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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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イシュテンの未来 ファルカス

 臣下の前ではあってはならないことだが、ファルカスは跪くカーロイを前に一瞬絶句した。しかも彼は今前線にいる。敵との決戦を控えた時に、自失するなどあってはならないはずなのに。しかし、もたらされた報せもまた、あってはならないことだったのだ。


「申し訳ございません! 私の言葉では届かず……陛下に一刻も早くお伝えすることしか――」


 ティグリスの陣を睨んで設けられた王の天幕、その内部にはファルカスについた主だった諸侯が顔を揃えている。シャルバールの野が一夜にして沼地に変じたのは、いち早く彼のもとにも報じられ、更に噂となって風のように陣内を駆けていた。ことの次第の説明を求めるべく、斥候の報告を直接聞けるであろうここに人が集まり、あえて声を掛けずとも軍議のような場を作り出している。


 当初は原因が分からなかったものの、異母弟の仕業であることは間違いなく、しかも目的なく為されたことではあり得なかった。

 そこで改めて四方に斥候を送り、判明したのはティグリスがキレンツ河の堤を切らせたらしいということ。流れ出る水をこの地に導いて草原を水没させたらしいということ。


 これが伝えられた時に、天幕は臣下の怒りの声で揺らいだ。シャルバールの野はイシュテンにとって特別な意味を持つ地。戦馬の軍が敵を踏み躙った誇り高い勝利の記憶の地。それを泥で汚すとは許しがたい、という訳だ。

 手近にいる者たちを宥めつつ、ファルカスが何よりも臣下の暴走を抑えることを優先していた。ティグリスも自身の行いがどう見られるかはよく承知しているはずなのだから。ならばこれも挑発の一環と捉えるべきだと考えたのだ。

 今回先陣を命じた者は、そもそも度重なる奇襲にひどく苛立っていた。それを収めさせるためにこそ、最初に戦えるように計らっていた経緯もある。罠を覚悟で飛び出すことも、大いにありそうなことだった。


 ――ある意味予想通りというか……しかし何と傲慢な……!


 だからカーロイを差し向けたのだが――件の男は少年にも、王の言伝にも耳を貸さなかったという。それどころか堂々と彼の命に背き、独断で兵を動かそうとしたのだと、少年は青い顔で訴えた。


「勝てば良い、だと……!」


 自失の後に訪れたのは、激しい怒りだった。ぎし、と軋らせた歯の間から、唸る。


「そのような道理が通るはずがない! 王を軽んじた者を、どうして許すことなどできようか!? 俺の前に再び姿を見せれば反逆の咎で首を刎ねてやる!」


 ――これもイシュテンの倣いか……力さえ見せれば王命に背いても許されるとでも思っているのか!?


 あの男はファルカスに取り入ろうとしていた節があった。王に武勇を見せたいがために奇襲に応戦したくて堪らなかったのだろうし、だからこそ先陣を任せても良いと考えた。リカードの陣営に属さず、彼に与しようという者ならば、積極的に活躍の場を与えるべきだと、あの時は思ったのだ。


 しかしあの男もイシュテンの諸侯のひとりに過ぎなかった。王もその権威も、自身の益とすべく利用するためだけのもの。心からの忠誠も敬意も持ち合わせてはいないのだ。

 ファルカスの怒りの理由は、単に臣下が独断で動いたからというだけではない。彼が王として力不足であると――このような時にまで見せつけられて、屈辱に身を灼かれる思いだった。


「事情を説明したのですが、それも災いしてしまいました。小細工で怯むな、と――。若輩者ゆえに侮られたものと考えます。この責は如何様にも……」


 少年の声は震えていた。叱責を恐れるがゆえにではなく、恐らくは務めを果たせず恥じ入ったために。あるいは失態を償うために死を選んだ父のことを思い出したか。


「……お前が若いのはお前の咎ではない」


 それを見て、やっと多少なりとも冷静さを取り戻すことができる。彼が怒るべき相手も戦うべき相手もここにはいない。怒鳴り散らして時間を無為に費やせば、それこそ臣下の信を損ねるだろう。


 ――使者の人選を誤った、俺の咎か?


 自問した後に、ファルカスは内心で首を振った。カーロイの言葉は若さゆえに聞き入れられなかった。他の者を送っていたとしても、別の理由で軽んじられていたことだろう。アンドラーシやジュラならば門地の低さゆえに。そしてたとえ経験も家格も十分な者でも、派閥の対立を盾に信用ならぬと言いかねなかった。屁理屈を捏ねてでも無理を押し通す――そのような者が味方だと思うと、敵に対するもの以上の怒りと憎しみが湧き上がる。


「あの者にティグリスの首を渡してはならぬ。今すぐ打って出るぞ。王命を無視する愚か者ともども、敵を蹂躙せよ!」


 高く宣言すると、臣下の目の色も変わった。予想外の事態への戸惑いと闇雲な怒りから、戦いへの決意へと。怒号のような喚声が天幕を、踏み鳴らされる足が大地を揺らす。


 ――こうするしかないか……。


 王の言葉に応じて周囲から上がる(とき)の声を聞きながら。戦意に満ちた臣下の顔を見渡しながら、ファルカスの心中に広がるのは苦々しさだった。

 ティグリスの意図は依然知れない。こちらを挑発して理性を失わせるのは目的の一つなのだろうが、それだけのためにしては大掛かりすぎる。足場を悪くするにしても、敵も巻き込まれることになるから腑に落ちない。


 できることなら今少し調べた上で戦端を開きたかったが――それまで臣下を待たせることができるとは思えなかった。気が短いのは先陣を任せたあの男に限らない。敵の姿を視界に収めながら自重するなど、戦いを持って本分とするイシュテンの気質からも矜持からもあり得ない。たとえ王の命があったとしても。諸侯にとって王とは絶対に敬うべきものではなく、ほんの一段だけ彼らの上にいるというだけのものなのだから。


 ――これが俺の国か。


 戦馬の国とは良く言ったものだ。この国の気質はまさに猛り狂う荒馬そのもの。手綱を受け付けず、怒りのままに敵を踏み躙ることを求めるのだ。その騎手たることを目指して叶わなかった王がどれだけいるのだろう。滾る戦意の矛先を敵に向けさせようとして、気付けば自身が踏み砕かれていた者も多いはず。


 王位を得て十年。イシュテンの王に相応しい姿勢を見せ続けてきたつもりではある。数多の乱を降したし、ついには異国――ミリアールトも手中に収めて見せた。それでもなお、イシュテンという荒馬は彼に乗りこなされるのを良しとしない。


 勝利の積み重ねの上に、彼が真実の意味で王となる日が来るのか。

 今は、目の前の戦いに勝つことを考えるしかなかった。




 周辺の諸国にあまねく広まっているように、イシュテンの軍は(はや)い。戦うと決めたなら、将から従者にいたるまで瞬時に陣を畳んで移動に――つまり侵攻に備える。定まった国を持たず、略奪を生業としていた頃からの伝統と言える。


 武装に身を固め、愛馬に跨るファルカスの心は、恐怖とは無縁だ。命を落とす可能性を認識してはいても、それに剣も思考も鈍らされることはない。

 ただ、臣下たちとは違って、戦いの前の高揚も彼には遠い。戦いが近づくにつれて、これで良いのか、という疑念が色濃く彼を悩ませるのだ。


 ――ティグリスは何を企んでいる……!?


 答えが分からぬまま兵を動かすのが、これほど落ち着かないものだとは。彼が馬を駆けさせれば、軍は従いすぐにも戦闘に入る。恐らくはティグリスの思いのままに。しかし、敵を敢えて怒らせることに何の意味があるのか、戦場が平野ではブレンクラーレの伏兵をどう活かすというのか――


「陛下! 急ぎご報告したきことがございます!」

「許す。言え!」


 答えのない思考は、ひどく慌てたような伝令の声によって遮られた。内心の懊悩を見せずに即答するのも、王としての振る舞いのうちだ。何より泥と血に塗れたその者の姿からして、前線からもたらされた報せに違いなかった。彼の求める答えを、携えた者かもしれなかったのだ。報告を聞く間、出撃を留める時間稼ぎにもなるだろう。


 そして伝令が緒戦の惨状を語った後――


「――援軍を、どうか! まだ生きている者もいるはずでございます!」


 嘆願の声が、静寂の中を響き渡った。先ほどまで意気軒昂に騎乗して武器を携えていた者たちの、手が下がり顔色も青ざめている。騎馬を封じ、イシュテンの矜持を叩き折ったティグリスの罠は、それほどの効果を持っていたのだ。


 ――これがティグリスの狙い……剣ではなく心の戦いを挑んできたのか!


 ブレンクラーレとの密命を聞いた時から気に懸かってはいた。他国の力を借りてまで王位を得たとして、どのように維持するつもりなのか。これが、その答えなのだろう。イシュテンが誇る騎馬、その力を封じて見せて、弱ったところで手綱をつける――成否はともかく、誰も為そうとしたことでないのは確かだった。少なくとも、剣に誇りを見出す普通の男であれば思いつかないこと。ティグリスがある意味イシュテンの者でないからこその策なのだろう。


「罠が明らかになったのは先陣の我らの功績とも申せましょう!? それに免じて、どうか――」

「黙れ」


 そして、異母弟の策略の全貌と同時に現れるのは、()()の愚かさ。挑発の危険は最初から再三述べていたのだ。理由が功名心か侮りかはどうでも良いが、あの男は自身の命も麾下の命も無為に散らした。いずれも本来は彼のものだというのに。


「命に背いておいて援軍を強請るとは図々しい!」


 騎乗した高みから見下ろして断ずると、伝令は恐懼したように身を竦ませた。この者自身を咎めるつもりはないが――暴走した者への殺意は本物だ。抜き身の剣を突きつけられた思いがしたことだろう。

 反逆の咎で首を刎ねる、と。先に述べた思いに変わりはない。一軍を壊滅させた以上、本人にも他の者にも異論はあるまい。助けられてひと時の生き恥を晒し、直後に首を失うなど、まともな神経をしていれば耐えられることではないはずだ。


「先のミリアールト総督といい――俺の敵は俺の手間を省いてくれるようだな!」


 あの時も、彼が罰するべき者は彼以外の者の手によって死を与えられた。敵の方が味方よりも彼の意を汲むとは不可解なことだ。


 彼の怒声で我に返ったのか、顔色を失った諸侯たちが口々に訴え始める。


「ですが陛下――ティグリスめの罠は確かに厄介かと。どのように攻めるおつもりで?」

「迂回した進路を探すのは――」


 ――臆病者どもめ。怖気づいたか……!


 怒りというよりは呆れのために、ファルカスは口元を歪めた。王宮の広間であったような、王の資質を試しての問い掛けではない。この者たちは真実どうしたら良いか分からないのだ。


 イシュテンが強いというのも、戦馬の神の加護――騎馬の精強なるを信じればこそ。その信仰と自負が揺らいだ今、猛き戦馬の軍は狼に追われた羊のように戸惑い怯えているようだった。これこそを、ティグリスは狙っていたのだろうか。


 ――だが、俺にとっても利となろう。


 イシュテンという荒馬が弱気を見せた今こそ、御する好機にしなくては。ティグリスなどに手綱を渡してなるものか。彼こそが、イシュテン王なのだ。


「そのような経路があると思うのか。敵はわざわざこの地を選んで戦場にしたのだ。軍が通れる余地など残すまい。あるいは、そちらにも罠を仕掛けてあるか」


 罠、のひと言に臣下たちの表情が強ばった。駆けさせている馬の脚が突然折れるかも、無様に落馬して命を落とすかも、という想像は恐ろしい。こうして恐怖で剣先を鈍らせることができるあたり、この仕掛けは実際よくできている。


「これは、王たる俺に対してだけではない――イシュテンへの、戦馬の神への挑戦だ。このような愚弄と侮り、許してはならぬ」


 剣を抜き、掲げる。陽光を反射する白刃が、全軍によく見えるように。ティグリスの罠で怯んだ者たちを叱咤するように。


「臆したところを見せてはイシュテンの勇名は地に落ちよう。小賢しい罠に付け入る隙を与えたなどという汚名、後世に残して良いものか! ――正面から突破する!」

「な――」


 顔を一層引き攣らせた臣下を見渡して、ファルカスは笑った。王が弱気を見せるようでは、この戦い、始まる前から負けている。それに、ティグリスの狙いが見えた今、不安はもはや消え去った。イシュテンの誇りを汚し、この国の有り方を変えようという者を決して勝たせてはならないと――彼の裡には闘志が燃えていた。


 ――イシュテンは確かに変わらねばならぬ……しかし、ティグリスの思いのままに、ではない!


 彼は強い国の強い王たることを望むのだ。国の全てを掌握することを望むとはいえ、去勢されたように覇気を失ったイシュテンなど手に入れても意味がない。あくまでも堂々と、イシュテンの流儀で勝たなくてはならないのだ。


「敵も水場に入ったのだろう? 平原にくまなく溝を巡らせるなど不可能だ。ならば罠のないところを駆け抜けよ」

「無茶な……!」

「どのようにして見分けるのです!?」


 無理を百も承知の命令に悲鳴が上がる。やはりこの者たちは戦馬ではなく羊の群れだ。闇雲に怯えるばかりでことの重大さを全く理解していない。


 ――臆病者め……これでよく戦場へ出ようなどと思ったものだ。


 これは一方的に獲物を嬲る狩りではない。命と、更には国の行く末を賭けた殺し合いだ。できるかどうか、ではなくやらなければならないのだ。騎馬を封じられたままで負けたとあっては、この先イシュテンを恐れる者はいなくなる。

 叱咤しようと息を吸おうとした時――


「我らが道を拓きます」

「倒れようとも陛下の御為(おんため)ならば本望」


 彼よりも先に臆病者どもを黙らせたのは、アンドラーシやジュラ――彼が側近と(たの)む者たちだった。

 若々しい顔には、いずれも恐怖など微塵もなく、ただ確固とした覚悟だけがそこにある。


 ――やはり、この者たちとこそ……!


 彼らならば、ファルカスの思いも理解できる。共に戦える。


「私も! 今度こそ先陣を務めます。倒れるとしても敵とともに。そして屍をもって陛下の道を築いてみせます!」


 そこへ、ほぼ最年少のカーロイも唱和し、場の趨勢は定まった。イシュテンに生きる男ならば、目下が勇気を見せた横で引き下がったままなどあり得ないのだ。


「若輩どもにここまで言わせて否やはないな!?」


 狼の笑みで問えば、今度こそ異を唱える者はいなかった。




 予想外の中断を経て、イシュテン王の軍勢は平原を進む。死の罠が待つ戦場へ。王位と国の未来を賭けて。

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