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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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胎動① アンネミーケ

「ノインテ河の水位が下がったとのことです」

「そうか……」


 その報せを、アンネミーケはギーゼラの部屋で受けた。いついかなる時であっても遅滞なく知らせるように、と強く命じていたからだろうが、懐妊中の嫁に――例え意味は分からなくとも――聞かせたいことではなかった。


「前々から手配した通りに。船を損なった者などいたら補償してやるようにせよ」

「仰せのままに」

(わたし)もすぐに行く。大事が起きていないか詳細な報告を整えておくように」

「はっ」


 もの問いたげな表情のまま、使者は退出していった。特に天候の不順もないのに、大河の水位の変動を予想していたかのような彼女の言動を、不審に思っていたのだろう。


 ――睥睨する(シュターレンデ)鷲の神(・アードラー)のお告げ、とでも言ってみるか……?


「あの……」


 皮肉な、かつ悪趣味な考えに捕らわれて苦い笑みを浮かべていると、ギーゼラがおずおずと声を掛けてきた。


「何か、大変なことでも……? 私などには構わず、早く行かれた方が……」


 過剰なほどに謙遜するのはこの娘の悪い癖だ。私など、と卑下して構うなと言いながら、国政を預かる義母に意見しても良いものか、と怯えたような表情を浮かべている。今の会話も、何か重要な事態の符丁だとでも思ったのかもしれない。


「今からできることは少ない。貴女の身の方がよほど大事。ご心配には及ばない」


 嫁を萎縮させることのないよう、アンネミーケは精一杯優しげに見えるように微笑んだ。政務においては顔を顰めていることが多いから、果たして成功したかは定かではなかったが。


 ギーゼラに告げたのは気遣いや気休めだけではない。実際に、もはやことは終わっているのだろう。


 ノインテ河――イシュテンでは言葉の違いに伴って名前を変えていたはず――の水位が下がったのは、ティグリス王子の策のため。大河の堤を切って、ブレンクラーレにとっても因縁深いシャルバールの野を沼地に変える、という――奇策というか詭計とでも呼ぶべき企みだ。

 ブレンクラーレの兵を借りておいて、戦いよりも土木工事に使おうという魂胆には呆れたし腹も立った。ブレンクラーレと彼女が絡んでいるなどと、決して世に知られる訳にはいかない、卑劣な策でもある。それでもイシュテンの騎馬、何よりその気質に対して有効であると判じた。


 ――ブレンクラーレの支援を求めたのは……第一に河の水を使って騒動にならないためだったか……。


 ノインテ河は、イシュテンのみならずブレンクラーレにおいても流と民の生活を支える生命の河。仮に無断であのような策を実行して、そしてイシュテンの仕業と判明していたならば、確実に両国の関係は悪化していただろう。役人は水流の減少の原因を究明しようとするだろうが――ほどほどのところで止めさせなければなるまい。

 自国に対して言い訳をさせるのが同盟相手に求める役割だったとは。大国ブレンクラーレを導く王妃たるアンネミーケも、侮られたものだと思う。


「お義母様、でも……」

「孫との触れ合いが大事ではないとでも? もう一度この姑に触らせてもらえるだろうか?」

「……ええ、もちろんですわ……」


 このように図々しく強請ることができるようになったのは、進展と捉えて良いのだろう。何かと遠慮がちで、夫や義母に対して萎縮するようですらあったギーゼラだったが、少しずつではあるが打ち解けた表情を見せてくれるようになっていた。


 ――これも母になったからか……。


 煩わしい政務のことを一時忘れ、アンネミーケは微笑む。筋ばって細い彼女の手を伸べれば、義理の娘は豊かに膨らんだ腹を差し出してくれる。そうして張り詰めたそこをそっと撫でると、掌に伝わる振動が感じられた。


「元気な子だこと」

「殿下に似たのでしょうか」

「あれはどうだったか……悪いところは似なければ良いが」

「良いところばかりに恵まれたら良いです」

「ならば見目は似て欲しいもの」

「そんな……」


 母と祖母とで顔を見合わせて笑うと、ギーゼラはふと表情を曇らせた。


「王子ならば、良いのですが」

「王女でも構わぬ」


 嫁の不安を読み取って、アンネミーケは素早く断言した。無論、世継ぎの王子であるに越したことはないが――


「そなたたちはまだ若い。何人でも子宝に恵まれよう」


 夫君の放蕩に悩まされた彼女自身とは話が違う。王妃の懐妊を、心置きなく寵姫の元に通う口実と捉えた父親と違って、マクシミリアンは妻を気遣い身を慎む良識を見せている。ギーゼラが、ついに息子ひとりしか儲けられなかったアンネミーケの轍を踏むことはあるまい。否、そうはさせない、と。彼女は心に決めていた。


「はい」


 ギーゼラは小さく呟くと、頬を染めて俯いた。


「殿下は私に名前を決めさせてくださると仰いました……」

「それは良い」


 珍しく息子が妻を喜ばせることができたと知って、アンネミーケは頬を緩めた。控えめなギーゼラのことだから、高価な贈り物よりも子供に関する気遣いの方が受け取りやすいのだろう。この様子を見ただけでも、あのミリアールトの公子を遠ざけたのは正解だったと思える。


 そうしてしばらく歓談した後、アンネミーケは官吏たちと会うべく立ち上がった。


「冬の間、体調には十分気をつけなさい。暖かくするのは勿論だが、乾燥も避けるように」

「はい、お義母様」


 口煩いと思いつつ、毎度退出の際には似たようなことを言ってしまう。年寄りの繰り言めいたことに笑って頷いてくれるこの娘は、やはり優しい。見た目などではなく、その心のために。ギーゼラが息子の妻になってくれて良かったと、アンネミーケは心から思っている。


「産み月が春先で良かった。暑くもなく寒くもなく……貴女は幸運に恵まれた」

「ブレンクラーレの――王子か、王女ですもの。大鷲の神のご加護なのでしょう」


 ――この娘で、良かった。


 腹を包むように抱えて微笑む娘を見て、アンネミーケは改めて自身に言い聞かせた。息子の妻、ブレンクラーレの王太子妃、次代の国母はこの娘の他にいない。いかに美しく聡明で高貴の生まれだとしても、ミリアールトの姫は彼女にとって会ったこともない他人に過ぎない。

 ギーゼラから遅れることひと月余りで同じく懐妊したその姫が、恐らく母になることはないこと――ティグリス王子によって胎児ともども命を奪われるであろうことは、彼女には関係ないことだ。マクシミリアンが信じているであろうほどに、アンネミーケは冷酷ではない。姫君への憐れみも、確かに感じてはいる。ただ、国と息子とその妻子にとって、何がより大事かを弁えているというだけだ。

 だから、ミリアールトの姫については心のほんの片隅を痛めるだけ。これ以上は無用の感慨、ましてギーゼラにはこのような思いを悟らせてはならない。


 アンネミーケは微笑みを保ったままギーゼラの部屋から退出した。




 ティグリス王子の策を受けて、アンネミーケは一応国内でも手を回していた。シャルバールの野を水没させるだけの水を流出させる以上、ブレンクラーレにも影響が出ることは分かりきっていたからだ。

 とはいえティグリス王子がいつ王の軍をぶつかるか、さらに堤を切ったとしてブレンクラーレでも水位の変動が見られるのにどれだけの時間差があるかは未知数だった。だから手回しといっても大したことではない。日常は人や物の輸送に数多行き交う船の数を、何だかんだ理由をつけて制限させ、物流に不都合が生じた分を陸路の輸送で賄うように手配していたという程度のことだ。


 船を扱う商人どもの組合や、関連する利権を持つ官吏からは反発もあった。しかし、つい先日まで彼女に強い口調で詰め寄っていた者たちが、今は酢を飲んだような表情をしている。それを見て、アンネミーケは意地の悪い悦びを味わうことができた。


「被害はいかほどか」

「船壁や船底を損なったものはありましたが、さほどは。――通常通りの数が行き交っていれば、あるいは人や品を満載していればこうはいかなかったのでしょうが……」


 示された数字は、軽微なものと断ずることが出来る程度のものだった。幾らか補償をしてやっても国庫に影響もなく、船主や荷主も声高に不満を訴えることがないだろう、という程度の。


「何と間が良かったこと」

「まことに」


 白々しく喜んだ振りをして見せると、数字を纏めた者は釈然としない表情で頷いた。船の数だとか、積載量の把握だとか。アンネミーケが言い訳として命じた調査について、水運を預かるこの男は自身の仕事振りを疑われたものと捉えていたようで不満顔だったのだ。間が良すぎる、とは思っているかもしれないが、彼女はこの建前で押し通すつもりだった。


「国境の内からは原因となるような事象は見つかりませんでした。やはり、イシュテンが何かしでかした――ということかと存じます」


 そこへ、軍部からも声が掛かる。奏上した者の目には、明らかな戦意が宿っている。長年に渡って因縁が積もる隣国を、攻める口実ができたと思っているのだろう。


「ちょうどイシュテンは王と王弟が争っているというではありませぬか。我が国の生命線でもある大河の流れに何たる勝手、と――詫びを勝ち取りたく存じます」


 ――ブレンクラーレに原因はないと、もう断言できるとは。国土全域に目が行き届いているようで何より。


 自国の情報網が整っているのを目の当たりにして、アンネミーケは鷹揚に微笑んだ。イシュテンの内乱への言及も彼女の想定の内。ゆえに余裕を崩すことなく応えることも可能だった。


「内乱の折りであればこそ。イシュテン王に抗議したところで王弟の仕業ということにするであろう。まして王弟の方は――将来のことはともかく、今はただの反逆者に過ぎぬ。まともに相手をしてはブレンクラーレの不名誉となろう」

「では黙って見過ごすおつもりですか!? 何と弱気な!」


 自身に向けられる剣呑な視線を、アンネミーケは表情を変えずに受け止める。確かに事前の断りもなく交通と物流の要である大河を侵されたのだ。本来であれば戦争沙汰になって当然。険のある目つきの者たちなどは、肚の中ではこれだから女は、とでも思っているに違いない。


 ――内密に約を交わしていたと知ったらどうなるだろうな……?


 王でも、王族ですらない、嫁いできた王妃の身での独断だ。夫君や息子を操ろうと企む者にとっては、アンネミーケを掣肘するまたとない機会と考えるだろうか。彼女を政から遠ざけようとでもするだろうか。

 しかしティグリス王子との取引を知る者はごくわずか、それも彼女自身に忠誠を誓う者ばかり。だから脳裏を掠めた疑問は、断崖の縁に立って深淵を覗くかのような危ういけれど踏み外しはしないと確信している類いの高揚をもたらしただけだった。


「乱の決着がついた後に、勝者を相手に抗議すれば良い。獣の縄張り争いではあるが……かの国では勝った者こそが王なのだから。王として話すとなれば無視する訳にもいかぬだろう」

「決着を待つとして……冬になりますな」


 冬は争いに向かぬのは誰もが――イシュテンの野蛮人どもですら承知していること。抗議であれ責を問うのであれ、軍を動かすには春を待たなくてはならなくなる。そしてそれだけの時間を与えれば、ティグリス王子もイシュテン国内を多少は安定させられるだろう。

 待ってなどいられない、とでも言いたげに不満げな色を隠さない相手に対し、アンネミーケはあくまでも穏やかに言い聞かせる。


「内乱に乗じて攻めた……などとブレンクラーレにとっても名折れとなろう。冬が明けてから正式に使者を送れば良いのだ」


 兵を貸してやったこと、加えて強引な策を承諾してやったことについて、ティグリス王子はアンネミーケに借りがある。その代償として幾らか領土を譲るのに、決して否とは言わせない。ティグリス王子はイシュテンの王族にしてはものの道理を弁えている。不穏なイシュテン国内を思えばアンネミーケを敵に回すのが得策でない、という程度の計算はできるはず。


 ――領土を寄越すのが、支援への礼だろうと河を侵した代償だろうと、臣下にも民にも分からぬこと。


 イシュテン王が大人しく譲歩したら、戦いを望む者たちは驚くだろうか。それとも物足りないとでも思うだろうか。とはいえ、よりにもよってイシュテンが争いを避けたというのにあくまでも血を求めるとなれば、野蛮の謗りは免れまい。ブレンクラーレの誇り高い軍人にとって、そのような評判は耐えられるものではないだろう。不審を感じたとしても、異を唱えることはできないのだ。

 此度のことだけではない。権威の弱いティグリスが王である限り、イシュテンとの国境は平穏に保たれ――平和な治世はマクシミリアンの手柄になろう。


 ――ティグリス王子が勝ちさえすれば、何事もなく収まる……!


「他に懸念は? なければ民の補償を滞りなく進めるように。物流の方も――このところ滞りがちであったからな。流れの状況をよく確認した上で少しずつ戻していくのが良いだろう」

「そのように致しましょう」


 仕事を与えてやると、官吏たちは活き活きと動き始めた。どさくさに紛れて河の使用を元通りにさせたことに、気付かれていないのならば良い。軍人どもも、今のところは反論が見つからないのか黙然と礼を取って退出していく。イシュテンに比べればブレンクラーレの臣下は従順で礼節を知り、かつ勤勉なのだ。命令通りに国内の全てが滞りなく運ぶことを、アンネミーケは疑っていなかった。


 ――残るは国境の外のことだが……。


 それも、ティグリス王子の勝利の報を待つばかりなのだろう。

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