牽制 エルジェーベト
ぱし、と。
侍女の頬を張ると高い音が響いた。同時にエルジェーベトの掌がじんじんと熱を帯びる。だが、自身の掌にも痛みを感じるほどに強く打ち据えても、エルジェーベトの怒りは全く収まらなかった。
「マリカ様のお守りがお前の役目だったはずです。恥を知りなさい!」
決してミーナには気付かれないように声量を抑えてはいるが、表情も声も厳しく叱責すると、その年若い侍女はエルジェーベトの裾に縋るようにひれ伏した。
「申し訳もございません! ほんの少し、目を離した隙にどちらにもいらっしゃらなくなって……」
「マリカ様はまだ幼くていらっしゃいます。――何かあるのにはほんの一時で十分なのですよ」
この娘はマリカから目を離して見失ってしまったのだ。
お転婆な王女が過保護に構われるのを嫌うのは確かによくあることだった。庭園から厩舎、時には厨房まで、王宮中を駆け回ろうとはするのだけれど。狭い隙間を見つけては大人が思ってもないところから不意に飛び出して、母であるミーナを驚かせたり笑わせたりはしているのだけれど。
だが、だからといってそれが望ましいという訳では決してない。思わぬ怪我が怖いのはもちろんのこと、今の王宮には王を恨む者がいる。逆恨みの刃が王女を狙わないと、一体どうして言えようか。何事もなかったから良かった、では済まないのだ。
「……お前のことは追って沙汰します。下がっていなさい」
侍女は蒼白な顔で申し訳ございません、と繰り返したが、エルジェーベトには聞き入れる気は一切なかった。良縁を得るため、王宮で働いていたという経歴のためにリカードの伝手を頼ってミーナに仕える者たちの一人だったはずだ。数年勤めた後で侯爵家の縁者に嫁ぐことを期待していたのだろうが、生半可な覚悟で王宮にいられても困る。次にリカードに会った時には報告した方が良いだろう。
ミーナのもとへ戻ると、ちょうどミリアールトの元王女が辞するところだった。微笑んでマリカと手を振り合うその女を、エルジェーベトは敵意を込めて睨みつける。見た目が美しいのは認めざるを得ないが、腹の中では何を考えているか分かったものではない。事実知識をひけらかして、イシュテンの女を見下す素振りさえ見せることもある。なのに、ミーナもマリカもあの女を信じきっているようなのだ。
――マリカ様。あんな女に誑かされて……!
元王女がマリカの手を引いて現れた時、彼女は心臓が凍るような恐怖を覚えたのだ。まさか一人でこの女の元に飛び込んでいたとは。やはりマリカの好きにさせすぎるのは良くない、と改めて思う。王も王妃も娘には甘いからこうなってしまったのだ。そろそろお淑やかにしてもらうことを覚えなければいけない歳頃だ。
――でも、今問題なのはこの女よ。
マリカが無事に戻ったのは、この女の気まぐれによるものでしかない。エルジェーベトの手柄では決してないのだ。ミーナとマリカを守るという使命を果たせなかったかもしれないと思うと、心に刃で切り裂かれるような痛みを感じた。それは安堵を上回る怒りと屈辱、悔しさだった。この思いは、不出来な侍女を打ち据えたくらいでは収まりそうにない。この暗い感情をもたらした犯人、美しくも忌々しい囚人に晴らしてもらわなくては。
「姫君」
気がつくとエルジェーベトは元王女を呼び止めていた。この女の名は当然知っているが、名前を呼んでやるほどの親しみはない。それに、この女はもうすぐ違う名で呼ばれることになる。夫となる男から与えられる婚家名で。
「…………」
元王女は答えなかったが、何の用だと言いたげな表情で足を止めた。今までの彼女の人生で侍女風情に道をふさがれることなどなかったのだろう。
――思い至らなかったのか、度胸がなかったのか……。
元王女がマリカに危害を加えなかった理由はわからないけれど、マリカの命は一瞬とはいえこの女に握られてしまったのだ。その事態を許したのが悔しくて許せなくて――自分の立場を思い出させてやろうと思う。
「狩りの時にお召しになる衣装はお決まりでしょうか?」
いささか唐突な問いに、元王女は不審げな顔をしながらも問いに答えた。
「ええ。王妃様からいただいた……深緑のベルベットのものを」
「六年ほど前に仕立てたものですね。秋の遠乗りのためのものでしたから、季節は合っておりますね」
「よく覚えているのね」
いまだ硬い表情のまま、それでも元王女は感心したように呟いた。
――忘れるはずがないでしょう。ミーナ様のことなら、どんなことでも。
大嫌いな相手からの述懐であっても、ミーナに関することへの賞賛はエルジェーベトを高揚させた。だから、続く言葉を紡ぐ際には唇が微かに弧を描いた。
「僭越とは存じておりますが、少し地味過ぎはしないかと。もちろん大変に質の良いものには違いありませんが。
皆さま、姫君のお姿を見るのをとても楽しみにしていらっしゃるのに。もっと華やかなお姿の方が喜ばれると思いますわ」
見世物は見世物らしくしろ、という皮肉は相手に正しく届いたようだった。元王女のどこまでも整った口元が硬くこわばり、エルジェーベトを喜ばせる。
「あら。狩りといえば殿方が主役でしょう。私など着飾る必要はありません」
対照的に、エルジェーベトの笑みは深まる。元王女が口にしたのは、苦し紛れにしか聞こえない。この女は確かに彼女の言葉に傷ついた。その高すぎる矜持を叩き折ってやろう、と。更に追い討ちをかける。
「せめてお髪は美しく結い上げられるのでしょうね? 狩りの時に宝石を飾るのはさすがにそぐわないでしょうけれど。ドレスの端切れをリボンに仕立てるのは素晴らしいお考えです。せっかく珍しい金の髪をお持ちなのですから手をかけて――」
「必要ないと言っています」
「ですが」
不意に、元王女が表情を改めた。戸惑い、苛立ちと屈辱を滲ませたものから、どこか冷めた――超然としたものへと。
表情そのままに冷たい、氷の鞭のような声がエルジェーベトを打つ。
「雪の女王は美しいだけでなく誇り高い御方です。獣を追い回して血を流す席はお好みではないでしょうしそのような野蛮な場所でお美しさをひけらかすこともなさらない。
私は、雪の女王は王女の誕生を祝してそのお姿を人の娘に与えてくださったと言われてきました。私を嘉してくださった、そのお心に適うように振舞わなければなりません」
まだ冬は遠いというのに、不意に気温が下がった気がした。肌がざわめくのを感じて、エルジェーベトはそっと腕を掌で覆う。そんな彼女の前で――
「お前に指図される謂れはないわ。控えなさい」
元王女はそれこそ氷の彫像のようにほんのわずか微笑むと、エルジェーベトに命じた。
――なんて、傲慢な……!
エルジェーベトは絶句して目を見開いた。この女に威圧された、などとは決して思いたくない。認めたくない。これは、元王女の不遜極まりない物言いに呆れ返っただけだ。
元王女は、自身をミリアールトの女神、雪の女王になぞらえたのだ。自身はあの忌々しい女神と同様に美しいと。しかも狩りは野蛮だから盛装するに値する場ではないと言い切った。
敗残の身を弁えず美貌と王族の生まれを誇り、イシュテンの国風を見下した。許しがたい思い上がり、身の程知らずだ。侍女に過ぎないとはいえ、エルジェーベトが叱責しても良いだろうと思わせるほど。
「……申し訳ございません。出過ぎた真似でございました」
しかし、エルジェーベトの口から出たのは従順な謝罪の言葉でしかなかった。それしか、言うことができなかった。
目を伏せて道を開けると、元王女はドレスの裾を優雅に翻して立ち去った。碧い瞳が横目でくれた一瞥は、氷の刃のようだった。
元王女の後ろ姿を見送ると、エルジェーベトの胸に怒りの炎が燃え上がる。貶めよてやろうとしたのに、逆に言い負かされ、圧倒された。その屈辱が一段とあの女への憎悪を掻き立てていた。
血が滲むほどに唇を噛み締めながら、思う。
――本当に、気に入らない女……!
当然のように彼女に命令したのが許せなかった。
確かにエルジェーベトは元王女に指図できる立場にないが、彼女だとて控えよと命じられて従う必要はないのだ。身分は侍女でしかないとはいえ、主は飽くまでミーナであり、元王女は虜囚に過ぎないのだから。
だが――
――あれくらいの方が、都合が良いわ。
下がれと言われて従ってしまった不覚を取り繕うべく、エルジェーベトは無理に嗤った。あの女が美しく高貴で、そして高慢であればあるほど、それが踏みにじられた時の様は彼女の溜飲を下げてくれるはずだった。
あのような態度こそが反発を招いていることに、元王女は気づいていないようだった。あの高慢さは、獣欲を持て余した若者たちをよく刺激することだろう。そしていかに口が回り知識があるとしても、女では男の力に敵わない。
――お前の身に何が起きるとしても、自身が招いたことよ。
元王女の誇りが砕け散る様を夢想して、エルジェーベトはどうにか傷ついた矜持を癒そうとした。
狩りの日が、近づいている。
2015/10/18後半部分を加筆修正しました。