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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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復讐の美酒 ティグリス

「くくっ、ははは、あははははははっ」


 ティグリスは喉を反らして笑った。とめどなく溢れる笑いに息が詰まり、目には涙が浮かぶ。それでも止まらないほど、眼前に広がる光景が愉快でならなかった。


 どうして笑わずにいられるだろう。


 兄の臣下は彼が思い描いた通りに動いてくれた。挑発で苛立ちを抑えかねていると聞いてはいたが、ティグリスが姿を見せただけで何の疑問もなく突撃してきたのだ。呆れるほどの無策、愚直さはいっそ微笑ましく思えるほどだ。


「ティグリス――ティグリス!」


 だから、彼は自分の名前が呼ばれているのにもしばらく気付かなかったし、気付いてからも無視して笑い続けた。


「何がおかしいっ!?」


 笑うのを止めたのは、叔父が苛立ったように彼の肩を掴んで揺さぶってからだった。普通の男と違って、ティグリスは馬に横に座っているから、不意に触れられると姿勢を崩してしまうのだ。


「――何が、と言われてましても」


 馬上で体勢を立て直し、ようやく叔父の方へ顔を向けてやると、思っていたのと少々違った表情をしていた。話を聞かない甥に苛立っていたのかと思っていたが、それだけではなく――どこか怯えた色を帯びているようにも見えるのが不思議で首を傾げる。


「策が思い通りに嵌ったのですよ? 喜んで――笑っても当然ではないですか」

「人目がある! 卑怯な手で勝つのを誇るな!」


 言われて初めて、ティグリスは周囲を見渡した。気付けば、騎乗した身分ある者も、歩兵も従者も。戦果を見届けさせるために、兵の扮装で控えさせていたブレンクラーレの間者たちでさえ。叔父と同じ目つきで彼を凝視していた。とりわけ、弓を手にした射手たちが完全に硬直しているのを見てティグリスは顔を顰める。


「何をしている。手を止めるな」


 示した先、彼の命によってブレンクラーレの兵が作り出した沼地では、今も兄の臣下がもがいている。最初の斉射でかなり数を減らしたが、それでも全てが息絶えた訳ではないようで、泥の人形のような姿で蠢く者がいるのが見える。声までは届かないが、剣を抜いて戦意を見せる者さえいた。更には、盾を掲げて彼らを助けようと水の中へ進もうとしている一軍もあるようだった。


「敵が来ているではないか。全て射殺せ」

「で――陛下!」


 殿下、と呼びかけそうになったところで称号を改めたのは、ハルミンツ侯爵家に連なる家の者だった。侯爵家への忠誠心があるのはもちろんのこと、ティグリスにも同情的で、今回の乱ではいち早く参じてくれたと記憶している。

 何か、と目で問えば、地に膝をついて必死の形相で訴えてくる。


「我らにも打って出るお許しをいただきたく! 敵の気勢は十分に削げました、弓矢で獣のように射殺すなど――」

「ならぬ。矢を使えばこちらは無傷で済むのに、どうして無駄な犠牲を払わなければならないのだ?」

「ですが……っ」


 奏上した者が言いたいことはよくよく承知した上で、ティグリスは敢えて撥ねつけた。


 ――剣を握って死にたい……死なせてやりたいなどと、愚かな……!


 彼が挙兵した最大の目的は兄への挑戦だが、もうひとつ譲れないものがあった。


 復讐だ。


 何に対しての、と言葉にするのは難しいが。ひと言に纏めるならばイシュテンに対して、ということになるだろうか。

 武を尊び不具の彼を見下す気風。他国からは恐れられつつ野蛮と蔑まれている。実際、僅かでも知識を得ればこの国の法も外交も全くお粗末なものだ。文官を軽んじ、王の一存は国法ばかりか、時には国同士の同盟や契約を覆す。だからこそ周囲の諸国から信用されないのだが――それも強い王がいる時代はまだマシで、多くの場合、諸侯は王に従わず権力を巡って国内で争い続ける。

 母は息子のためと称して彼の脚を砕き折ったのも、後継者同士で血を流す倣いのため――つまりは、全てイシュテンの遅れた有り様のため。この国の野蛮さが彼の人生を歪め狂わせたのだ。


「ですが、論功にも差し支えましょう! 誰が誰を討ち取ったのか、これでは明らかにできないではありませんか!」

「ならば首を取って来た者の手柄としようか。泥の中を這いずり回って死体の顔を検めよ。その手間に見合った報奨をくれてやる」

「そのような――」


 相手が絶句したのを見て、ティグリスはまた声を立てて笑った。彼の復讐の相手は敵軍にとどまらない。嘲笑や憐憫を浴びせられた時間が長い分、ハルミンツ侯爵家に連なる者たちも彼の憎悪と――嫉妬の対象なのだ。この男自身は幾らかマシな態度だっただが、二本の脚でしっかりと歩き、まともに馬に乗って戦うことができるというだけで、心胆寒からしめてやれと思ってしまう。


 そう、イシュテンの勇名を汚すことこそが彼の復讐だ。戦馬の神の騎手を自認し、地上には遮るものはいないなどと奢り高ぶっている者たちに、その弱さを見せつけてやったのだ。

 イシュテンは強いが弱い。個々の武勇も、死を恐れぬ胆力も。敵を踏み砕く戦馬の群れも。発揮できる場は実は非常に限られている。今までイシュテンの強さを誰もが信じていられたのは、騎馬で駆けることのできる地しか侵さず、内乱でもバカ正直に堂々としたぶつかり合いを守っていたからこそのものだ。


 ――やはりイシュテンの者は愚かだ……! 力を盲信して罠に嵌り、無様に泥に塗れるとは!


 ティグリスの笑いは止まらない。騎馬で駆けることができる者は、即ち彼を嘲ってきた者たちだ。己の力を(たの)み、何者も恐れないなどと嘯いていた者たちだ。その者たちの自信と矜持が砕け散るのを、彼はずっと見たかったのだ。

 彼らは、死とは剣や槍の一閃でもたらされる潔いものだと信じていただろう。仮に、膿んだ傷を抱えて病床で逝くのだとしても、戦いの名誉と高揚が死の苦痛を和らげるのだろう。だが、そんな美しい死は与えてやらない。ティグリスが十年嘗めた屈辱の、欠片なりと味わって絶望して逝けば良い。


 ――でなければ不具になれば良い。私のように、蔑まれる身になれば良い……!


 彼の手は無意識に杖を(いら)っていた。馬上にあって、脚にも杖にも頼る必要がないというのに、どういう訳か手放せない。呪いのように、彼はこの杖と共にあることを強いられている。誰もこの呪いは理解できまい。


 ああそうか、と。ティグリスは笑みの種類をわずかに変える。衝動のままに哄笑するのから、納得の微笑みへと。彼は、彼ただひとりが蔑まれる存在だというのが我慢ならなかったのだ。たまたま王子に生まれて狂った母を持ったというだけ、知能も体力も人並み以上のはずだったのに、兄に仕え――あるいは、自身の力で王位を目指す道もあったはずなのに、と。ずっとどこかで考えていたのだ。


 泥の中でもがく者どもを、全て殺す必要はない。むしろ幾らかは生き残れば良い。落馬したところを獣のように射たれた傷を生涯抱えて、嘲笑を浴びながら生きれば良い。


 ひとしきり笑ってから、ティグリスは再度命じた。周囲の者たちの怯えの理由は理解した。イシュテンの弱さを見せつけられたのは、誰にとっても足元の大地が揺らぐことなのだ。だが、まだ戦いは始まったばかり、手を休めさせるわけにはいかない。


()て。敵の数を減らし、戦意を挫くのだ」

「は……はいっ」


 さほど声を張り上げた訳でもないのに、射手たちがやけに素早く矢をつがえたのが面白かった。従わなければ、彼らにも何か奇禍が襲うとでも思ったのだろうか。信じていたものが揺らいだ時、人はこうも脆くなるのか。


「弓でカタをつけるのでは、我らは何のためにいるのです」

「弓だけ、という訳にはさすがに行くまい」


 愚痴のように皮肉のように呟かれたので、ティグリスは苦笑しつつ宥めた。召集しておいて出番がないのでは、こちらについた諸侯は収まるまい。その程度は弁えている。まずは手出しをするなと命じておいたが、彼の策の効果を見た後なら、侮っていた味方もよく命を聞いてくれるだろう。


 彼らの視線の先では、二度目の斉射によってもがいている者は一層減り、救援に向かおうとしていた者たちも幾らかは倒れていた。盾の陰で矢を凌いだ一部は、悔しげに同胞の亡骸を見捨てて後退していく。


 ここまで全て、ティグリスの予想通りだ。罠があるのを知って死地に踏み込むほど、敵も愚かではないということだ。だが、卑怯な奸計に嵌められた――彼に言わせれば考えなしに突き進むのが愚かなのだが――怒りは確実に煮え滾っているはず。奇襲による挑発が先ほど実を結んだように、少しの刺激でまた見事に踊ってくれだろう。


「膠着しても益はないからな。……あちらの頭が冷えた頃にこちらから攻める――と、見せかける。罠を仕掛けていない部分を教えるから、全軍に徹底して周知せよ。穴は一部だけ、と思わせることができればもう少し楽に戦える」

「…………」


 相手の、ついでに傍にいた叔父の顔に浮かんだのは、紛れもない嫌悪の色だった。そこまでするのか、と如実に語っている。負ければ待つのは死だけ、とよく知っているだろうに甘いことだ。


 ――ただ武に長けた者が王に、などとくだらない。知力も含めての強さだろうに。


「どうした? 望み通りに戦わせてやろうというのだ。喜んで行け。お前たちも泥に塗れて来い。兄上を私の前まで引き寄せよ」


 長らく彼の言葉は誰にも顧みられなかった。しかし、今こそ威厳か――畏怖を得ることができたらしい。嫌悪も、あったかもしれないが。それでも、嘲りを込めての命令に、周囲の者たちは黙然として従ったのだ。




 先ほどは囮として陣頭に立ったものの、さすがにティグリスの脚ではまともに戦うことは難しい。よって彼は味方の軍が沼地に入っていくのを後方から眺めることになった。とはいえこれも前線のうち、将としての義務は果たしているだろう。


 彼が命じたことは、一種の舞踏のようなものだ。即ち、女が脚を見せて誘うように敵を挑発しおびき寄せる。そして食いついたところで退く。欲に負けて勢いづいた相手は、罠の穴に嵌って馬の脚を折り、あるいは均衡を崩して落馬する。そこをまた矢で狙う。

 濁った水の下に潜む罠は馬上からは見えにくい。だから味方も幾らかは倒れて同胞の蹄に踏みにじられる。


 瞬く間に、平原には悲鳴と怒号と血臭が満ちた。


 騎馬の動きが舞踏ならば、人馬の悲鳴は耳に心地良い音楽だった。剣戟や矢が風を切る音は楽器の音色といったところか。健常な者たちが倒れ死んでいく音を聞いて、ティグリスは歌いたいような気分を味わえる。


 ――やはり戦いとは楽しいものなのだな。


 不具の彼を哀れんでか、実際の戦いのことを語ってくれた年長の者たちもいた。そういった者たちは口を揃えて戦いなど苦しいだけだと、傷の痛みや鎧の重さ。長い行軍の疲れや乾きの辛さ、友が逝く悲しみを教えたのだ。恐らく彼が妙な憧れを覚えないようにという母の思惑もあったのだろうが。だが幼くてもティグリスには見えていた。彼らの目に宿る熱っぽさ、死地をくぐり抜けたことへの高い自負が。

 一族の者たちは彼に嘘を教えて楽しみから遠ざけていたのだ。その欺瞞を暴けたのも、嬉しい発見だった。


 と、例によって叔父の上ずった声がティグリスの上機嫌に水を差した。


「これほどの効果があるとは……」

「何度も説明したではないですか。信じていないのに賛同してくださったと?」

「いや、しかし……」


 とはいえ思い通りにことが運んで、余裕が出ているのだろうか。叔父の小心も、今のティグリスにはどこか可愛いものだとさえ見えた。所詮この人もイシュテンの常識に囚われた人なのだ。戦馬の神を汚すような企みに加担したのだと、この場面を目にして改めて心に病むものがあってもおかしくはない。


「ご安心ください。叔父上方は従っただけ。戦馬の神が罰するとしたら私だけでしょう」

「神罰など……蒙昧な……」

「そうですか。それでは世の評判でも気にかけていらっしゃいますか? 後世のことならば歴史に残さなければ良いのです。そのためにもこの戦い、必ず勝たなくては。

 ――行け。この場面を見た者を根絶やしにせよ!」


 最後の言葉は、戦いに出向く者たちの背中に掛けた。おお、と応える声が響いて地を揺らし、ティグリスの頬を痺れさせた。その大声は、意気軒昂というよりも自棄なのだろう。彼の言葉がどこまで聞こえたかは知らないが、誰もが悟ったのだ。

 ここまでイシュテンの矜持を踏みにじる策を採った彼らを、敵は決して許すまい。敗れた後に降伏したところで受け入れられはずもなく、待つのは無惨な虐殺のみ。しかもその悪名は未来永劫歴史に刻まれることだろう。


 ――それが嫌ならば戦え……私の卑劣な策でお前たちも堕ちるのだ。


 戦馬の神の民を自称するイシュテンの誇りを地に引きずり降ろしてやった。敵も味方も巻き込んで、魂の奥底に消えない傷を刻んでやった。兵たちの引きつった顔を見ることができただけでも彼の溜飲は大いに下がっている。しかしこれはまだ手始めに過ぎない。


 彼が一番見たいのは、兄がどう反応しているか、なのだ。


 きっと怒り狂っているだろう。あの人の気性からして、ティグリスの策は受け入れがたいはず。だが、後先考えずに突撃した愚か者のように、軽率な行動はしないだろう。いや、しない、と信じたかった。あの人ならばきっと彼の予想も企みも覆してくれるのではないだろうか。悪意の罠が潜む泥濘(ぬかるみ)を越えて、彼と対峙してくれたなら――一体どんな顔を見せてくれるだろうか。


「さあ、どうお相手してくださいますか、兄上……」


 (おびただ)しい量の血によって濁った色を増した沼地の向こう。人馬が行き交い混乱した様相を呈する敵陣の中。兄の姿を求めてティグリスは目を細めた。

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