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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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狼と虎 ファルカス

 何人目を斬り伏せたのだったか。乱戦の中では数える余裕はなく、疲れを感じることさえなかった。

 とにかく――嵐の最中に束の間風が止む時のような――一瞬の隙間を縫って、ファルカスは剣を振り、こびりついた血と脂を払い落とした。そのような暇が出来る程度には、戦況は落ち着きつつあったのだ。


「どうした!? もう向かってくる者はいないのか!? イシュテンの王がここにいるのだぞ!」


 漆黒の馬(アルニェク)を駆る彼の姿は遠目にも、戦場の混乱の中でも目立つはずだった。彼は常に前線に立って剣を振るい指揮を取って来たから、今回敵に回った者たちも含めてイシュテンの戦士で王の姿を知らぬ者はいないだろう。だが、声を張り上げて呼ばわっても、今や首級を狙って群がってくる者は数えるほどだ。ファルカスまで刃を届かせることもほぼできず、アンドラーシやカーロイの手で足りている。

 まともに戦う者よりも、逃げる者や――屍になった者の方が多くなっているということだ。


 ――ほどほどのところで止めさせねば……。


 残虐で知られるイシュテンとはいえ、引き際を全く知らぬということはない。背を向ける敵を討ったところで自慢にはならないし、生かしておいてこそ交渉もできるという程度のことは弁えているのだ。内戦ならばなおのこと、()()()()ては後々に禍根を残し自らの首を締めることになると、誰もがさじ加減を感覚として知っている。

 今回に限って、敵を追う味方の手が厳しいのは――


 ――ティグリスは、やり過ぎたのだ。


 イシュテンの歴史と気風そのものを嘲るかのような罠を巡らし、誇り高い戦士を泥に塗れさせて獣のように矢で射殺した。その屈辱と怒り――そして恐怖が、彼の臣下を駆り立てている。敵は同じ国の民ではなく、彼らの矜持を、その根本を否定しようとした巨悪であり、その悪を追い立てるのは虐殺ではなく正当な報復なのだろう。敵があまりに脆いと見えたのも、手を染めた策の結果を見て怖気づいたのもあったのではないか。

 ティグリスがどこまで狙ってやったのかは知れないが、彼の異母弟は敵味方の区別なく、イシュテンの者の心胆を寒からしめたのだ。誰もが不具と侮っていた者の、しでかした結果がこれだ。その手腕は認めてやらなければならないが、イシュテンの王としては見過ごして良いことではない。


 イシュテンの誇りを思い出させ、冷静さを取り戻させることこそが目下の彼の務めだった。


「殺し過ぎるなと伝えよ。降伏する者がいれば受け入れるのだ。それから、ティグリスとハルミンツはできれば生かして捕らえたい」

「はっ。……ですが、陛下のお側があまりに手薄になっては――」

「この者がいれば足りる。そなたたちは行け」


 カーロイを目で示すと、アンドラーシら側近は一瞬驚いたような不満そうな雰囲気を醸した。が、これも王命だ。結局は次々と彼から離れて戦場へ散っていった。これで乱戦から秩序が戻れば良い、と思う。


 反逆を企んだ者を生かしておくことはできないのは当然のこと。だが、怒りと憎しみのままに八つ裂きにするのは裁きではない。ティグリスが損なったイシュテンの権威を取り戻すには、策を正面から破っただけではまだ足りず、正当な王が処罰するという体が必要なのだ。


 ――女狐めの狙いもまだ知れぬ……。


 しかもティグリスはブレンクラーレとも通じているという。かの大国から流れる河を利用したことからも、それを裏付けることができよう。事前の許可なくそのようなことをしたならば、必ず後にブレンクラーレとの衝突を生むだろうから。

 ティグリスは摂政王妃(アンネミーケ)に何を差し出したのか。この密約でのブレンクラーレはどのような利益を得るつもりだったのか。ティグリスを討てば無に帰す類のことなのか、更なる警戒が必要なのか。必ずティグリスを生かして捕らえ、全貌を明らかにしなければならないのだ。


「陛下。私などでよろしいのでしょうか」

「不満か? 手柄を立てる機会が欲しかったか」

「そのような……!」


 兜のせいでカーロイの表情は知れない。しかし、狼狽え赤面しているのだろうと思わせる、歳相応の素直の声にファルカスはほんのわずか頬を緩めることができた。


「王を守ったとなれば功績と言えよう。今は生きて帰ることを考えよ」


 リカードから離反して王につこうというこの少年は、彼にとっては貴重な臣下だ。王の無力ゆえに父親に汚名を着せてしまった以上、忠誠に報いる機会を与えてやりたいし、姉も側妃の傍に仕えているから揃って重用できればなお良いと思う。

 と、そこまで考えてファルカスは苦笑した。


 ――先のことを考えるとは……まだ気が早いか……。


 自身を戒めて、手綱を取り直す。まだ戦いは終わってはいない。生きて帰ることを考えなければならないのは、彼も同じなのだ。

 沼を駆けた後とあって愛馬の脚や身体は濡れて汚れ、彼にも泥が跳ねている。敵が陣を構えていたのは、元は乾いた大地だったが、今は夥しく流れた血が沼の領域を広げている。水気の重さは疲れを呼ぶが――まだ、彼に立ち止まることは許されないのだ。




 ファルカスが下した命のうち、少なくともひとつは守られることがなかった。ティグリスの姿を求めて戦場を駆けるうち、彼のもとにハルミンツ侯爵の首が届けられたのだ。


「間に合わなかったか」


 首、というのも似つかわしくない()()を見てファルカスは嘆息した。骨や血管が覗く断面はぎざぎざとしていて、剣の一閃で断ったのではなく力任せに引きちぎったのだろうと想像できる。鼻や頬の辺りの骨も砕けているのではないだろうか。顔の形はひどく歪み、生前の姿を知っていてさえ人相を判別するのは困難だった。往時の姿から()()を最も遠ざけているのは、苦悶と怨嗟に満ちた――およそ生者が浮かべるはずのない表情だっただろうが。

 ファルカスが懸念した通り、卑劣な策を採った代償を命で支払わされたということだろう。首を捧げた者も、無惨な残骸に血の気も醒めたのか、どこか気まずげな表情をしていた。


「ティグリスを逃がそうと囮になったようで……」

「それに、そこまでの忠誠があったとは驚くべきことだ」


 ハルミンツ侯爵がティグリスを担いだのは、ただ王の権力の恩恵に預かるためだけだっただろう。ファルカスが知る、怯懦と紙一重の慎重さや小心ぶりからは、このように怒りと憎しみを買うであろう策を良しとするとは思えない。

 あるいは、己が加担したことの結果に、それによって受けることになった悪意に(おのの)いたなどということもあるのだろうか。


「まあ過ぎたことは良い。ハルミンツに傷を負わせたもの、止めを刺した者、それぞれに褒美を与えよう」


 これは故意に王命を無視したのではなく、単純にいつものように手柄を求めて為されたこと。手を下した者たちにはファルカスの言葉が届いていなかったのだろう。


 ――知らなかったことを咎めても致し方ないし……。


 それだけで、首だけになった大貴族の当主のことは彼の脳裏から消え去った。死者は手の届かないもの。地上を去った者に考えを割くなど時間の無駄でしかない。


「ティグリスも追い詰めてございます。すぐにも陛下の御前に引き出して――」

「俺から行ってやる。これだけのことをしでかしたのだ、王が出向かねば収まりがつかぬ」


 考えるべきは、まだ生きている彼の敵のこと。ティグリスを、捕らえなければならない。ハルミンツ侯以上に憎しみを買ったであろう者を、ひとまず討たずに済ませるのだ。王でなくてはできないことだ。




 ティグリスの居場所は確かにすぐ知れた。戦意を失った敵を追い散らすだけになった戦場で、一箇所だけまだ系統だった抵抗を見せる集団があった。反乱の旗印たるティグリスを守り、逃がそうとしているに違いない。


「行くぞ」

「はっ」


 カーロイを従え、また馬を駆けさせる。王の姿を認めて味方は歓声に湧き、数の劣る敵は怒りの唸りを上げて剣を構える。蹴散らしてやる、と彼も剣の柄に手をかけた瞬間――


「兄上! お待ちしておりました!」


 場違いに明るい声が響き、敵味方を問わずその場の誰もが気勢を削がれていささか間の抜けた視線を交わした。

 その声は、ファルカスの聞いたことがないものだった。声の主が喋るのを聞いたことは何度かあったはずだが、その者がこのように晴れ晴れとした大声を出すことはこれまでなかった。


「何……!?」


 声音を裏切らず、ティグリスは満面の笑顔を浮かべていた。恐らくは王の先陣を逸らせるために、姿を見せつけたと聞いていたが、戦いの中で兜もつけていないとは。

 武装していながら馬に横乗りしていることといい、鎧に見合わない細身といい、血臭漂う戦場にはとにかく不似合いな姿だった。なのに全身を返り血に染めた者たちをさえ一歩退かせる、奇妙な空気をも纏っていた。


「この者たちが逃げろとうるさかったのです。私は戦場(ここ)で兄上にお会いできるのを楽しみにしていたというのに。……やっと、夢が叶いました」


 守ろうとしていた周囲の者たちを睨む目つき。彼を見る目の妙な熱っぽさ。いずれも母の寡妃太后を思い出させる狂気を孕んで異様だった。しかも口にすることもまた不可解極まりない。


 ――この者……何だというのだ……!?


 ファルカスが戦場で兄弟と対峙するのはこれが初めてではない。王位を得たばかりのころに、父の長子だった者と剣を合わせたことがある。

 (ザルカン)などという大層な名を持ったあの男は、非常に分かりやすかった。若輩の異母弟への軽侮。取り巻きへ見せる虚勢。その裏には万が一にも敗れたらどうしようという恐怖が見えて。その程度の相手だったから、彼も気負うことなく剣を振るうことができたのだ。

 だが、今目の前にいる者、彼の弟だという者。不具と蔑まれながら、イシュテンの全てに牙を剥いて見せた(ティグリス)。この者は、訳が分からない。なぜ追い詰められてこんなにも無心に笑っていられるのか。否、そもそも数知れぬ人馬を泥に沈め血で平原を満たしたのはこの者の策だったではないか。悲鳴も呻きも血臭も、まるで意に介さないとでも言いたげなこの笑顔は、一体どういうことなのか。


 これではまるで、弟は彼に会えて心底喜んでいるようではないか。


 ファルカスの顔が兜の下に隠れているのは幸いだった。そうでなければ、怪訝に眉を寄せて躊躇う姿を臣下に見せてしまっていただろう。もっとも、臣下も、まだティグリスを囲む者たちも、彼と同じような表情をしているに違いないのだが。


「兄上……本当に、お見事でいらっしゃいました! やはり貴方は私などの策に敗れる方ではなかった。そうなれば良いと、願ってはいたのですが……正面から突破してくださるなんて。ここまで来たからにはお相手してくださるものと、思って良いのですね!?」


 ただひとり笑顔を絶やさぬまま、ティグリスは剣を抜いた。


 しかし、それを目に映してなお、相手が彼との一騎打ちを望んでいると気づくのに数秒を要してしまった。異母弟が日常をどのように過ごしてきたか、ファルカスは一切気にかけたことはない。だが、少なくとも武術の鍛錬を積んできたのでないことはひと目で分かる。剣だけではなく、常に携えていた杖も腰に履いているのが見て取れた。そう、この者は剣よりも杖がよく馴染む。

 ティグリスの構えは、ただ剣を持っているというだけにしかなっていない。そもそも横乗りの体勢ではろくに力も込められないだろう。ただの一合で地に叩きつけることができるだろう。自身でも分からぬではないだろうに、この晴れやかな表情は何事か。


 ――覚悟は決まっているというのか……!?


 臣下の大半と違って、彼はこの瞬間まで異母弟に対して怒りも憎しみも抱いていなかった。むしろ、イシュテンの気質をよく知り尽くして利用したものと感嘆の念さえ覚えていた。そもそも知勇の全てを賭けての戦いと承知していたこともある。最初に罠に掛かった愚者のように、ものの見事に踊らされた者たちの方が甘いのだ。

 晴れ晴れとして、負けると分かっているだろうに剣を抜くのは、首を差し出して乱の決着としようというのだろうか。

 ふと、国と民と引き換えに命を捧げようとしたミリアールトの王女のことを思い出した。今は側妃になったあの娘は、覚悟と矜持だけならば確かに王のそれを持っていた。


 だが、何か違う、とも思う。ティグリスにはあの娘のような悲愴さがなく、ひたすら浮ついているように見える。しでかしたことの大きさの割りに、声も表情もあまりに軽く明るくて奇異に感じるのだ。


「兄上……?」


 ティグリスが初めて眉を寄せた。異母兄が無言で動かぬままなのを、訝しむように。敵に急かされたと知って、ファルカスは内心で舌打ちし――応えて、剣を抜いた。


 ――とにかく、勝てば良いのだ……!


 彼がティグリスに剣で敗れるなどあり得ない。異母弟の真意が何であろうと、捕らえた後に(ただ)せば良い。


 その、はずだった。

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