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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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雪の女王への供物 レフ

 シャルバールの野、と呼ぶ。とはいえ一様に平らな地などあるはずもなく、多少の起伏は存在している。大小の丘陵は、この地を戦場とする者たちにとっての砦や陣地や隠れ場所に利用されてきたことだろう。

 そのような丘陵のひとつ、小高く隆起した岩塊の陰に、レフとブレンクラーレの兵は息を潜めていた。イシュテン王に対しての伏兵となるべく、戦場からは程よい距離を保ちつつも死角になっている。これも、この草原の地勢を熟知するハルミンツ侯とティグリス王子からの情報があってのことだ。


「動いたか……」


 風が運ぶのは草の香りだけでなく鉄と汗と獣――馬の臭い。大地を数千の馬の蹄が揺るがす。視覚だけでなく、五感がイシュテン王の軍の動きを伝えてくる。

 それでもイシュテン王の選んだ策を知るためにはやはり高所からの展望が必要だ。恐らく前方の敵だけを見据えているであろう相手が、こちらを見ることはないだろう、と信じて。レフは兵の代表格の男を連れて草原を見下ろす高みへ上った。


 草原を駆ける戦馬の群れの中に、一際目立つ黒馬は、イシュテン王の騎馬だろう。ミリアールトへの侵攻の際も、影の色を纏ったあの馬は祖国の者たちに死の使いのような恐怖の印象を与えたのだ。

 死の馬に率いられた軍勢は真っ直ぐに草原を横切り、敵――ティグリス王子の陣営を、目指している。遠くからでも分かるほどに速度を出している様子から、進路を変えるつもりだとは思えない。


 ――あのまま突っ込むというのか!?


 無謀な試みを悟り、レフは思わず喘いだ。


「イシュテン王は何を考えている!? 罠を知ってなお、飛び込むなんて……!」


 彼らが潜んでいる場所からも、緒戦の顛末はよく見えた。


 彼ら自身がそうさせたからこそ実感として理解しているが、王の軍は度重なる挑発に苛立っていた。だから、イシュテン王の先陣が即席の沼地に踏み込んだのは、まあ分かる。というかティグリス王子が描いた通りだ。

 ティグリス王子からもブレンクラーレの間者たちからも、イシュテンの誇りやシャルバールの意義とやらについては再三聞かされた。名誉ある勝利の地を小細工で汚されたから怒り狂って我を忘れる、というのはありそうなことだ。ミリアールトにおいて、雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)を罵倒するようなものなのだろう。


 怒りに駆られたイシュテン王の先陣は死地に自ら飛び込んだ。


 レフ自身も馬の脚を嵌めるための溝を草原に巡らし、大河の堤を――流れが暴走することのないように配慮と工夫を重ねつつ――切る工事に携わった。イシュテンの戦馬の群れを陥れるためと、承知してのことだった。それでも実際に罠が効果を発揮した場面は、あまりにも凄惨で――その策を考え出したティグリス王子に、彼は一層の嫌悪を抱いたのだ。


 溝に脚を取られて落馬した者は、すぐに後続の味方に踏み躙られた。味方を蹴り殺した驚きで。あるいは幾重にも張られた罠に掛かって。名高いイシュテンの騎馬隊は、剣を抜くことさえなく無様に地に伏し泥に塗れた。

 平原を覆った水に紛れて、血の赤は意外にも見えなかった。代わりにレフに冷たい汗をかかせたのは、風を切る矢が肉を貫く音と、人馬の悲鳴。泥濘(ぬかるみ)の中を逃げ惑う者たちが立てる水の音、ぶつかり合う鎧、踏み砕かれる骨の何とも表現できない響き。それらが重なり合って、ひどく耳障りな合奏のようだった。そして何よりも血と臓物の耐え難い臭い。

 殺し合い(せんそう)とは、ひたすらに醜くおぞましく、あらゆる感覚を侵すものだと、彼は改めて思い知らされたのだ。無論、レフ自身も言い逃れのしようもなくその一端を担ったのだが。


 イシュテン王は、無為に同じ場面を再現しようとしているのだろうか。疑念が、思わず言葉となってレフの唇から漏れる。


「報告を聞いていないのか……?」

「聞いた上で、怒りに任せて動いたのかもしれませぬ」

「全軍揃ってか? やはり野蛮な……!」


 ブレンクラーレの者も、声にも顔にも困惑を滲ませていた。彼らには、王に加勢して、イシュテンの勢力を削ることこそ摂政陛下のご意思、と言い含めてある。このまま罠に飛び込まれては、その計画が狂ってしまうと考えているのだろう。

 もちろん、レフの密かな願いを叶えるためにもそのような展開は望むところではない。


「公子、我らはどのように動きましょうか?」

「うん……」


 思わぬ事態に迷い悩みながら頷くと、既に着込んだ鎧の重さが一層身体にのしかかる気がした。


 ブレンクラーレの兵たちとは、イシュテン王は沼地の罠を迂回しようとするだろう、と事前に予想していた。王自らが陣頭に立つのがイシュテンの伝統とはいえ、言葉通りに王が真っ先に罠に掛かるはずもない。緒戦で幾らか被害が出たのを見て一旦は退き、他の進路を探るのが妥当だろうと考えたのだ。


 ――そうなれば、王の軍が移動する間にティグリス王子は十分兵の方向を変える時間がある……。しかも沼は防壁の役目を果たして王の攻め手を限定する……。


 堂々と平原に陣取ったと見せかけて、実は罠を仕掛けた上で守勢を固めるつもりとは。やり方の汚さについてはレフも大層なことは言えないが――ティグリス王子はイシュテンの王族とは思えない人柄なのは確かなようだ。

 とにかく、緒戦はティグリス王子と、それにこの高みで見守るレフの思い通りにことが運んだ。しかしイシュテン王の暴挙によって、次の一手は今この場で考えなければならなくなった。


「このままだとティグリス王子が()()()()ます」

「そうだな。ティグリス王子にとっても予想外のことではあるだろうが……」


 怯むと思っていた敵が、真っ直ぐに突っ込んでくるのだ。動揺がないはずはないだろうが、イシュテン王の不利を覆すほどではないだろう。沼地に潜ませた罠を、どれほどの騎馬が越えられるか。越えた先に待つのは無傷のティグリス王子の軍だ。


 ――イシュテン王にここで死なれては困る……!


 レフの従姉、ミリアールトの女王でもあるシャスティエの命は、忌々しいことに王の庇護の下に保たれている。万が一にもティグリス王子が勝利を、そして王位を手にすれば、シャスティエは孕まされたという胎児ともども殺されるだろう。そのような事態は、決して許してはならないのだ。

 予想通りにイシュテン王が迂回路を採るようならば、ティグリス王子の注意がそちらに向いた隙に、逆側から襲いかかろうと考えていたのだが――


 ――どうする……どうすればイシュテン王を勝たせられる!?


 悩むことができる時間は、少ない。イシュテンの騎馬の速さは、歴史も、ミリアールトで実際に見た経験も教えている。手をこまねいていては、先ほどの緒戦と同じようにイシュテン王が泥に沈むのを傍観することになってしまう。傍らのブレンクラーレ人の視線も刺さるようで、レフに決断を急がせている。


「これが通常の野戦ならば、五分の戦いになるのでしょうが……」


 愚痴めいた言葉は、今この場においては何一つ利になるものでなく、レフは無言のうちに苛立った。だが、同時に脳裏で閃くものがある。


 ――イシュテン王は武勇に秀でているとか。とにかく、ティグリス王子と対峙できるようにしてやれば良い……!


「――決めた!」

「どのように動きますか!?」


 思い切るように叫ぶと、ブレンクラーレ人が声を弾ませた。ようやく指針を与えられて輝いた顔に、レフも明るく笑いかけてやる。そう、決めてしまえば簡単なこと。要はイシュテン王の軍を、なるべく無傷で敵のもとまで届けてやれば良いのだ。


「イシュテン王の軍を先導してやる。罠の配置は僕が誰よりよく知っているからな。馬の脚を取られることなく進める道を、我らが示してやれば良い」


 彼らの扮装に所属を窺わせるものはない。突撃する騎馬が周囲に注意を払っているはずもなし、同じ方向を目指す一団は友軍として認識されるだろう。


「ほう……」


 さすがに相手も本来は訓練された騎士だ。それだけでレフの言わんとすることを察したらしい。納得の証に頷くと同時に、目には覚悟の色が宿って表情も引き締まる。


「罠を避けるとはいえ、足場の悪い中を進むのです。十分、注意せねばなりませんな。」

「ああ。イシュテンの戦馬の神にあやかりたいものだ」


 敵の神に加護を願うのは、少々趣味の悪い冗談だっただろうか。だが、相手はわずかだが笑ってくれた。


「急ごう。イシュテン王の先回りをせねば」

「は」


 乗騎と、その他の兵を待たせている場所を目指して、彼らは丘を駆け下りた。待機している者たちも正式な訓練を受けた強者だ。多くを語らずともやるべきことを呑み込んでくれるだろうが――何しろイシュテンの戦馬の群れ。先導を務めるなら全力で馬を駆けさせなければ間に合わない。


 息を切らせて兵たちに指示を伝え、自らの馬に跨りながら。レフの心は戦いの前の高揚とはほど遠い。むしろ、我ながら驚くほどに冷たく、故郷のミリアールトの冬のごとくに冷め切っていた。

 イシュテン王に安全な進路を教える、という。無茶かつ突飛な案は、イシュテンの軍勢を損なわせるという建前のためだけではない。ティグリス王子を討たせるのが最大の目的なのは当然だが、誰も気付いていない――気付きようのない意図も秘められている。


「僕の後に真っ直ぐに続け! 少しでも逸れれば命の保証はできない!」


 摂政陛下から借りたブレンクラーレの兵たちを、案じる振りで声を張り上げながら、心に思うのは全く逆のことだった。


 ――この者たちも、なるべく多く死んでもらった方が都合が良い……。


 ティグリス王子を亡き者にすることができたとしても、レフの計画はまだまだ途上に過ぎないのだ。ティゼンハロム侯に取引を持ちかけて従姉を、ミリアールトの女王を奪還する。その交渉に臨むには、摂政陛下の助力が欠かせないだろう。ならば、彼の背信行為を知る者は少ないに越したことはない。


 罠の場所を知っているとはいえ、共に駆けるブレンクラーレ兵も、幾らかは脱落するだろう。さらに沼地を越えた先に待つティグリス王子の軍には、王の軍と彼らの区別がつかない。


「王の軍に道を示した後は、すぐに戦場から離脱せよ! 殺し合いはイシュテン人同士に任せておけば良い!」


 ――そう簡単に行くはずがない……。


 兜の面を下ろした影で、レフは嗤う。ティグリス王子は、イシュテン王の軍を連れて来た彼らのことを敵と認識するだろう。更に後背からは、王の軍が迫る。敵を前に猛り、挑発と罠に怒り狂った戦馬の群れが。その両者に挟まれて、離脱するのは至難の技だ。今はティグリス王子の傍にいるであろう間者の長たちも、この裏切りのためにきっと死を賜るだろう。



 イシュテン王の先陣を罠に嵌めた時よりもなお、彼がしようとしていることは質が悪い。例の罠は、そもそもはティグリス王子の策だった。しかし、これからすぐにも、レフ自身の選択によって数多の人命が失われるのだ。その罪深さをよくよく招致した上で、レフの心は凪いでいた。


 これも全て、彼女のために必要なことだから。


 無論、彼とても無事に生き延びられる保証はどこにもないが――


 ――雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)よ、どうかご加護を……!


 祖国の女神は必ずこの行いを嘉したもうだろう、と。彼は神託のような確かさで信じていた。


 ミリアールトを踏み躙ったイシュテンに、痛手を与えるためのこと。女神の写し身と称えられる女王を救うためのこと。ブレンクラーレの兵たちもそのために死ぬのだ。氷の宮殿に住まう女神に喜んで迎えられるに違いない。


「シャスティエ……もう少し、耐えてくれ……」


 もう少しだ。ティグリス王子が葬られれば、イシュテン王は義父ティゼンハロム侯爵と雌雄を決する。王妃と王女――娘と孫を擁する侯爵も、若い(婿)にやすやすと権力を渡すまい。ティグリス王子など前座に過ぎない、本当にイシュテンを二つに分ける争いが起きるのだ。その時、ブレンクラーレの力添えはティゼンハロム侯爵にも魅力的に映るだろう。


 ――ブレンクラーレの支援と引き換えに、シャスティエの身柄を引き渡させる……彼女を、救う!


 美しい彼女は、名前通りに幸せ(シャスティエ)が似合う。

 憎い仇に捧げられる境遇からも、それを企んだ佞臣(グニェーフ伯)からも。彼女を蝕み脅かす胎の子からも。助け出してあげなくては。そう。彼が、救うのだ。


 決意を胸に、レフは馬腹を蹴って戦場へと向かった。

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