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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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取り上げられた鋏 ウィルヘルミナ

「お母様! やらせてちょうだい! 大丈夫だから!」

「だめよマリカ、貴女では無理よ」


 得意顔で()(ばさみ)に手を伸ばそうとする娘を、ウィルヘルミナはそっと制した。布を裁つための鋏は大きく刃も鋭い。手元のおぼつかない子供に持たせては、小さな指を落としかねない。


「お手伝いしたいのに……」

「ではここを抑えていてね? 絶対に動かさないで。できる?」

「うん!」


 不満げに唇を尖らせたのも一瞬のこと、仕事を与えてやるとマリカは満面の笑みで頷いてしっかりと布を摘んだ。


 ウィルヘルミナはマリカの衣装を手ずから仕立てているところだった。もちろんお針子たちに任せた方が良いものができるのだけど、娘は母の手作りを喜んでくれるし――何より、夫が不在の間、気を紛らわせることが必要だったのだ。

 浮かない顔の母を気遣ってくれているのか、それとも生来の好奇心からか。何かと手を出したがる娘を宥めるのは中々の大事で、ウィルヘルミナが思った以上に余計なことを考えないで済んでいた。


「お母様 、次は? 何をすれば良いの?」

「そうね……」


 絹を裂く音と滑らかな手元の感触と共に生地が必要な形に切り取られると、すぐにマリカは次の役目を強請ってくる。子供の自尊心を満たしつつ、危険の少ないような作業を、となると難しい。


 ――刺繍の色を選んでもらうとか……意匠を絵に描いておいてもらうとか……?


 幾つか候補を思い浮かべた上で、結局彼女は心の中で首を振る。その程度の簡単なことでは、娘は満足しそうになかった。


「では、お母様がまち針で留めている間に、針に糸を通してちょうだい。目を突かないように、気を付けるのよ?」

「分かってるわ!」


 母の心を照らす眩い笑顔を見せてから、マリカは目を細めて細い糸と小さな針穴に立ち向かう。真剣な表情で針に目を近づける姿は、少々危うく、母に胸騒ぎを覚えさせる。しかし同時にこの上なく微笑ましい。多分、ウィルヘルミナ自身もこのような表情で母を手伝っていたのだ。


「マリカ様にはまだ早いですわ。そのようなことは私が――」

「イヤ! やるの!」

「いいのよ、エルジー。やらせてあげて」


 できることが増えていく喜びは彼女にも覚えがある。だから心配顔で手を出そうとするエルジェーベトを、ウィルヘルミナはそっと制した。マリカの気が散ってしまう前に、次の作業に進めるようにしておかなければならない。


 針と糸を握り締め、不安げにエルジェーベトを睨め上げていたマリカは、母の言葉に安心したように頬を緩めて与えられた()()にまた夢中になった。

 その他愛ない幼さを愛おしく思いながら――でも、ウィルヘルミナは無邪気に微笑むことができない。仕事を取り上げられかけた時の、娘の不安や怒り、屈辱に満ちた目。彼女は娘のように激しく感情を波立たせることはできないけれど、自分でも名付けることができない思いを露にしたなら、彼女もあんな顔をしてしまうかもしれないのだ。


 小さな娘のための小さな布地をまち針で留めながら、ウィルヘルミナは夫と最後に過ごした時のことを思い出していた。




『無事に戻るから心配するな。留守中は舅殿が守ってくれる』

『はい……』


 夫は遠征の前はいつもするように、優しくウィルヘルミナを抱き寄せてくれた。その温もりも、耳元をくすぐる吐息も。彼女の不安や寂しさを消し去るには足りないのもいつものこと。


『冬になる前には帰るだろう。寒い中独り寝などさせないから』

『ええ』


 夫を抱きしめて名残を惜しみながら、ウィルヘルミナは密かに決意していた。怖いのも寂しいのも、決して心から拭い去ることなどできないが、ひとり待つだけではいられない、と。夫に進言したというシャスティエのように、妻として夫の役に立ちたいと考えたのだ。


 ――ファルカス様は、シャスティエ様とお話しろと……安心させて差し上げるように言っていたわ。


 初めてのことだから助けてやれと言われたのを、ウィルヘルミナは忘れていなかった。初めてというなら、夫が遠征で不在なのもシャスティエにとっては初めてのはず。ならば、今度こそ彼女があの美しく聡明な少女にしてあげられることもあるはずだった。


『シャスティエ様は、ファルカス様のお戻りを待つのは初めてですもの。私、あの方を励ましますわ。きっと心細く思われるでしょうから』

『ああ、あの者を置いて行くのは初めてだったか……』


 よく覚えていたな、と。夫の声には褒める響きがあったので、ウィルヘルミナは――それこそマリカのように――得意になった。今回はただ待つだけではない、父に守られるだけではなくて、夫の妻としての役目を果たすのだと思うと、誇らしい思いさえしていた。またしばらく会えていないシャスティエと親しく過ごすことができるのも、嬉しいことだった。


『だが、その必要はない』

『え……?』


 しかし、その高揚も瞬時に冷めさせられ、打ち砕かれた。


『あの者はお前と違って気丈だから、寂しがることなどないだろう。それに、あれにはイルレシュ伯をつけておく。お前が心配せずとも良い』


 呆然と見上げる視線には全く気付いていないように、夫の声も、髪を梳く手指もあくまで優しい。夫の出陣よりも、妻の思いを踏みにじる仕打ちが悲しくて――そして、そう思ってしまう自分に驚いて。ウィルヘルミナは何を言えば良いか分からなくなってしまった。


『では……それでは私は……』

『今まで通り、何もする必要はない。そう……マリカの世話だけは頼まなければならないが』

『それだけ、ですか……』

『大事なことだろう』

『それは、そうですけれど』


 娘の、マリカの養育をつまらない些事だと思ったことなどなかった。娘は夫と同じかそれ以上に大切な存在、まだまだか弱く守らなければならない存在だ。それを疑ったことも煩わしく思ったことも、ない。だが、それだけしていれば良いと決めつけられるのはまた話が別だ。


『でも、以前シャスティエ様を助けるようにと仰ったではありませんか。私にもあの方のためにできることがあると……楽しみにしておりましたのに……』


 夫に口答えしてしまったのも、笑顔で見送らなければいけないはずなのに恨みがましい口調になってしまったのも、ウィルヘルミナの心にもないことだった。だから彼女は自分の湿っぽい声に驚き戸惑った。


『そんなにあの者に会いたいのか』


 夫も、妻の珍しい様子に困ったような笑みを浮かべた。翌日には戦いに赴く人に、そのような顔をさせてしまってウィルヘルミナの胸は痛んだ。でも、夫はやはり彼女の思いを分かってはいない。


『お会したいです。また全然お会いできていないですもの。でも、それだけではなくて……』


 考えをまとめようと、ウィルヘルミナは夫の胸に手をついて愛しい温もりから離れようとした。夫と触れ合ったままだと、それに満足して何も言えなくなってしまうそうだったのだ。


『シャスティエ様に比べると、私は何もできていなくて……だから、シャスティエ様を慰めて差し上げることができれば、ファルカス様にもご安心いただけるかと思ったのに』

『お前はそのままで良い。余計なことは考えるな』

『余計なこと。余計なことなのですか……』


 ――私には、何もできないと仰る……? シャスティエ様とは違うの……?


 妻の目が涙で潤んだのに気付いたのか、夫は慌てた様子で彼女を抱き寄せた。うやむやにされたくはない、とウィルヘルミナは抵抗したので一瞬もみ合いのようになるが、腕力では適わない。ウィルヘルミナは、あっさりと夫の腕の中に収まってしまった。


『気を遣ってくれるのは感謝する。だがお前に何ができる訳でもないだろう』


 それでも、宥めるような夫の口づけさえ、ウィルヘルミナは首を振って逃れた。夫の言うことはいつも正しい。この時も、ごく冷静に事実を指摘しただけだった。彼女は何も知らないから、シャスティエと会ったとしても安心させられるようなことを言える訳ではない。ただ大丈夫だと繰り返すだけ、そうして心を安らげたいのは彼女の方なのかもしれない。

 でも――


『私はファルカス様の妻ではないのですか。シャスティエ様はお役に立っているというのに、私ばかり……!』

『お前は俺の妻だ。不満などないから心配するな……』


 夫の囁きも、ウィルヘルミナには虚しく響いた。妻というなら今やシャスティエも夫の妻なのだ。彼女よりも若く美しく知性に溢れた姫君を前に、彼女は何も持っていない。

 ウィルヘルミナはまた夫の腕を振りほどきながら、訴えた。


『でも、シャスティエ様は――』

『あれとお前は別の女だ。求めるものも違うというだけ』

『ならば私の役目は何なのですか……!?』


 笑っていれば良いと言われてきた。可愛いらしいと、素直だと褒めそやされて甘やかされてきた。ずっと、それで良いのだと信じてきた。しかし、最近になってウィルヘルミナの世界は揺らいでばかりだ。

 嫌ってはいない人に憎まれ命を狙われたこと。何の罪もないシャスティエまでも、国の争いに巻き込まれて戦いの場に引き出されたこと。夫が側妃を迎えたことも、その結果態度を変えてしまった周囲もシャスティエも。ティグリスの反乱だって、ウィルヘルミナにとってはおっとりとした王子の印象しかない彼がなぜ、としか思えない。


 ――今のままではいけないのではないのですか……!?


 彼女が聞かされている他にも、世界は広がっているのではないか。何か悪いことが起きていて、彼女は教えられていないのではないか。そのような疑いは強まるばかりだ。父や乳姉妹(エルジェーベト)は教えてくれなくても、夫ならば彼女の望みをわかってくれるのではないだろうか。


『…………』


 ウィルヘルミナが見つめる先で、夫の視線が揺れたような気がした。夫が迷ったような表情を見せる――これもまた、非常に珍しいことだった。

 常に泰然としているように見える夫の、そんな顔も彼女を失望させることはなかった。むしろ、彼女の不安は正しいのではないかと思わせて――だから、ウィルヘルミナは夫を信じてその言葉を待ったのだ。


『知らないままでは、嫌なのか。辛いことならば聞かない方が良いのではないか?』


 かなり長い間夫は沈黙したように思えた。そして問うてきた表情は怖いほどに真剣なもので、ウィルヘルミナは思わず頷きそうになった。何も知らないまま、夫に甘えていれば良い日々は――疑問さえ抱かなければ――楽なのだった。


『いえ……それでも、聞かせてください。夫婦ですもの。』


 知りたい思いと、知ることへの恐怖。その間でしばらく逡巡してから、やっとウィルヘルミナは頷いた。彼女の世界にはもう亀裂が入ってしまった。それに目を背けることはできるけれど、彼女自身やマリカにまでも(ひび)が届くのではないかと怯えながら過ごすのは、できそうにない。


『ファルカス様の妻として――私は何をすれば良いのですか。どうして何も任せてくださらないのですか』

『そうだな……』


 夫は数秒の間、考え込んだようだった。答えを待つ間にも、ウィルヘルミナの心臓は壊れてしまうのではないかと思うほど高く脈打っていた。頬に感じる熱といい、夫を恋しく思うがために感じるのではないのが不思議だった。夫への愛が全てではないこと、夫を疑ってしまっていること、いずれもが後ろめたくて。視線を合わせるのには気力を振り絞らなければならなかった。


『では、無事に帰ったら教える』

『今ではないのですか……』


 夫がやっと告げてくれたことは、彼女を満足させてはくれなかった。答えを先延ばしにするのは誤魔化しにしか思えなかった。夫は一度シャスティエを頼むと言ったのに、その言葉を翻して会うななどと命じたのだから。帰ったらまた別の命を申し渡されるのではないかと、疑いを拭うことができなかった。


『そんな目をするな』


 口に出さずとも、彼女の目は存分に胸中を語っていたのだろう。夫は苦笑してウィルヘルミナを抱き寄せた。今度こそ有無を言わせぬ力強さで、夫の心臓の鼓動を肌に感じるのではないかというほどに、近く。


『言い逃れようというのではない。帰らぬことがあれば言っても無駄になるからというだけだ』

『そのような。帰らないなんて……』

『怖がらせるから言いたくはなかった。だがどうしても聞きたいのだろう?』

『…………』


 改めて問われると、ウィルヘルミナの舌は固まってしまった。怖いというのは確かに当たっていたから。怖いことは嫌なこと。嫌なことは避けたいこと。全てを知りたいという思いと、怖いこと嫌なことを避けたい思い。どちらを取るべきか、天秤の目を測りかねたのだ。


『お前は俺の妻だ。だから信じる。何を聞いても何を知っても、変わらないな……?』


 夫がそう囁いた時にも、ウィルヘルミナはまだはっきりと答えを返すことはできなかった。




 そうして、どこかぎこちない夜を過ごした後に夫は旅立っていった。血腥く恐ろしい戦いへと。ウィルヘルミナはまた待つばかりだ。


 ――早く。どうかご無事で帰っていらして――。


 無心になろうと努めて針を動かしながら、ウィルヘルミナは切に祈る。祈るのはこの十年何度もあったことだが、今回は夫の無事を願うからだけではない。夫は約束したこと――妻の役目を教えるということ――を守ってくれると、一刻も早く確かめたいのだ。


「お母様。お手伝いできること、なあい?」

「もう少し待ってね。もう少しで難しいところは終わるから」


 マリカのドレス作りは順調に進んでいる。細かな刺繍を施すのには何日も掛かるが、取りあえず――仮縫い、仮留めの状態ではあっても――衣装の形にはなってきた。それに自分も手を貸したということが、娘にはこの上ない誉れに思えているらしい。


 ――だから、取り上げてはいけないのね。


 彼女は娘に自身の姿を重ねて、微かに笑う。

 父や夫やエルジェーベトにとって、彼女はマリカと変わらない幼子のようなものだったのだろう。それも、針も鋏も遠ざけられて、何も教えられず躾けられることさえなかった子供だ。


「お父様に見せるの。お手伝いしたのよ、って」

「ええ、楽しみね。それまでに仕上げてしまわないと」


 子供の手では針で生地を貫くにも力が足りないから、ウィルヘルミナが手を添えなければならなかった。それも、真っ直ぐ縫うだけのところを、ほんの数針だけ。それだけの貢献しかしていないのに、マリカはとても嬉しそうにその部分をしきりに撫でている。


 針先で指を突いてしまって、紅玉のような血の珠を滲ませたこともあったけれど――エルジェーベトは顔色を変えて大げさに手当をしようとしたけれど――でも、自分でやることの嬉しさは、痛みなどとは比べ物にならないのだ。


 ――もっと早くに教わっていたかった……。


 少女が針や鋏の扱いを教わるように、ウィルヘルミナも夫の妻、王妃としての役目をもっと早く知るべきだったのではないかと思う。良い歳をして裁縫を知らない女がいたら、鋏など持たせられないと思われても仕方ない。

 父やエルジェーベトは、彼女を刃物から遠ざけようとしてくれているのだろう。


 でも、夫は違うはずだ。とても遅くなってしまったけれど、ウィルヘルミナに鋏を持たせてくれようとしている。この歳になってから上手く扱えるようになるかは分からないけれど、でも、夫が信じてくれるならやってみようと――頑張ってみようと思う。


 ――そうすれば、シャスティエ様とも物怖じしないでお話できるかも。


 夫と娘と、そしてシャスティエと。愛しい人たちと和やかに過ごす時を夢見て、ウィルヘルミナは微笑んだ。

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