戦いの帰結 アンドラーシ
水飛沫を浴びるのと共に、馬の蹄が泥にめり込む柔らかい感触が、手綱を握るアンドラーシにも伝わってくる。泥道を駆けたことがないということはないが、これほどの速度を出して、それも武具一式を纏ってというのは初めてだ。水の深さのため、鎧の重さのためか、蹄を泥から引き抜く際の抵抗が思いのほか大きい。気を引き締めておかないと、ティグリスの罠を待たずに馬の脚を取られかねなかった。
アンドラーシを始めとする一団は、王の露払いとして真っ先に沼地へと踏み入った。
ティグリスの陣営が仕掛けた死の罠があるのを承知の上で、イシュテンの誇りのために真っ向から受けずにはいられない。これで迂回するようでは誇りを汚されたまま逃げるも同じこと。
王の判断に、彼は心から賛同していた。
「速度を出しすぎるな。前をよく見ろ。前の者が倒れたら迷わず踏み越えろ!」
「言われなくても!」
傍らで駆けるカーロイに声を掛けると、叫ぶような答えが返ってきた。一時はひどく張り詰めた顔色をしていて、使い物になるかと心配していたほどなのだが、取りあえず今は――何だかは知らないが――懸念を忘れることにしたらしい。前だけを見て馬を駆る姿を見れば、戦友として認めてやっても良いとさえ思える。
――俺も無様なところは見せられないな。
緒戦で罠に嵌った者たちの死体が視界に入るところまで差し掛かり、アンドラーシは盾を掲げた。半ば水に沈んだ人馬の亡骸には、矢が幾本も突き立っている。敵陣からの距離も計算の上での罠なのだろうが、もう敵の矢の射程に入るのだ。
王からは死体は踏み越えよ、と命じられている。少なくとも死体の上は比較的安全な足場ということだ。だから、先頭を行く者が倒れた時には――例え生きていたとしても――その上を駆け抜けなければならない。そして仮に彼自身も泥水に落ちることがあったなら、後続の者たちの道とならなければならないのだ。
泥とは違う、馬の腹や人の手脚を踏み躙る気味の悪い感触が、騎馬を通して伝わってくる。数度に渡って矢の斉射があったと聞いているから生きている者はいないだろうし、彼も間もなく同じ運命を辿るのかもしれなかったが。人も馬も、すぐに見分けのつかない血肉の残骸に変じるのだろう。その様を思うと、決して気分は良くなかった。
戦場にいると、五感の全てが研ぎ澄まされて視界が広がるような気がする。アンドラーシの目には、まだ遠いティグリス陣営の様子までが映るようだった。見えない罠を巡らせた平原を、真っ直ぐに駆け抜けて来るなど予想もしていなかったのだろう。敵は動揺して列を乱しているように見えた。いや、この距離でまだ矢を放たないということは、実際驚いているのだろう。
――今のうちに、駆け抜ける! 陛下に、ティグリスの下への道を、示す!
誰も好んで味方の死体を踏み砕きたいなどと思ってはいない。それに、アンドラーシもティグリスの策を許し難いと感じている。イシュテンへの、ひいては戦馬の神への挑戦だと言った王はまったく正しい。ティグリスの思い通りになど、させてはならない。戦馬の神の国は常に猛く強くあらなければならない。
敵陣に辿り着くことさえできれば、王は必ずティグリスを討つ。その確信こそが、死と隣り合わせの決死行にあってアンドラーシを支えていた。
だが、もちろん無傷で渡りきることなどできなかった。最初に罠に嵌った者たちの死体を越え、更に敵陣とやり合った箇所を過ぎると、もはや馬上から罠の在り処を見分けるのは不可能だった。彼自身も、いつ潜んだ穴を踏み抜くか分からない。篭手に守られた手に汗が滲み、口元が引き締まるのが分かる。あるいは、兜の中を透かして見える者がいるならば、笑っているようにも見えたのかもしれないが。
「――うおっ!」
アンドラーシの視線の先で。ついに先頭の騎馬が悲鳴と共に崩折れた。不意に出現した障害に、すぐ後ろの者たちはあるいは避け、あるいは倒れた馬体に躓いて同じ運命を辿る。更に続くのは、王命に従って倒れた者の上を駆ける戦馬の群れ。
まだ生きている者を踏みつけるのは、先ほどにも増して不快な感触だった。ただ、そのような感慨を噛み締める間もなく、アンドラーシの前にいる者の数は減っていく。倒れた味方によって血の道を踏み固める道行きはおぞましく、血が凍る思いがする。一方で戦いの高揚は血を燃やす。
相反する思いは彼の感覚をより一層冴え渡らせる。視界の端で倒れていく同朋の、目に浮かんだ恐怖と絶望の色さえ見えるほど。カーロイ・バラージュはまだ騎乗を保っているのを見て、心の片端で安堵できた。
次々と、剣の切っ先が摩耗するように、前方の味方は欠けていく。敵に迫る王の軍が削れていくのだ。倒れた者たちを、避けるにしても踏み越えるにしても後続の速度は否応なく減じられる。更に後ろの騎馬との速度の違いで、猛る本流が塞き止められるように、戦馬の群れは歪んだ塊となって沼地の真ん中で淀み蟠る。
更に、風を切る鋭い音が耳に届いた。天を仰げば、青空から降り注ぐのは矢の雨だった。さすがに敵も我に返って攻撃を始めたのだ。
――簡単に通しはしないということか!
内心舌打ちしつつ盾を掲げて凌ぐ。矢が盾に食い込む衝撃が腕に伝わる。盾を構えるのが遅れた者や矢が掠ったらしい馬の悲鳴で混乱が一段と深まり、方向さえ見失う騎馬もあるようだった。味方にぶつかるのを避けようと方向を変えれば、その先は罠の潜む沼。恐慌の中で無為に沈んでいく愚者に――それに何よりこのようなところで踏みとどまっている自分自身に対して、怒りが募る。狼狽える味方などもはや障害でしかない。構わず進め、と。浮き足立つ馬を叱咤して手綱を絞る。
――元々命を賭す覚悟だったのだ! 無駄死にこそ恐ろしい!
味方に範を示し、檄を飛ばそうと。疾走に備えて身構えつつ、肺いっぱいに息を吸う。と――
「――怯むな! 全力で駆け抜けろ!」
響いたのは、アンドラーシ自身の声ではなかった。もっと高く、澄んだ声が、水晶でも砕けたかのように辺りの者の耳を打つ。誰もがそちらに注目せざるを得ないほどに、堂々と自信に満ちた声だった。
――何だ?
疑問と同時に、後方から風が吹いたと感じた。
それは、全力で疾駆する一団の騎馬だった。死の罠に満ちた沼地だというのに、そんなことは知らぬとでも言うかのように、乾いた平地を駆けるように迷いのない速度を出している。
そして、驚いたことにその集団は脱落する者もなく無傷で敵陣へと迫っている。何の業か――何者かの加護によってか、罠を避けることができているのだ。
「――何をしている! 続け!」
再び叫んだのも――忌々しいことに――アンドラーシではなかった。ただ、今度は声の主は分かる。カーロイがいち早く混乱を抜け、謎の一団の後を追おうと飛び出したのだ。
若造に先を越された――そうと気付くや否や、アンドラーシも馬に疾駆を命じていた。カーロイの馬が水面に残した波紋も消えぬうちに、その後を追う。追い抜く。そう、理由を考えるのは後で良い。今為すべきは、この死地を駆け抜けること。とにかく道が見つかったならば、迷わず進むだけ。
背後から聞こえる歓声に後押しされるようだった。他の者たちも気付いたのだ。これはまたとない僥倖、あるいは戦馬の神からの天佑だ。卑劣な罠を企んだ敵に、安全なところにいると信じきっている奴らに、イシュテンの流儀を思い知らせてやるのだ。
謎の一団に従って駆けると、敵陣は驚くほどに近かった。罠があると思えば断崖で隔てられてでもいるかのように感じられたが、ただの怯懦が見せる錯覚だったか。敵の、目も口も開ききった間の抜けた顔こそ見物だった。
――罠に思い上がったな!
笑いながら剣を鞘走らせる。鋼の擦れる感触が、陽光を反射して白刃が煌くのが、これほど心躍るのは初めてだ。これほどに、正面から武と勇を戦わせるのは愉しいものだ。
「死ねっ!」
「若造が――!」
声で歳を判じられたのだろうか。一合、二合と、取りあえず目が合った相手と切り結ぶ。そして相手が倒れるのを見届けることもせず、次の獲物を探す。
視線の先に、数騎の騎馬に守られるように後方へ下がろうとしている横乗りの一騎を見つける。戦場にあってどうしようもなく目立つ、不安定かつか弱げな姿は――
「――ティグリスか!」
歓喜のままに叫べば、敵からも味方からも怒りのどよめきが湧く。敵にとっては守るべき旗印が見つけられた焦りゆえに。味方にとっては憎むべき罠を仕掛けた元凶を見出した復讐心のゆえに。
「あやつさえ討てば――!」
「させるか!」
敵と味方が入り乱れてぶつかり合い、血と腕と首が飛ぶ。どちらも気迫は十分――否、こちらの方が押しているか。泥に塗れさせられたのを血で洗い流さんとばかりに、猛攻を加えている。ティグリスの罠への憤りが、それだけ激しいということだ。何より――
「よくやった」
低い声と共に、黒い影がアンドラーシの横を駆けた。王が、自ら前線へと乗り出したのだ。黒影号の姿も名高いが、騎手がいてこその名馬だろう。血と死に満ちた戦場にあって、その姿はいっそ神々しいほどだった。戦馬の神が人を背に乗せるのを許したのかと思うほど。
「陛下!」
「ファルカス!」
敵も味方も関係なく、その人は場の全ての目を惹きつける。体格が優れているからというだけでない。華やかな鎧も、一際目立つ漆黒の乗騎も理由のひとつでしかない。ただそこにいるだけで、道を空け跪かねばと感じさせる。
――やはりこの方こそイシュテン王だ!
湧き上がる声は、味方が敵を圧倒していた。イシュテンの王は自ら戦ってこそ初めて王たり得るのだ。ティグリスについた者たちも、心からあのような謀を良しとしていたはずがない。王が現れたという事実だけで、彼らに後ろめたさを思い起こさせたようだった。
「ティグリスはどこだ!? 相手をしに来てやったぞ!」
高らかな呼び掛けに、敵が目に見えて怯む。不具のティグリスが王に適うはずもないと、誰もが分かっているのだ。そしてそうと認めることは、彼ら自身の非を――イシュテンの武人としていかに不適格であるかを突きつける。
「臆したか? ならば貴様らの誰でも良い。己の剣に理があると信じるなら向かって来るが良い!」
王が抜き放った剣の輝きに、応える者はいなかった。それは、反乱が潰えた瞬間だったかもしれない。
王が進めば、思い出したように武器を上げ、ティグリスへの道を妨げようとは試みる。しかし、敵の戦意は明らかに萎えていた。剣を掲げて迫る王と側近に守られて退くティグリスとを比べれば、どちらが王に相応しいかは一目瞭然。王に逆らえば、命ばかりか誇りまでも地に捨てることになる、と。今更ながら思い知らされるのだろう。
――この場にならねば分からぬとは愚か者どもめ!
アンドラーシは嘲りの笑みを浮かべながら、自棄のように向かって来た者を斬った。彼には、王が王であることなどとうの昔に自明のことだったというのに。
反乱軍が王の軍を一方的に矢の的にして始まった戦闘は、攻守を完全に入れ替えた。敵はティグリスを隠しつつ後退しているという体を辛うじて保っているというだけ、追い散らされるのも時間の問題だ。アンドラーシも幾人屠ったのか、自分自身で覚えていないほど。今や敵の方こそ狩りの獲物となっている。心が折れた軍というのはこれほど弱い。
王は自身の王位だけではなく、イシュテンのあり方をも守ったのだろう。
戦場の趨勢もほぼ定まり、アンドラーシはやっと一息を吐いた。ティグリスの命ももはや風前の灯火、王が逃すことなどないだろう。ティグリスさえ討てば、残りはしょせん寄せ集めの烏合の衆だ。
――あれは……どこの家の者だった?
勝ちが見えれば先ほどの一幕を思い返す余裕も生まれてくる。沼地の真ん中で、道を示したあの一団。あれがなければ、これほどあっさりと勝敗が分かたれていたかどうか。王の軍がことごとく罠に沈んだということはないだろうし、少数でも敵陣に辿り着くことができれば、卑劣な策への怒りで良い勝負ができただろう。それでも犠牲は遥かに大きかっただろうし、アンドラーシ自身こうして生きていられたか分からない。
まるであらかじめ知っていたかのように死地を駆け抜けて見せたのは、何者なのか。戦場で個々を見分けるのは、鎧などの装飾、盾に示された紋章、知っていれば騎馬の特徴などか。彼としても全軍を把握している訳ではないから知らない者がいてもおかしくはないが――あの一団の行動以上に、アンドラーシには心に懸かることがあった。
水晶のように澄んだ声を響かせていた先頭の者。その者の、兜の合間から、眩い金の髪が見えた気がしたのだ。