です。刃を受けた腕だけで済んだのは幸運なのです。助かるならば腕の一本くらい――』
ついに彼の問への直接の答えが与えられた。全く欲したことではなかったが。ずる、と。医師を掴んでいた腕が虚しく彼の脇に垂れた。
――幸運だと? 何が幸運なものか……!
『陛下は、何と? そのようなことを許されるのか』
『できる限りの手を尽くせ、との仰せでした』
『そうか……』
『ですから、承知してくださったものと』
医師は彼が聞きたくないことばかりを口にした。沈痛な面持ちで、いかにも同情しているのだとでも言いたげに。
しかしアンドラーシにはお為ごかしとしか思えなかった。所詮、剣を持ったことのない者。彼の悲嘆と憤りが分かるはずもない。王がどのような思いで頷いたのかも、この者の想像の範疇にはないだろう。
『……分かった。引き続き、勤めに励むが良い』
何一つ納得しないまま、彼は医師を解放してやったのだった。
そして彼は今、王の呼び出しを受けている。果たしてどのような顔をすべきか分からないまま、御前に上がると――王は疲労を色濃く滲ませた様子で臣下を迎えた。医師以上に多忙な者が今の陣内にいるとしたら、王その人をおいて他にはいないだろうから当然、なのだろうか。肉体的な疲れ以上に、心の裡に溜まったものが重石となっているのだろうか。
臣下に対して愚痴を零すような人ではないだけに、憔悴した様には心を痛めさせられる。言いたいことも山ほどあったはずなのに、口を噤んでしまうほど。
だから――日頃のアンドラーシの口の軽さと裏腹に――、先に切り出したのは王の方だった。
「カーロイ・バラージュのことを聞いたか?」
「は――」
まさに王に質そうとしていたことを問われて、アンドラーシは勢い込んで頷いた。
「あの若さで、初陣を経験したばかりだというのに。まことに遺憾なことでございます」
「そうしなければ命は危うかったということだ。ならば仕方あるまい」
「陛下がそのようなことを仰るとは……!」
王は信じがたいほど冷酷かつ無情なことを淡々と述べた。主君と仰ぐ人のあまりの言い様に、アンドラーシの声は無礼にも尖る。
あの時、カーロイ・バラージュは誰よりも速く、そして適切に動いた。放たれた刃を遮るように、王とティグリスの間に割って入ったのだ。
――俺がやるべきだった……!
ティグリスを殴りつけて完全に抑えることができたのは、刃が掠めた腕を抑えたカーロイの呻きが耳に届いてからだった。傷の小ささの割に顔色が悪く、苦痛を堪える表情だったと、気付いたのも後のことだ。
忠臣と自負しながら王よりもティグリスに気をとられていたことが悔やまれてならない。しかしあの忌まわしい刃が、それに塗られていた毒がもたらした効果を見るに、自分でなくて良かったとも思ってしまう。王のために命を投げ出す覚悟はとうにできていたはずなのに、この浅ましさだ。
彼の悔恨と羞恥、そして恐怖は陣内の多くの者が共有するものだ。
戦って死ぬのは怖くない。しかし戦いで生涯残る傷を──馬を駆り剣を握ることを不可能にするほどの──負うことは死ぬより怖い。
だからこそ、誰もが息を詰めてカーロイの容態に注視していたのだ。王に従った者の中でも最年少の部類に属しながら、年齢や腕や経験で上回る者たちに先んじた。その行いがこのような過酷な運命で報われるとは。
ティグリスの罠によって、今回の乱では必要以上に人が死んだ。それも、イシュテンの者が忌む刃によらない惨めな死、誇ることのできない死だった。カーロイの失われる腕は、その理不尽を一身に集めたようで――彼らの間に暗い影を落としているのだ。
臣下の口答えに、王は不快げに眉を逆立て声を荒げた。
「死なせてやった方が本人のためだったとでも? 脚の折れた馬のように?」
「……少なくとも片腕失ってまで生き長らえるなど……命を惜しんでの醜態と謗られかねません」
かといって、あの少年が死ぬなどという想像も彼には耐え難いのだったが。
結局のところ、彼は奇跡が起きるのを期待していたのだろうか。ティグリスの罠を潜り抜けて勝利を得ることができたように、カーロイの腕についてもどうにかなったのではないか、と。
「確かに気落ちしているということだ。だからお前から声を掛けてやれ、と思ったのだが」
「俺から……何を言えと仰いますか」
無理難題を押し付けられた、というのが率直な思いだった。多くの者と同じく、アンドラーシも腕を失うくらいなら死んだ方がマシだと思っている。どう言葉を繕ったところで、その思いはカーロイにも伝わるだろう。傷つけることも怒らせることもなく心の持ちようを変えるなど、それこそティグリスの罠を越えること以上の不可能事に思えた。
「あの者が生きる気力を取り戻すように。こればかりは命じてもどうにもならぬ」
「無理です」
王は恥も苦痛も忍んで生きよと命じたのだろうか。想像するだに酷な命だ。そして、そこまで言われても沈みきっているのであろうカーロイの心情も――理解できる、などとは口が裂けても言えないが――推し量るに余りある。
王も無茶は承知しているようで、やや声の調子が下がった。
「王を救った忠義と功績には必ず報いる、とも伝えさせたのだが」
「それは――名誉には思ったのでしょうが……」
「姉とも縁があると言っていただろう。とにかく話してやれ」
姉、と言われて初めて、あのおっとりとした娘の姿が脳裏に蘇った。同時に断りの言葉を述べようとしていた舌が凍る。彼はあのエシュテルという娘に、弟のことを請け負ってみせたのだ。今となっては大言壮語としか言い様がない。
――あの娘への言葉を守るならば引き受けねばならぬのか……。
女の身ならば、弟にはどんな姿でも生きて欲しいと思うだろうか。少なくとも、説得を試みなくては義理を果たしたとは言えないだろうか。
アンドラーシが絶句したのを王は了承と捉えたようで、声の調子を改めた。やや砕けた、いつもの気負いがない態度へと。
「それからもうひとつ。――お前はあの戦いの時、先頭を駆けていたな?」
「は。それが、何か……?」
厄介事を押し付けたと思っているであろう主を、アンドラーシはやや恨みがましい思いで見上げた。すると、王は一転して顔を顰める。
「あの時、罠を避ける道を示したのがどこの家の者か、いまだに知れぬ。本来であれば一番の功績だろうに――一体どういうことなのか」
「ああ……」
王の疑問は彼にもよく分かった。ティグリスの罠を前に、多大な犠牲を覚悟して進もうとした彼らの前に、忽然と現れて安全な道を示した一団があった。あれがなければ内乱の行方がどうなっていたか分からない。にも関わらず、名乗り出る者がいないは、確かに不可解な出来事だった。
「申し訳ございません。私も見たのはほぼ後ろ姿だけ、それに目立った紋章などはなかったように思います」
「やはりか」
――論功にも差し支えるから、ということかな……。
あの一団はあまりにも多くの者が見ているし、無事に罠を抜けられたという事実がある以上無視もしづらい。王の憂いを少しでも晴らそうとアンドラーシは記憶を懸命に探り――ふと、あることを思い出した。
「金の髪が見えたような気もしましたが」
「何?」
青空に映える煌きを思い描けば同時に種々の感覚も蘇り、舌は滑らかに動く。
「クリャースタ様のように、見事な……そういえば、言葉の訛りも似ていたような」
「あの者は遥か王宮だ。第一、あの者が馬に乗れるか」
バカバカしい、と言いたげに切り捨てた王に、アンドラーシの口元は思わず緩んだ。全身をぎこちなく強張らせて馬にしがみついていた側妃の姿を思い出したのだ。あれは、まったく氷の美貌に似合わぬ可愛いげだった。
「では、ミリアールトの雪の女王が戦馬の神を加護してくださったのかも」
「バカバカしい……!」
調子に乗って冗談めかすと、王は明らかに嫌そうな顔をした。だが、過ぎた口を叱られるのは彼にとってはいつものこと。側妃の話題で王が機嫌を傾けた風を見せるのも。むしろ、彼などには仲が良い証拠ではないかとさえ思えるのだが。
それに――
「ですが、神に褒賞を与える訳には参りますまい。ならば第一の手柄はあの子供のものになりましょう?」
「そうだな……」
先に王が言った通り、カーロイの手柄は確かなものだ。何しろあの少年がいなければ戦いの帰趨は全く異なるものになっていただろうから。
――誰か分からぬ者に手柄を譲る必要などなし……。
あの謎の一団の正体が知れぬなら、いっそそのままにしておけば良い。アンドラーシはごく気楽にそう考えていた。
この指摘には、王も耳を傾けるところがあったようだ。青灰の目が微かに瞠られ、告いでそっと伏せられる。
「戦いとは剣によってのみするものではない……。イシュテンにそうと知らしめねばならぬ。たとえ片腕になろうとも取り立てて……」
それは、眼前のアンドラーシではなく、王自身に向けて呟かれたようだった。
「検討しよう。お前はもう下がって良い」
「は」
やがて王は顔を上げると短く命じ、アンドラーシもそれに従った。
カーロイ・バラージュに生きる気力を取り戻させるという難題がまだ残っていることを思い出したのは、王の御前を辞してからのことだった。