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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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切望 ティグリス

「さすがは兄上!」

「ファルカスめ、何を考えている!?」


 ティグリスの声は叔父のそれとほぼ重なり、お互いに不機嫌な視線を交わす結果になった。ティグリスは高揚に水を差してくれるなという抗議。叔父は何を言い出すのかと咎めるように睨んでくる。同じものを目にしながらここまで反応が違うとは、同じ陣営に属するはずなのに全く不思議なことだ。


 味方が戸惑うようにざわめいたのも耳障りだった。眼前に広がるのはティグリスの指示により作り出した罠の潜む沼地。怒りに駆られてあえなく罠に嵌った、兄の臣下の死体。さらにそれを踏み越えて()()()()()こちらを目指す兄の本陣だった。


 ――罠を承知で向かって来てくださった……!


 叔父を始め、味方の主だった者たちは兄が罠を迂回するだろうと考えていた。その進路を予想し、迎え討つために兵の配置を計画してさえいた。それを無に帰した上に動揺も誘ってくれるとは。嵌められた状況を逆手にとって果敢に攻める姿勢は、やはり見事だと思う。


「挑発に乗ってくれた、ということでしょうか……」

「違うな」


 ざわめく人の動揺を感じてか、落ち着き無く足踏みする馬を宥める。そこへ執り成すように口を挟んだのは、ブレンクラーレの間者だった。しかしそれも的外れだったので、ティグリスは地上に立つ彼らを見下ろし、笑って訂正してやる。


「兄上が怒りで我を忘れるなどあるはずがない。長年不遇の身を忍んでいらっしゃったのだから」


 彼と母を同じくする第二王子(オロスラーン)や先王の長子たるザルカン、彼らを擁する陣営の者たちは、兄に対してしばしば無礼な態度を取っていた。しかし、あわよくば懲罰の口実にしてやろうという悪意を、あの方はことごとく退けた。幼いティグリスの目にも優れていると明らかだった兄が、淡々と目を伏せ跪く姿はもどかしいことこの上なかった。それでも──あの方は、ティグリスと違って忍従に報われる機会を得た。当然だ。ティグリスがどれほど努力しても失われた脚の機能は戻らないし臣下の尊敬も忠誠も得られない。だが、兄は生まれた立場がおかしかっただけで、生来才に恵まれた人だったから。ティゼンハロム侯もその娘も、ほんの手助けをしたにすぎない。遅かれ早かれ、臣下のことごとくがあの人の器に気付いていたことだろう。

 ともかく――


「兄上は私の挑戦を受けてくださったのだ」


 ティグリスの真の狙いは、戦いに勝つことなどではない。イシュテンの矜持を叩き折り、その勇名を地に堕とすことこそ彼の復讐だったのだ。兄が当初の予想通り迂回してくれていたなら、彼の罠に屈したと――戦馬の神の騎手を貶めることができたと言えただろうが、そのようなことにはならなかった。


 きっと、兄はティグリスの意図に気付いたのだ。被害の少ない道を採れば、却ってイシュテンの名を汚すことになる。そうして勝ったとしても、周辺の国や後世の者からはイシュテンは恐るに足らずと思われることになるだろう。だから敢えて正面から攻めることを選んでくれたのだ。

 思い続けた人が彼の意を汲んでくれたのだ。緒戦で勝利を収めた喜びも取るに足らないほど、ティグリスの心臓は高鳴って体温が上がっているのが分かる。イシュテンが戦いを好むのもよく理解できた。この陶酔の前には、女を抱く快楽など比べ物にもならない。


「バカバカしい……!」


 例によって、叔父には彼の思いは理解されないようだったが。


「矢の良い的ではないか。自ら破滅の道を選ぶとは、ファルカスも存外愚かだったな! ……まさか指を咥えて眺めているとは言わぬな?」

「まさか」


 叔父の疑わしげな視線に、ティグリスは苦笑した。彼は兄と全力で競い合いたいのだ。正面から挑んでくれたからには、こちらも手を抜くわけにはいかない。


 ――兄上ならば……きっとここまで来てくださる!


「弓を構えよ。射程に入ったところで放て。屍の上に屍の山を築くのだ」

「はっ」


 鋭く命じると、やや表情は引き攣っていたものの周囲の者たちは素早く従った。緒戦での斉射で、誇り高きイシュテンの騎馬を狩りの獲物のように射ることに多少は慣れたらしい。

 兄はどのように鼓舞したのだろう。彼我を隔てる沼、その距離の半ばほどまでは、敵軍は平地さながらの速さで駆け抜けた――が、最初の罠、最初に死んだ者たちの屍が重なる辺りまで来ると目に見えて減速する。味方の死体を踏みつけることへの抵抗、そして罠への恐怖がそうさせるのだろう。


「今だ。やれ」


 その一言を号令に、数百、数千という矢が天に向けて弧を描き、次いで雨のように敵に注ぐ。


「辿り着かせなどせぬ……!」


 ――どれだけが辿り着いてくれるか……?


 叔父の言葉とティグリスの思いはやはり相反する。このような策を考えておいて言えることではないかもしれないが、ティグリスは兄が泥に塗れて死ぬところは見たくない。彼程度が巡らせた策など、あの人ならば越えてくれると、そう信じたいのだ。

 ティグリスは目を細めて敵が矢の雨に打たれる様を眺めた。兄の騎馬は一際目立つ漆黒の毛並みのはず。倒れる馬の中にあの影のような一頭がいないかどうか、その乗り手は無事なのか。この距離では区別がつくかは怪しかったが、目を凝らさずにはいられなかった。


「いけそうか……」


 ――何だ、無理だったか……。


 兄の軍は、泥沼に加えての矢による攻撃で、ほぼ足を止めてしまった。嬉しそうに呟く叔父を他所に、ティグリスとしては落胆せずにはいられない。たとえただの一合で敗れるとしても、兄と剣を合わせて見たかったのだが、どうやらその願いは叶わなさそうだ。


「手を休めるな。被害が少ないに越したことはない」


 ならば残るは後始末、残党狩りなど面倒な作業に過ぎない。決して気の進むものでもないが、さっさと済ませる他ないだろう。

 醒めた口調で命じると、兵たちも黙然とそれに従う。獣ではなく人を的にする珍しい狩りを見物するか、と。背から力を抜いた、その時だった。


 旋風が、こちらに向けて吹いた気がした。


 思わず身を乗り出すと、風を起こしたのは一団の騎馬だった。泥沼と矢で速さを失っていた敵軍から飛び出すように、迷いなく全力で駆けてくるのだ。それだけならば蛮勇を振り絞っただけかもしれなかった。見れば百にも満たないであろう寡兵、足掻いたところで大勢に影響はないはずだった。

 だが、そうはならなかった。水によって巧みに隠された数多の罠を、その数十騎はことごとく避けてみせたのだ。しかも、先導を得た兄の軍は、勢いを取り戻して今度こそ脱落する者もなく沼地を越えようとしている。


「バカな……!」


 誰もが息も忘れて近づいてくる一団を、そしてそれに続く敵軍を注視する中、喘ぐように叫んだのはブレンクラーレの間者だった。


「どういうことだ!? 貴様らの……女狐めの差し金か!?」


 叔父が叫んだ男に詰め寄ったのは、あながち言いがかりとも思えなかった。なぜなら男の声には予期せぬことが起きた驚きと同時に、どこか納得と悔恨の色も滲んでいたから。何か、とてつもない過ちを犯していたと、後から気付いた者の声だったのだ。


「兵を伏せておく手はずではなかったか!? 伏兵とはこちらに対してのことか! 共倒れを狙って利を攫うのが女狐のやり方か!」

「違う!」


 声高に罵りながら叔父が振りかざした腕を避けて、その男は後ずさった。逃げ道を探すように目を泳がせるが、四方からあるいは訝しげな、あるいは敵意に満ちた視線を浴びて顔色を青ざめさせる。


「摂政陛下はあくまでもティグリス殿下の即位を望んでおられる。あれは……あの者は……違うのだ!」

「何が違う!?」


 ――ふたりとも迂闊だな……。


 至近で繰り広げられる怒鳴り合いに顔を顰めつつ、ティグリスはそっと溜息を吐いた。ブレンクラーレとの密約は大方の者には伏せているというのに、そのようなことも頭から飛び去ってしまったらしい。


「あ、あれはミリアールトの元王族で――イシュテンに恨みがあるからと摂政陛下は信用されたのに。なぜこのようなことをするのか――」

「ミリアールトの者だと!? イシュテンに仇なすために決まっていよう! 女狐めが、余計なことを――」

「今はそのようなことを言っている場合ではない!」


 確かにこのやり取りの間にも敵軍はこちらへと迫っている。ブレンクラーレの間者の言葉の方がどう考えても理があった。だが一方で叔父が激昂した理由もよく分かる。


 ――ミリアールトの王族だと? ならばあの方の……?


 改めて目を細めて迫る騎馬の群れを眺めても、あの輝く金髪など見えなかった。顔も兜の下に隠れているし、この距離で人相など分かるはずもないが。ただ、あの美姫の縁者と不思議なところで(まみ)えることになったと思ったのだ。

 側妃となった王女を除けば、ミリアールトの王族はことごとく殺されたと聞いている。兄に限って取りこぼしがあったことも、生き残りがよりによってブレンクラーレと組んだというのも意外だった。しかも摂政陛下はその元王族とやらを知った上でティグリスには黙っていたらしい。同盟相手としてまったく不誠実ではないのか。今後の付き合い方について、よくよく考え直さなければなるまい。


 ――まあ、それは後のことだな。


 何しろこの戦いに敗れれば今後、はないのだ。自失していた周囲の者へ、ティグリスはその状況を思い出させる。


「何をぼんやりしている。兄上が――王がせっかく来てくださったのだ。全力で迎え撃て」

「は……はっ!」

「そなたたちが望んだ堂々とした戦いだろう。存分に力を奮うが良い!」

「ははっ!」


 兵たちの顔にわずかながら生気が戻り、頬にも血の色が上ったようだった。正面からのぶつかり合いこそイシュテンの流儀。先ほどまでの安全な()()は、やはりこの者たちの気に入らなかったということなのだろう。


 ――これだからイシュテンは獣の性と呼ばれるのだ……。


 憐れみと嘲りのために口元を笑みで歪めながら、指示を下そうとした時だった。


「殿下――!」


 耳に刺さる悲鳴のような叫び。そして鼻をつく血の臭気に顔を顰めて、原因と思しき方を見る。


「叔父上……」


 考えるまでもなく事情は知れた。彼を呼んだ声はブレンクラーレの間者のもの。更に血臭もそうである証拠に、男の上腕は赤黒く濡れていた。そしてその傷を与えた者もまた明らかだった。ティグリスと同じく馬上にいた叔父が、構えた槍の穂先は血に濡れていたのだ。


「何をなさっていますか」

「女狐めは同盟を裏切っていた。これほどの侮辱、どうして耐えねばならぬ!? この者どもの首を叩きつけてやる!」

「終わってからでも良いでしょうに……」


 勝たねば意味のないことだろうに、敵軍は指呼の距離に迫っているというのに、叔父さえ事態が分かっていなかったとは。怒りに駆られて近づく脅威を忘れるとは、罠に嵌った敵のことを笑えないではないか。


 ――首を刎ねたところで乱戦で失われるかもしれないだろうに……。


 呆れとともに説得の言葉を探そうとした時――横からも、険しい声が上がる。


「私どもも、許せませぬ。この者の申す通りならば、アンネミーケのせいで我が方が窮地に陥ったということではございませぬか!」


 訴えるのは、ブレンクラーレとの取引を明かしていた者のひとりだった。ハルミンツ侯爵家に古くから仕える家の者で、叔父の信頼も篤く、ティグリスに対しても忠誠のような感情を持っているようだった。そんな男が、やはり怒りに顔を赤く染めている。


「戦いの前に、裏切り者どもの血を戦馬の神に捧げましょう!」


 ――この期に及んで戦馬の神の加護を願うか……?


 イシュテンが戴く神を愚弄するかのような策に加担しておいて、あまりに虫の良い言い草に思えた。ブレンクラーレの者を殺めることで、罪悪感を減じようという思いもあるのかもしれないが。

 いずれにしても彼にはどうでも良いこと、相手が複数いるのならば説得するのも面倒だった。裏切り者とやらの血を流して満足して戦ってくれるなら、それで良いとさえ思える。

 だからティグリスは苦笑と共に頷いた。


「分かった。ならば好きにするが良い」

「殿下!」


 間者の顔が先ほどよりも一層青く、白いとさえ見えるのは、既に相当の血を失っているからか、命運を絶たれた恐怖によるものか。それもまた、彼にはどうでも良いことだった。


 肉が裂かれ骨が断たれる音、断末魔の悲鳴を聞き流しながら、迫り来る敵軍に目を向けると、このやり取りの間に戦馬の荒い息遣いさえ感じられる距離に近づいている。味方の兵も、さすがに驚きから立ち直って迎え討つべく陣形を整えているところだ。


 いよいよだ。いよいよ兄上と……!


 兄の姿を探して、そして前線へ出ようと手綱を取ったティグリスの手は、より力強い腕によって止められた。


「ティグリス様はお下がりください!」

「なぜだ!? 兄上は私に会いに来てくださっているのだ!」

「お前に何ができるというのだ!」


 ブレンクラーレの間者の返り血で鎧を汚した叔父たちが、彼を危険から遠ざけようとしているのだ。


「離せっ! 私を王としようというのでは、ないのか!?」

「お前が死ねば全てが終わるのだ!」


 はね除けようとしても力では敵わず、馬さえ周囲を囲まれてしまえば無理に進めることはできない。


 ――いつまでも子供のように扱って……!


 まともな男として扱われず、守られるだけの悔しさに母を思い出す。あの女を殺しても彼は自由になれないというのか。結局、誰もが自身に都合の良いことを並べて彼を利用しようというだけなのか。


「兄上……っ!」


 あの方だけは違う。ここまでしてイシュテンに、その王に挑んだのだ。今こそ兄は彼を敵として見てくれなくてはならない。


 絶望と期待の間で揺らぐ視界の中。罠を越えて辿り着いた敵と、剣を抜き放って迎える味方とが、鋼を噛み合わせ激しい火花を散らせていた。

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