胎動② シャスティエ
シャスティエは湯の中に揺蕩っていた。ほどよい温度の湯は心地よく、ほどいた金の髪が泳いで身体にまとわりつくのも気にならない。四肢から力を抜いて、ただぼんやりと湯気を眺める。
近頃はこうして過ごすことが多い。いよいよ大きく膨らんできた腹のお陰で、座っているのにも、横になるのさえ難儀する。本を読もうにもすぐに目や頭が痛くなって進まないし、刺繍などで気を紛らわすには彼女の腕は下手すぎる。警護の手間を掛けることと危険を思うと外出する気にもなれないし、そもそも王に厳しく禁じられている。思い悩まず身体を楽に休ませるには、結局湯浴みをするくらいしかできないのだ。
頻繁に湯を沸かし、身重の身体が冷えないように部屋を暖めるのは贅沢だとは分かっているが、このような時のためだと割り切って側妃の手当を使わせてもらっている。
――あの男が見たら驚くかしら……それとも呆れる……?
王が手当の支出を見た時の顔を想像して、シャスティエはわずかに苦笑した。衣装や宝石ではなく、薪のために散財する側妃など、イシュテンの歴史にいたのだろうか。まあ、彼女のように王家の由来の品を持つ女はさすがにいなかっただろうし、王が不在では着飾る必要もないのだが。
「クリャースタ様、そろそろ……お髪をお拭きしますわ」
「ええ、お願いね」
湯の熱で顔が火照ってでもいたのだろうか。控えていたエシュテルが、そっと上がるように促した。もちろんのぼせしまっては胎児に良くないから、侍女たちは主の顔色を具に診てくれている。
浴槽から立つと、身体がやけに重い気がした。水の浮力がなくなったからというだけではない。腹の子が育つにつれて、シャスティエの身体も確実に丸みを帯びてきている。胸元も腰回りも、以前のようにほっそりとした線ではなく、幾らか肉がついて厚みも増して、自分の身体ではないようだった。
「これでまだ臨月ではないなんて」
既に腹の皮は張り詰めて、針でも刺したら破裂するのではないかと思うほど。なのにまだまだ膨らむのだという。そして増すであろう身体の重さと日常の不便さを思うと、つい愚痴めいた口調になった。
「元気な御子様ですから、早く出たいと急いでお育ちになっているのかも」
「月が満ちなければ無理でしょう。困った子ね」
「母君様にお会いしたいのでしょう……」
「そうかしら」
「ええ、きっと」
金の髪から滴る雫を丁寧に拭いながら、エシュテルは困ったように微笑んだ。返す言葉が見つからないシャスティエもまた、困惑しているというのに。
しばらく前から胎動を感じるようになった。子が育っている実感があれば母になるのも楽しみになるだろうと、侍女たちは期待していたようだったが――実際は、シャスティエの不快の原因が増えただけだった。子宮の中で動き回り、母の腹を蹴り上げる胎児――彼女の中にもうひとつの命――の姿など、想像するだけでも恐ろしい。現実問題として、微睡み始めた瞬間などに胎動があると眠りも浅くなってしまうし痛みを感じることもある。
悪阻は収まったとはいえ、胎児は依然として心身ともにシャスティエの悩みの種だった。
――私はこの子に会いたい、のかしら……? 早く身二つになりたいとは思うけれど。
ひと雫も残さず湯を拭うと、召使たちの手によって髪に香油を塗られる。敏感になった嗅覚にも障らぬように、香りのおだやかなものを。気分が塞ぐことが多いからこそ、身につけるもので煩わせることは避けたかった。袖を通す衣装も、体型の変化に合わせてイリーナが直してくれたものだ。主が過ごしやすいようにと、ゆったりとした造りにしてくれたのには感謝しているけれど、膨らんだ腹を見せつけるような姿は何となくはしたない気がして、シャスティエを少々気落ちさせている。胎児の存在は、王と――彼女の他に妻を持つ男と、関係を持った証拠でもあるのだ。
「弟君から手紙は届いたの……?」
長椅子に横になっただらしない格好で、エシュテルを話し相手に時間を潰す。イシュテンの名家の出であるこの娘は、乱の鎮圧に従軍している弟という伝手があるから、この離宮では誰よりも外の様子に詳しいのだ。もちろん、グニェーフ伯が訪れてくれれば話は別なのだけど――それさえもティゼンハロム侯爵からの伝聞になるし、ただでさえ多忙な人を退屈しのぎに呼び出すわけにはいかなかった。
「はい、ハルミンツ侯爵領に入ったと……大規模な戦闘はまだということですが、奇襲に悩まされているとのことでした」
「心配でしょうね」
「弟の身など……。奇襲には皆さま殺気立っておられるようで……抑えておられる陛下のお心が慮られる、と申しておりました」
一応は王の妻であるシャスティエを気遣ってだろうか、エシュテルは弟よりも王のことを案じる素振りを見せている。とはいえ弟と口にする時の声といい、強ばった表情といい、誰を第一に思っているかは一目瞭然だ。
――ミーナ様も……さぞ不安でいらっしゃるでしょうね。
その様子を見て振り返るのは、彼女自身よりも王妃のミーナのこと。二度のミリアールト遠征を始め、王位を継いだ後も内乱は続いたというけれど、夫の不在には慣れることなどないだろう。王は戦いに出向いているのだから。まして、今回は懐妊中の側妃などという面倒な存在がある。心労も一層重いに違いない。
――お会いできなくて、却って良かったのかも知れない……。
王妃と会うなという王の命に、最初シャスティエは憤っていた。ティゼンハロム侯もあのエルジェーベトという侍女もそうだが、ミーナの周囲の者たちはとにかくあの方を無知のままにしようとしていて眉を顰めさせられる。何も知らないことの不安はシャスティエもよく知るものだし、彼女自身もミーナの苦悩の種となってしまったからこそ、あの方の境遇が案じられて――隠し事に加担するような真似が不本意だった。
だが、傍目にも明らかに分かる腹を抱えていては気を遣わせてしまうだろうし、常とは違う体調では話し相手を務めることもできなさそうだ。会って慰めることができるかも、などとは見込みの甘い幻想にすぎなかったと思う。
王に身重の身の辛さなど想像もできるはずもなし、深く配慮してのことではないのだろうが。
「クリャースタ様も、さぞお心を痛めておいででしょう」
「――え?」
ミーナのことを思い浮かべていたところへ急に声を掛けられて、シャスティエは目を瞬いた。
「……私が?」
復讐を意味する婚家名と、自分自身と。更に感じてもいない心痛を気遣われているのだと、全てを結びつけるのに無駄に時間が掛かってしまった。やはり胎の子のせいで思考が鈍っていると思う。
そしてエシュテルの言葉を呑み込んでなお、どう答えるべきかは分からなかった。
「……どうかしら」
エシュテルや、恐らくはミーナが抱えているような不安や恐怖はシャスティエには無縁のものだ。何しろ彼女は王を愛してなどいない。私は復讐を誓う、などと名乗っている通り、側妃になったのは復讐のためでしかないのだ。
かといって王に死なれるのは困る。万一の際はミリアールトへ落ち延びろと言われてはいるが、この腹と諸々の不調を抱えては長旅など不可能だ。そうでなくてもティゼンハロム侯爵の追っ手を逃れるのは困難だろうし――結局のところ、王の言葉は実現が難しいものだったと思う。グニェーフ伯をつけてくれただけ、気遣いが皆無ということではなかったというだけに過ぎない。
「……王が無事に帰れば良いと、思っていない訳ではないけれど……」
仇の無事を直截に願うのは、本心を隠したイシュテン人の娘との間でさえ憚られた。だからとても曖昧な、否定に否定を重ねた歪な言い回しになってしまった。
「陛下を信じておられるということでしょうか」
ぼそぼそとした呟きに対してエシュテルは驚いたように目を瞠り――次いで柔らかく微笑んだ。シャスティエの言葉を聞こえが良いように解釈してくれるのは、エシュテルに限らず彼女に仕える者たちの常なのだ。婚家名の意味を知るイリーナでさえ、不可解なことに主が王に心を寄せることを期待しているように見えることがある。
イリーナはシャスティエに幸せになって欲しいなどと言う。父母から与えられた幸福の名の通りに、子と和やかに過ごして欲しい、と。
――悪い冗談だわ……。
確かに子に情が移ってしまうことを、危惧してはいた。とはいえ実際に懐妊してみると、胎児は母を苦しめるだけの存在で愛情など抱くことはなかった。復讐の道具と割り切るならば良かったと言えるのだろうが、侍女たちにはその冷めようが納得いかないらしい。
「クリャースタ様は気丈でいらっしゃいますね。」
特に意味もなく腹をなでたのをどう思ったのか、エシュテルは尊敬を込めたような目で見てくる。イリーナならば心得違いを叱ることもできるのに、イシュテン人の娘に対してそうはいかないのは面倒だった。
「……王の側には弟君もいらっしゃる。守ってくださるのでしょう」
苦し紛れに出たのは、娘の機嫌を取るような言葉だった。エシュテルの弟、カーロイは何度か顔を見たことがあるという程度、感謝しているとか案じているというよりも、目の前の姉の心を安らげてやりたかった。姉弟の父を死に追いやった原因のひとつは自分だという後ろめたさもある。少なくとも王に対してよりは、無事を願う気持ちは嘘ではなかった。
そのような打算と誤魔化しにも関わらずエシュテルは嬉しそうに破顔した。
「はい。無事に帰って――そして、願わくば功績を得ることができるように。女の身ではありますが日夜祈っておりますの」
そう語るエシュテルの瞳には僅かながら光と力が戻ったように見えた。戦場の弟を思って気持ちを奮い立たせる。それもまた、彼女にはほど遠い心境だったが。取りあえずは良かった、と思い――シャスティエはエシュテルにも言うべきことがあるのを思い出す。
「貴女にも感謝しているのよ。毒を恐れずに済んでいるのは貴女のお陰だもの」
王の不在の間、懐妊中の側妃を狙う者は多いはずだが、今のところ差し迫って危険を感じたことはない。もちろんグニェーフ伯の兵が守ってくれているからということもあるし、彼女の目の届かないところで気を配る下働きの者たちもいるはずだ。
だが、中でも最も功績が大きいのはエシュテルだと思う。名家の出身でありながら側妃の側仕えなどを買って出て、父祖の代から恩があるティゼンハロム家に背こうというのだから。
かつて仕えた王妃も傍にいるから、離宮で隠れるように過ごしている。閉じ篭るのを強いられているという点では、この娘はシャスティエと同じ境遇なのだ。
「父と家名の恥を雪ぐため、と思し召してくださいませ。クリャースタ様がお気に病まれずとも良いのです」
なのにエシュテルはあくまでも柔らかに微笑んでくれる。自身のためだと言うことで、主の心を軽くしてくれようというのだろうか。
当のシャスティエは、イシュテンでも王でもなく、ただ復讐のことしか考えていないというのに。バラージュ姉弟のことでさえ、都合の良い駒にしようとしているというのに。
「……ありがとう。下がって良いわ」
「はい。お茶などは――何か、摘むものでもお持ちいたしましょうか?」
「いいえ、いらない」
心苦しさを打ち明けることもできないので、シャスティエはエシュテルの目を避けることにした。ひとり物思いに耽って過ごすのも、最近の彼女にはよくあること。娘は疑問を感じた様子もなく、何かあればまた、と言い残して退出していった。
静寂と孤独を味わっていると、また胎動を感じた。体内で不意に動くものがある感覚は、何度経験しても慣れることができるものではない。子が大きくなれば動きも衝撃も大きくなるというが、それでは苦しいほどではないのだろうか。早く生んでしまいたい、子の性別を確かめたいと思うと同時に、更に膨らむ腹を抱えての日々や言葉にならないという生みの痛みを思うと恐ろしくて――その時が来なければ良いとも思ってしまう。
「私に会いたいの……? それとも私から離れたいのかしら」
腹を撫でながら語りかけると、応えるように母の手を蹴る感覚があった。胎児にも外の言葉が聞こえるから話しかけてやると良い、とは言われている。だがこれは果たして否定なのか肯定なのか。子への愛情が薄い身には何とも判じ難い。
――あなたの方でも私なんか好きではないでしょう。
我が子を愛しいと思わない母が愛されるとは思えない。子が暴れているのは嫌いな女の胎から逃げようとしているということだろう。いや、そうであって欲しい。マリカが母のミーナに向けるような、無条件の信頼と愛情など望むべくもないし向けられたとしても恐ろしい。
――この子は利用するだけの存在。復讐の道具。
自身に言い聞かせながら、シャスティエは昏い微笑で腹を撫で続けた。