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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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絶叫 ティグリス

 剣を抜いて兄と対峙しながら、ティグリスの心は歓喜に満たされていた。


 ――兄上が私のところまで来てくださった! 私のために剣を抜いてくださった!


 既に何人も彼の()()を斬ったのだろう、兄の剣は血に曇り刃の輝きもくすんでいる。しかし、有象無象の命などどうでも良い。ティグリスには彼に剣を向けてくれたという事実こそが何より愛しく眩しかった。




 母に脚を砕かれた後、彼の意識はしばらく朦朧としていた。傷の痛みと、それを抑えるための薬の作用。高熱にも(うな)された。そしてやっと覚醒して起き上がれるようになった時、ティグリスの世界は一変していた。

 二本の脚で歩けなくなっていた――というのは、実は些細なことに過ぎなかった。幼い彼を何よりも戸惑わせたのは、まるで彼がまともな人間ではないかのように扱い始めた周囲の者たちだった。

 過剰に彼を庇護する母も侍女たちも、過剰に彼を哀れむ叔父たちも。彼の矜持をこの上なく傷つけた。彼が損なわれたのは肉体だけではない。剣を取って戦う未来。何のために、誰のために戦うのかという選択肢。考えを述べる場、聞き入れる者。一人前の男ならば当たり前に与えられていたはずのもの、奪われることなど考えもしないであろうもの、全てを奪われたのだ。


 彼の今日までの人生は、奪われたものを取り返すためのものだったと言って良いだろう。


 この乱も、その一環に過ぎない。どうせ何をしても侮られ、何を言っても耳を傾けられない不具の身なのだ。どうあっても無視できないようなことをしでかさなくては兄にも――誰にも顧みられないまま。存在までも不具のままで朽ちていくという想念に、耐えきることができなかったのだ。


 ――上手くいったと、思ったのに…….!


 悔しさに歯噛みするのは、兄に策を破られたからではない。そもそも兄は彼の目標であり理想だった。理想が理想のままであってくれたことはむしろ喜ぶべきことだった。ティグリスとしても、心のどこかで兄が完全に彼の上を行ってくれることを望んでいたようにさえ思う。


 彼を失望させたのは、叔父やハルミンツ侯爵家の家臣たち――本来は彼の味方であり、彼を真の王として担いだはずの者たちだった。イシュテンが誇る騎馬を完全に封じて見せたことで、彼らもティグリスの手腕を認めただろうと思ったのに。


 なのに、彼らにとってティグリスはどこまでも半人前でしかなかったのだ。


 ――叔父上は……逃げた! 私から盗んだ!


 激しい炎のように、怒りと憎しみで滾った敵の前にその身を晒した叔父の姿は、瞬く間に見えなくなった。槍に胸を貫かれたのは見届けたが、それくらいでは罠に翻弄された敵の鬱憤は収まらなかっただろう。兄は叔父の首級を確認することができたのか、叔父の苦痛はいかほどのものだったか、ティグリスには知る由もない。

 一見潔く見えなくもないそれは、しかし、野心を託した甥を逃がして再起を狙う打算とも、王と仰いだ者の身代わりになる忠誠ともほど遠い行いだった。


 叔父は、敵意をまともに浴びるのが怖かったのだ。戦いの熱が冷めた後、裁きの場に引きずり出されて、世の者の非難を浴びる。権力のためにイシュテンを、戦馬の神を軽んじたと謗られる。その屈辱に耐えられないと思ったのだろう。此度の乱の鎮圧に従軍しなかった者、文官や下々に至るまで悪名でもって知れ渡り、歴史にも嫌悪と蔑みと共に記される。死を賜るまでの一秒ごとに、その運命を思い知らされる、恐怖と屈辱。

 それと比べれば、乱戦の有耶無耶の中で引き裂かれた方がまだ気が楽だとでも思ったのではないだろうか。そのようなもの、ティグリスは全て背負うつもりだったというのに! これまで彼を蔑んできた者たちの憎悪や怨嗟の声など、いくら浴びたところで初夏の日差しとそよ風のように爽やかに心地よく感じられただろうに。叔父は、彼の手柄を横取りしたも同然だ。




 兄と彼とを中心に、自然と空間ができている。さながら馬術や剣技の試合の場のように。競技の場に出たこともないティグリスが、兄を相手に命を賭けることができるとは、何という僥倖か。

 この期に及んでは周囲の者たちも手を出すことはできないようだ。兜の下の顔は、不安に陰っているのだろうか。半端に掲げた武器や盾は、いざとなれば割って入るつもりでもあるのだろうか。ティグリスにとっては余計な真似に他ならないのだが。


 ――忠義面して白々しい……!


 このような者たちを、彼は忠臣などとは決して認めない。叔父よりは幾らかマシなのかもしれないが彼らの根底にあるのはどこまでもティグリスを侮る考え――つまり、不具なのだから乱の責を負って死ぬには及ばない、というふざけた発想だからだ。

 (あぶみ)もない横乗りであるがために、彼の馬術が拙いのを良いことに、勝手に(くつわ)を取って退かせた者たちはしたり顔で言ったのだ。


『必ずお守りいたします。我らの身命を持って、御身をファルカスから(あがな)ってご覧にいれましょう』


 ――バカにしている!


 ティグリスの行いは、そこらの貴族の首を幾つ並べたところで釣り合うものではないはずだ。イシュテンの誰もが彼を無視できないほどのことを、彼は成し遂げたはずなのだ。今更命を惜しむことなどあり得ない。逃れて生き恥を晒すなどとんでもない。叔父が恐れたであろう汚名は、彼にとってはこの上ない栄誉となるのだ。蔑まれる不具の身で、イシュテンの矜持に魂に、消えない傷を負わせてやったと、笑いながら死に旅立とうと思っていたのに。


 ぎり、と奥歯を噛み締めると、構えた剣の切っ先が揺れた。彼が真剣を持った回数は、同年代の男に比べるとごく少ない。ほんの数秒捧げ持つだけでも腕の筋肉は軋んでいる。そもそもが無理のある体勢だから、身体の軸は捻れ、ろくに力も込められていない。これが平地であれば、杖なしで立つこともできないのだから我慢しなければならないだろうが。


 対峙した兄の困惑が手に取るようにはっきりと伝わってくる。


 つい先程までの怒りと悔しさが嘘のように、眉を寄せた兄の顔を想像してティグリスの頬は緩んだ。戦いの経験が豊富な兄といえども、彼のように非力で無様な者に剣を向けたことはこれまでないだろう。誇りを知る人であれば、この状況に嫌悪と抵抗を覚えるのも無理はない。

 にも関わらず、兄はとうとう剣を抜いてくれた。だからティグリスは笑ったのだ。彼のような者を敵として認識してもらうため、手間暇かけた甲斐があったというものだ。

 それでも、勝つと分かりきっている者に対してあえて剣を振るうには、まだ思い切りがたりないようだ。――だから彼は駄目押しをする。


「兄上……? 何を躊躇っていらっしゃるのですか? 私を恐れていらっしゃるなど……ありえますまい?」

「バカな!」


 不快も(あらわ)な唸りも、彼の耳には心地良い。彼がイシュテンの気質をよく把握していることが、またも証明された。臣下の前で挑発を受ければ、イシュテン王は受けなければならないのだ。


「――行くぞ」


 呟くような一言を置き去りにするように。兄の黒馬が迫る。死を運ぶ風、と――隠しきれない恐れを滲ませて家の者たちは語っていた。戦場で兄に(まみ)える機会を得た者たちを、彼は心底羨ましく思ったものだが――今こそ彼の番が巡ってきたのだ。


 受けること躱すことなど考えない。兄との技量の違いを前に、そのようなことは試みるのもおこがましい。ただ、せめて怖気に負けることのないように剣を捧げて、待つ。兄の刃が彼に届くのを。彼を敵として屠ってくれるのを。役に立たない身体を引きずって生きるよりは、兄を手こずらせた者として記憶に残して欲しかった。


 灰青の目が迫る――と、思うと同時に全身を衝撃が襲っていた。兄は、剣ばかりではなく馬の体をぶつけるようにして突撃してきたのだ。乗騎から叩き落とされて宙を舞う視界に、手から飛んだ剣の刃が輝いて見えた。地面に叩きつけられるより先に痛みを訴えるのは、剣を弾き飛ばされた手と腕。衝撃で骨にヒビでも入っただろうか。脚を折られた時より遥かにマシだ、と。妙に間延びした瞬間のなかでちらりと考えることができた。


「ははっ――」


 受身のようなものを取ることができたのは、短いとはいえ鍛錬の賜物だっただろうか。背を大地で強打して肺から空気が漏れる、その音は笑い声にも少し似ていた。


 ――これで……終わるか……。


 全身から力を抜いて大地に身体を預け、眩しい太陽に目を細める。兄に剣で適うなどとはもとより思ってもいない。ただ、一度だけ打ち合うことが出来たのが幸せだった。今、彼の目に映るのは青空だけだが、周囲の人馬が動く気配がある。兄は自ら彼の首を刈ってくれるだろうか。それとも叔父のように槍で貫かれるだろうか。いずれにしても、兄に討ち取られるならば本望だった。

 だが――


「捕らえよ。その者に確かめねばならぬことがある」


 息も乱さず兄が言ったことに、その突き放した冷静さに、ティグリスは目を剥いた。


 ――なぜだ……っ!?


 起き上がろうとしても、身体はまだ落下の衝撃と痛みでいうことを聞かず、重い鎧も捻れた足も彼の動きを妨げた。辛うじて口を動かすことができたのは、駆け寄った者――兄ではない、ただの臣下。彼に触れるのに相応しくない、下賤の者だった――に片腕をひねり上げられてからだった。


「兄上、なぜですか!? なぜ、止めを刺してはくださらないのです!?」


 悲鳴のような声で問い質す彼を、恐慌のような絶望が襲う。


 ――まだ……足りなかったのか!?


 王たる兄に逆らって乱を起こした。イシュテンを、戦馬の神を嘲るような策を講じて兄の臣下の多くを損なった。ブレンクラーレと通じたことも、兄は承知していたのではないのだろうか。

 ここまでしたら、彼を憎み彼に怒り、迷わず剣を振るってくれるものと信じていたのに。兄を激昂させるにはまだ足りなかったというのか。ここまで時間をかけ忍耐を重ね、死を積み上げ血の海を生み出してなお、彼は取るに足らない存在のままなのか。


「兄上……!」


 呼びかけても兄が彼を振り向くことはなかった。ティグリスのことなど弟とは思ってくれていないのだろうから当然か。だが、彼は兄だけを見て生きてきたというのに。兄ならば、彼を倒すべき者として見てくれると思っていたのに。


 手酷く裏切られた、と思った。


 ――あくまでも私を無視するなら……!


 掴まれていない方の腕を、力でも体格でも優る者の手から逃れさせることができたのは奇跡に近いことだった。あるいは彼の執念が成したことかもしれない。手を伸ばした先は、剣のように腰に履いた杖。何よりも彼の身近にあって、手にも馴染むもの。


 ――母上に感謝することがあるとは……。


 それは、母が彼に唯一許した()()でもあった。彼から全てを奪ったくせに、それで守ったと嘯いていたくせに、あの女はそれでも息子が何者かに狙われるのではないかと不安でならなかったのだ。


 だから、彼の杖に仕掛けを施した。その上で、滑らかに使えるように繰り返し練習させた。その甲斐あって、彼の身体は意識するまでもなく教えられた動きをなぞってくれた。


 剣を抜き放つように、杖を振り払う。木材の中から現れたのは、輝く白刃だ。


「なっ――」

「仕込み杖だと!?」


 ティグリスを抑えようとしていた者どもの、狼狽えた声に嗤いつつ、刃の切っ先を兄へ向ける。またもこちらを見てはいない人へと。

 足萎えの――まともに戦うことのできない彼に持たせられたからには、ただの仕込み杖ではない。彼でも護身の役に使えるような細工まで、母は考え抜いていた。


 太い腕が彼に迫る。彼よりも遥かに屈強な者たちが、取り押さえようとしてくる。


 だが、遅い。指をほんの少し動かすだけで、発条(ばね)を動かすことができるのだ。細い杖に仕込める程度の発条の力、薄い刃で鎧を貫くことはできないだろうが――かすり傷でも構わないのだ。母は誰より何より毒の力を信じていた。


「兄上ぇええ!」


 獣の咆哮のように呼べば、兄はやっと振り返る。ティグリスを、彼を囲んだ臣下たちを。そして彼が構えた杖を見て、青灰の目が見開かれる。


 その青に、空を裂く刃の銀の輝きが重なった。

次回はシャスティエ視点です。すみません。

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