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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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裏切りの始まり レフ

 イシュテンの内情は、まったく呆れ返るものだった。


「王に黙ってこのような砦を造るとはね……」

「だからこそ摂政陛下が介入する余地もございました」


 皮肉っぽく呟いたレフに対して、ブレンクラーレの間者はあくまでも慇懃に受け応えた。今までは商人を装った扮装のことが多かったが、ティグリス王子とイシュテン王の衝突が近いとあって、さすがに武装に身を包んでいる。無論、紋章などで出自を明からさまにすることはなく、いずれかの諸侯が雇った傭兵を装った簡素な鎧の出で立ちにすぎなかったが。


「イシュテン東部の詳細な地図も手に入ったということだな。これも、ティグリス王子から摂政陛下への貢物ということだろうか」

「マクシミリアン殿下の御代でもさぞや有用だろうと存じます」


 レフが言及した通り、彼らがいるのはハルミンツ侯爵領の一角に位置する砦だった。それも街道や都市を守るように堂々と建設されたものではなく、山間に隠れるように、森に紛れるようにして築かれたものだ。恐らくは密かに兵を集めることを想定したもので――イシュテン王も知らないであろうここを、今は異国の者が拠点にしているという大変不可解な事態が起こっている。

 そもそもイシュテン王を迎え討つ()()()のために、ティグリス王子は領内の地理をかなりブレンクラーレに明かしたはずで、イシュテンの国防上は相当な問題なのではないかと思う。


 ――別に僕が心配することじゃないけど。


 ただ、王位のためにそこまでするのか、という侮蔑と呆れが強まるだけだ。ティグリスが王位を得ることの、ブレンクラーレにとっての利点を摂政陛下アンネミーケからも間者たちからも再三説明されてはいるが、どう考えても信用ならない人物に思えるのだが。

 まあ、それも彼にはどうでも良いことだった。


「砦の内には兵が少ないようでございましたが――」

「イシュテン王の軍を挑発せよとの命令だっただろう。摂政陛下の仰せのままに、交代でつつかせている」


 無骨な石造りの卓を挟んで椅子に座れば、周囲の石の壁からはひんやりと冷気が漂ってくる。イシュテン王がハルミンツ侯爵領に侵入してから、既に十日余り。敵を陥れるべく奔走した期間も含めれば、秋もかなり深まっていた。


「僕も加わったことがあるが――確実に苛立っているようだった。ティグリス王子の姿を見れば後先考えずに突撃するのではないかな」

「高貴なお生まれだけあって、お見事な采配と存じます」


 言われたことをちゃんとやっているぞ、と仄めかせば、相手はやはりバカ丁寧に目を伏せて答えた。しかし、言いたいことがそこではないのはお互いよく承知している。間者の上目遣いの目は、どこか昏い光を帯びているようにさえ見えた。


「では、同輩も出払っているということでしょうか」

「そうだ。イシュテン王の軍を見ておきたいということだった。勉強熱心なんだな」

「イシュテン王ファルカスは敗れ討たれるものと我らは信じております。もはや(まみ)える意味もないのでしょうが――」

「ならば陥れる者を見届けてやろうということだったのかも。それに、今回の戦いで名だたる諸侯が全て死に絶えることもないだろう」


 レフは相手の目を真っ直ぐに見返した。なるべく、感情を揺るがせぬように。


 思い浮かべるのは、従姉の碧く凍った目だ。退屈な式典に飽きた時、くだらない追従を聞き流す時。彼女の目は冷たく薄い氷の膜が張ったように見えたものだ。口元は微笑んでいても、あの目の色は拒絶の意思を存分に伝えて相手の言葉を奪うのだ。

 彼も従姉に倣おうとした。彼らふたりは同じ色の目とよく似た顔を持っているのだからできるはずだ。あの夜に別れて以来、会えていない同輩の間者たちのことを、この男は案じ――もしかしたらレフを疑っているのかもしれないが、ここで弱気など見せてはならないのだ。


 ――証拠は何もないのだから……。


 死体は始末したし、痕跡など残っていない。イシュテン王を決する戦いを前に、疑いだけで――一応は――味方であるはずの彼を糾弾することなどできないだろう。

 この男の疑いにしても、せいぜいが他の間者たちを監禁しているのではないか、という程度だろう。彼らを殺したのではないか、などと飛躍するのは難しいだろうし、その可能性が浮かんだとしても、ならばレフが未だに摂政陛下の命に従うはずもないと考えるのが普通だろう。


 気付かれる恐れなどない。気付かれてはいない。

 改めて自身にそう言い聞かせて、レフは唇に弧を描かせた。従姉がよくそうしていたように、凍てついた微笑みになっていれば良い。言葉を弄して揺さぶろうとしたところで、ボロを見せたりはしない、と。あくまでも強気を見せつけるのだ。


「――数日中にイシュテン王の軍はシャルバールの野に至ります」

「ブレンクラーレにとっても因縁の地だな」


 やがて相手が目を逸したので、レフの笑みは心からのものになった。かつてイシュテンの軍を相手に大敗を喫したブレンクラーレを、揶揄する余裕も出たほどだった。


「今度こそ我が国にとって勝利をもたらす戦いになって欲しいものです」


 ――名前も姿も見せずに陰で(はかりごと)を巡らせているだけのくせに!


 内心の嘲りをあえて口にすることはもちろんせず、ティグリス王子が狙っているであろうことを指摘するに止める。


「故事によるとイシュテンは例によって騎馬の機動力を活かしてブレンクラーレを蹂躙したのだろう。いわばイシュテンを象徴するような勝利で――今回もそれをなぞろうというのだろうと、イシュテン王は考えるのだろうな」

「王のみならず、王についた諸侯も、ティグリス殿下を奉じる者たちもそうであるように願います。であればこそ、殿下の策も生きるというもの」

「挑発していて、イシュテンの者たちは単純だと思った。」

「はい。そのように信じております」


 勝利の予想を語っているというのに、間者の表情はどこか陰鬱だった。言いたいことがあるならはっきり言えば良いのに、と滑稽ですらある。込み上げる衝動に勝てなくて、レフは思わず声を立てて笑ってしまう。


「僕がなすべきことを分かっていないとでも案じているのか? ならば心配はいらないぞ。伏兵として潜み、イシュテン王が仕掛けに掛かったところを叩けば良いのだろう?」

「……は。そのようにお願いいたします」

「信用していないならば兵の話も聞いていくか? 手を抜いてなどいないと、信じてもらえれば良いのだが」


 レフと間者はまたしばらく睨み合った。相手の探るような目つきは、彼がはったりで言っているのかどうかを見極めようとしているに違いない。しかし、少なくともこの点については無駄なことだ。彼は実際にイシュテン王の軍への挑発を繰り返しているし、兵たちにもそのように命じている。嘘や虚勢の綻びなど、いくら目を凝らしても見つかるはずがないのだ。


「……いえ、長居をしてしまいましたので。そろそろこの砦を出ていただく頃だと、お伝えしに参っただけなのです」


 諦めたように告げ、立ち上がった間者を、レフは砦の門まで見送ることにした。別に見られて困るものがあるとか、行動を監視しようというのではない。ブレンクラーレの鷲の巣城(アドラースホルスト)を発って以来、この男には色々な意味で世話になった。それに対して感謝がない訳でもない。これくらいは礼儀のうちだと考えたのだ。


「必ず決戦に間に合うように参じよう」

「はい。また、戦場でお会いいたしましょう。御身を大切にしてくださいますように」

「ああ、分かっている。また、会おう」


 滑らかに嘘を吐きながら、顔では笑って手を振ることができるのに、レフは密かに驚いた。心と身体を分けて動くのに、最近慣れてきたように思う。


 ――許せとは言わないが……悪いとは思っているんだ。()でけじめだったとでも分かってくれれば良い……。


 馬首を巡らせて森の道を戻っていく男を、レフはその背が見えなくなるまで見つめていた。あの男はまたティグリス王子の下へ戻るのだという。恐らく二度と会うことはないだろう。彼はティグリスの気性を知らないが、イシュテンの王族が裏切られた相手に対して容赦するとは思えない。


 裏切り。そう、彼が考えていることを行動に移せば、ティグリスは間違いなくブレンクラーレに裏切られたと感じるだろう。そしてその怒りは、実際に裏切ったレフではなく、手近なあの男たちに向けられるだろう。剣の一閃で済むような、苦痛の少ないやり方を選んでくれれば良いのだが。


「本当に……すまないな……」


 低く、更に念のために母国語で呟いたのは本心だった。しかし、間者たちへの後ろめたさくらいで思いとどまるつもりなど彼には毛頭なかった。だから口先だけで謝るなど気休めにもならないだろう。


「決して、無駄にはしないから」


 既に両手を血で染めて、更に死者と混乱を積み上げて。今の彼にできるのは、犠牲を無駄にしないことだけだ。彼の目的――従姉の救出を果たすまでの道は、まだまだ険しい。彼女の笑顔をまた見てもいないうちから、償うことなど考えられるはずもなかった。




 翌日、イシュテン王の軍の挑発に出ていた兵が全て帰還した。摂政陛下アンネミーケの委任を受けた指揮官として――実態はもう建前とずれているのは彼しか知らない――、レフは兵たちを砦の内部に設けられた修練所に呼び集めた。


「異国の者である僕に従ってくれたそなたたちに心から感謝する。今日集まってもらったのは、山賊めいたこそこそとした任務はもう終わるということを伝えるためだ」


 彼の声は高めだから、秋の空によく通った。ブレンクラーレ語も、祖国を出て以来の今日までの旅路で相当に流暢になっているから、最後列の者にも聞き取れるだろう。


「ようやく堂々と戦えるという訳ですな」

「シャルバールの意趣返しがしたいのは我らも同じ。存分に剣を振るわせていただきます」


 あの間者と同じく、傭兵のような(なり)に身をやつしているのは、見た目だけのこと。彼らは皆、ブレンクラーレ王家に仕える歴とした臣下だった。摂政陛下に忠誠を誓い、かの女傑の命に従って異国での工作にも従事する忠臣たちだ。武術の腕ばかりでなく、志も確かな者たちだから、挑発行為を繰り返す中でも数が欠けることはほとんどなく、厄介な敵国(イシュテン)の王に苦杯を呑ませるためとあって士気も高い。

 更に、多くは貴族の出身であるがゆえに、イシュテンに国を滅ぼされたレフに対しても同情的で、王家に連なる公爵家の血筋にも敬意を払ってくれていた。ましてブレンクラーレの鷲の紋章を委ねられているとなればなおのこと。だから、彼としては非常にやりやすい環境を整えてもらったことになる。


 ――この中の何人生き延びるか……分からないけれど……。


 己がやろうとしている行いに――より正確には、起きるであろう被害を認識しながら全く罪悪感を覚えていないことに――戦慄しながら、レフは声を張り上げる。自然に微笑むことすらできているのが不思議だった。


「決戦の地の名まで知られているならば話は早い。我らは明日にもこの砦を離れ、シャルバールの野に向かう! 今夜は各自、出立の用意を整えてくれ」


 出撃と聞いて、集った兵たちの間におお、とどよめきが起きた。挑発で苛立っているのはイシュテン王の軍だけではなかったのだ。イシュテンは長くブレンクラーレの国境を脅かしてきた。その仇敵を前に手出しを許されず、兵たちも鬱憤を溜めていた。それを解き放つ時が今こそ来たのだ。


「我らの役目は何なのですか、公子」

「伏兵でしょうか。イシュテン王の側面を狙うとか……?」


 兵たちの視線が自身に集まるのを感じて、レフは意識して笑みを深くした。彼らの期待を高めるべく意味ありげに間を置くと、針で突かれるような、火で炙られる痛みのようなちりちりとした感覚を肌に感じる。


「伏兵というのは当たっている」


 ――これを言ったら引き返せない……!


 そう思うと、声が上ずるのを抑えるのには苦労した。辛うじて、高揚のためだと思れる程度にとどまっただろうか。


「しかし我らが剣を向けるのはイシュテン王ではない。ティグリス王子だ」


 兵たちのどよめきは、今度は不審によるものだった。それを収めるべく、レフは肺と喉を酷使して叫ぶように告げる。


「摂政陛下のご意思はイシュテンを弱めること。マクシミリアン殿下の御代に、憂いを減らすこと。ならばイシュテン王とティグリス王子は接戦を演じてもらわなければならない。ティグリス王子の仕掛けが上手くいけばイシュテン王は痛手を受けるが――それだけでは足りない」


 不審によるざわめきは、次第に納得のつぶやきへと取って代わられ、レフの声も一層通るようになった。


「イシュテン王とティグリス王子と。より激しく削り合ってもらわなくては。一方的な勝利ではブレンクラーレの益も少ない。陣営を問わず、イシュテンの被害が少しでも大きくなるように励むこと――それこそが、我々の使命だ!」


 彼の声が秋の空に響いて消えると、沈黙が降りた。だがそれも一瞬のこと。痛いほどの沈黙は、すぐに空を割らんばかりの歓呼によって破られた。


「王と王子、両方が相手か! これは良い!」

「イシュテンの獣どもに思い知らせろ!」


 口々に叫び笑うブレンクラーレの兵を見て、レフは心底安堵した。彼らを鼓舞し――欺くための理屈が嵌ったことを確信したのだ。これで皆、彼の指揮に従って喜んで戦ってくれるだろう。


 ――ティグリス王子……貴方にも恨みはないが死んでもらう……!


 かの王子の勝利は、即ち従姉の死を意味するから。彼女が長らえるためならば、誰が死のうと構わない。彼女を生かすためならば、どのような罪も裏切りも犯してやる。


 彼はとうに決めているのだ。

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