挑発 ファルカス
「またか……」
報告を受けたファルカスは軽く顔を顰めた。臣下に不安や侮りを与えないように、ほんのわずか。しかし苛立ちは確実に彼の裡に溜まっている。
彼が率いる軍は、数日前にハルミンツ侯爵領へ入った。彼の異母弟、王位を狙って乱を起こしたティグリスが待つ地であり、戦いは確実に近づいている。だから麾下の者たちの緊張は日々高まっていて、些細なことから諍いが起きるのも珍しいことではない。イシュテンにおいては、戦いの前から臣下を抑え御することも王の器の一つなのだ。
しかし、今彼の眉を顰めさせたのは味方同士での争いではなかった。ここ数日彼を悩ませるのは、連日──時には日に数度列を脅かす、しつこい奇襲だった。
「被害はどれほどだ」
「軽微でございます。輜重を狙って火矢が射掛けられましたが、幸いにすぐに発見されましたので」
「射手は捕らえたのか。人数は?」
今回奇襲を報告してきた者は、被害の小ささを誇るような口調だった。真実そう信じているのか、哨戒の不備を隠そうとしているのかは分からなかったが、いずれにしてもファルカスの目には甘い考えだと映る。
「それは……逃げ足の速い者どもで……」
王の不機嫌を察したのだろう、相手は視線を揺るがせて顔を伏せた。そもそも奇襲を許したのが手落ちだと、今更になって気付いたのか。
――考えの足りぬ者だな。
心中で決めつけてから、ファルカスは跪く相手に退出を命じた。行軍中に定まった玉座などなく、単に彼の前から下がることを許す、という程度の意味だったが。
「既に敵地にあることを忘れるな。決して油断することなく警戒にあたれ」
奇襲を報告してきた者を強く咎めなかったのは、報告しただけマシだったからだ。糧食や馬や就寝中の兵を狙った奇襲はあまりに頻発していて、一方でひとつひとつの規模はあまりに小さかった。恐らくは少人数で、深夜や早朝などに見張りの隙を突いて襲撃する。だが引き際は早く、捕らえることも交戦に至ることもほぼなかった。自然、被害も限定されるから、鬱陶しいが大したことではないとの認識ができてしまっている。王の耳を煩わすほどのことではないから、と報告せずに済ませる者もいておかしくはない。
そのような不心得者が彼の目に留まった日には、厳しく叱るつもりでいるが――現実問題として、更に面倒なことを言い出す者もいる。
「なぜお許しくださらぬのですか!?」
――またか……。
今度は口に出さずに心の中だけで呟いて、ファルカスは奏上に参じた者をじっとりと睨んだ。戦いの前の緊張だけでなく、度重なる奇襲も臣下たちの神経を削っている。被害が軽微なだけに、積もった鬱憤は恐怖よりも攻撃性として現れやすくなっているようだった。
「相手は不意打ちしかできぬ卑怯者ども、数も少ないということではありませぬか。臣に彼奴らを討つお許しをくださいませ! 小賢しく煩わしい羽虫どもを片付けて見せましょうぞ!」
だからこのような進言も、実は初めてのことではなかった。既に断られた者がいるのを知らないのか、自身こそその役が相応しいと思っているのか。とにかくファルカスにとっては奇襲そのもの以上に面倒なことこの上ない。
「ならぬと言っている」
これまで数回あったように短く答えながら、ファルカスは詳しい説明が必要なのだろうか、と思案した。王がならぬと言えば本来はそれで足りるはずなのだが、戦いを好み血気に逸るのがイシュテンの性。怯懦ゆえに戦いを避けていると思われては、今後の士気を左右しかねなかった。事実目の前の男は命じたにも関わらず全く納得した顔を見せていない。
「――いつどこから襲ってくるか分からぬ者どもを、どのように討つというのだ」
「少数とはいえ、痕跡を全く残さないはずはございません。何人いるかは存じませんが、どうせ本隊がいるのでしょう。獣を狩り出すごとくに巣穴を暴いて根絶やしにしてご覧にいれましょう」
できるはずがない、と言外に言ったにも関わらず、相手は自信に満ちた態度を崩さなかった。それを見て、ファルカスはこいつはバカだな、と確信を強める。
「地の利は敵にあるというのに、か? 挑発して罠の中へおびき出すことこそが狙いだとは思わないのか? 兵を分けさせた隙に、本隊を叩く策ではないと、どうして言える?」
実のところ、最後に挙げた可能性が低いのは彼自身にも分かっている。斥候に探らせた範囲では、ティグリスは――イシュテンの習いに従って――王を正面から迎え撃つつもりのようだった。進軍の途中にある彼らを、囮を使って分断してまで奇襲したとなれば外聞が悪い。ティグリスが勝利したとしても、諸侯の支持を得るのは困難になるだろう。
しかし、少なくとも最初の二つの問いに対しては、反論は難しいはずだ。他領の正確かつ詳細な地図を入手するのは難しい。ましてハルミンツ侯爵家のような名家ならば、主要な街道や目立つ山河以外の地勢は王家に対しても秘している。どのような抜け道があるかも分からない場所へ踏み込むなど、愚の骨頂だ。
「ですが……」
奏上した者が言葉を探しあぐねる様子に、ファルカスはこのまま引き下がれば良いと願った。既に数回繰り返したことを重ねて言うのは面倒なのだから。
騎乗したまま、跪く相手を見下ろす。話をしている間は馬を進めることはできないから、ゆっくりと通り過ぎる者たちが興味深げに彼らのやり取りを眺めていた。受け答えによって、王の強気の程度が測られるのであろうことも、ファルカスの苛立ちをいや増していた。
「ですが、侮られたままでよろしいと仰いますか!?」
しかし相手は思い通りに諦めはしなかった。それどころか開き直ったように激した口調で、膝を泥で汚しながら。半ば詰め寄るように王に対して訴える。
「小賢しい小虫にまとわりつかれて何の手も取らぬなど、臆病者の謗りを受けかねませぬ! 陛下のご声望を損なうことこそティグリスの狙いなのでは!? 陛下のご威光にも関わること、決して捨て置いてはならぬと存じます!」
相手は彼を挑発するつもりなのかもしれない。事実ファルカスは確実に不快を覚えた。とはいえ彼が望み通りに激昂して戦いを命じることなどない。この男が考える程度のことは、彼はとうに吟味しているのだ。
――愚か者め……!
「俺の名誉を貴様に案じられる謂れなどない」
冷え切った声で告げながら、密かに決める。この男には生贄になってもらおう。屈辱と感じるであろうほどに手酷く拒絶して、後々このような者が出ないようにしてしまおう。
「貴様は自身の評判を恐れているだけだ。それも勇敢と蛮勇を履き違えた心得違いに過ぎぬものを忠義面して奏上するなど、怯懦よりもなお悪い!
王がくだらぬ挑発に動じないのは当然のことではないか? むしろ動揺を誘い列を乱すことこそティグリスの狙いであろう! うかつな行動こそが俺の名誉を汚すと心得よ!」
「は……っ!」
周囲を通る将兵にも聞こえるように、必要以上に声を高め衆目を集めるように。頭ごなしに叱責すると、相手は赤面して顔を伏せた。恐らくは恥じ入ったのではなく、人前で怒鳴りつけられることへの怒りと屈辱のためなのだろうが――とにかく、もはや反論はないようだった。
「……差し出た真似でございました。どうか、ご寛恕を……」
噛み締めた歯の間から絞り出すように、それでも従順に許しを乞うたのを聞いて、ファルカスはやっと手を緩めてやることにした。
「衷心からのことだとは理解している。今は鋭気を養い戦いに備えるが良い」
「ははっ」
ようやく無益な会話を終わらせることができる、と内心安堵しながら、ファルカスは軽く笑った。代表して貧乏くじを引いてもらったのだから、この男には多少なりとも褒美が必要だろう、と思いついたのだ。
「とはいえそなたの意気はよく分かった。戦いが始まった際には先陣を命じよう」
「ありがたき幸せに存じます……!」
怒りを明らかに歪めた顔から一転。ごくあっさりと、相手は満面の笑みを見せた。
――これでしばらくは収まるか……?
男を下がらせたファルカスは、愛馬を進ませるべく手綱を引いた。今の一幕は火のように早く噂となって全軍を巡るだろう。王の意図が広まり、兵どもが苛立ちを抑えて戦いに臨むことを彼としては願ってやまなかった。
その夜野営のために行軍を止めると、王の天幕を訪れる者があった。
「お願いがあって参りました」
「……一体何事だ」
飄々と、そして図々しく述べた側近――アンドラーシを警戒して、ファルカスは低くうなった。
――先陣を譲れと言い出すのではないだろうな。
まず頭をよぎったのはその懸念だった。昼間の一件がアンドラーシの耳にも入っているということは、大いにあり得る。そして戦いを好み忠誠心の篤いこの男の気性からして、王に口答えした者に先陣を与えるのはもったいない、などと言い出すのもさほど驚きのない想像だった。
「戦いの時は近いと伺いました。決戦の場の、目星はついているのでしょうか」
「そうだな……シャルバールの野でぶつかることになるだろう」
「故事に倣うとでもいうのでしょうか」
「どちらがどちらのつもりなのかな」
彼が挙げた地名は、かつてイシュテンが侵攻してきたブレンクラーレの軍と戦い、退けたという逸話のあるものだ。イシュテンが勝利を収めたという点から縁起を担いだということなのだろうが、イシュテンの王はファルカスである以上、イシュテンの勝利に倣おうというのだとしたらまことに思い上がった発想だった。
「無論、戦馬の神もヤノシュ王の霊も、陛下を嘉するものと信じております。ところで――」
ブレンクラーレを降した王の名を引用しつつ、にこやかに追従を述べてから、アンドラーシは本題に入った。
「兵の配置についてもお考えでいらっしゃると存じます。願いというのは、それについてのことなのですが」
「先陣は既に定まっている。今から覆しては不満を招こう」
側近が懸念通りのことを言い出したので、ファルカスの声には苦々しさが満ちる。従者が注いだ酒さえ、旨味よりも苦さが勝って感じられるほど。王との個人的な親交を盾に、当の王の言葉を覆せると思っているなら、この男は意外と身の程を弁えない愚物なのかもしれない。
「何とも惜しいことですがさすがに承知しております」
「では、何だ」
自身の資質を疑われていることに気付いているのかいないのか。アンドラーシは自身も杯を干すと、どうも白々しいと思える表情で残念そうに首を振り、肩を竦めた。
「カーロイ・バラージュのことで。あの子供、妙に肩に力が入っているようで見ていて危ういのです。気にかけてやりたいのですが、あの者の傍につけていただくことはできるでしょうか」
「バラージュの息子か……」
最近目を掛けている少年の姿を思い浮かべながらその名を呟き――ファルカスは首を傾げた。幸いに、彼は側近を見損なわずに済んだらしい。とはいえ、突拍子もないことを言い出したのには変わりがない。
「お前が他の者を気にかけるなど珍しい」
揶揄ではなく、正直な感慨だった。この男は、衷心は疑わないにしても他者と足並みを揃えようという気概がとにかく薄い。無能な者、考えや気性の合わない者への冷淡さや挑発的な言動も困りものだと考えていた。ミリアールトの総督を任せなかった理由でもあるのだが――例の少年に限って、よく気を遣ってやるものだ。
――先日の狩りで認めたということか……?
確かにカーロイ・バラージュは弓も馬術も良い腕をしていた。それでも、この偏狭な男ならば新参者を疎ましく思う方がありそうだったのだが。
主の不審の目を受けて、アンドラーシはどこか照れたように苦笑して見せた。
「姉とも少々縁がありまして。クリャースタ様にもよく仕えているようですし。……リカードを恐れているのかも、とも思ったのですが」
「ありそうではあるな」
バラージュ家はティゼンハロム侯爵家の傘下にある。カーロイの父への本人は決して認めなかったが、王への反逆ともなる命を受け入れたのも、その上下関係があればこそ、だった。
カーロイはファルカスを支持すると密かに表明しているものの、リカードの知るところとなれば必ず厄介なことになるだろう。
――どのみち、いずれは明かすことになるのだが……。
「あの者は、俺の傍近くに配置しようと考えている」
バラージュ家をティゼンハロム侯爵家から引き抜くとなれば、リカードに口出しさせぬほどの武功が必要だ。父を亡くした子供を後見するという建前を封じるためにも、カーロイ本人の力を広く知らしめなければならない。最終的には少年自身の力量に懸かっていることではあるが、ファルカスとしては彼の目の届く範囲で積極的に機会を与えたいと考えていた。
「陛下の近侍に加われるとは、光栄の至り」
「まだ願いを叶えるとは言っていないが……」
晴れやかに笑って頭を垂れたアンドラーシに、ファルカスはまたも苦々しく顔を顰めた。しかし、言葉とは裏腹に頭の中では定めた配置を置き換える算段を始めている。ティグリスを破った後は、リカードとの争いになる。それに勝利を治めるためには、ティゼンハロムに与する諸侯を引き入れなければならないし、彼個人に忠誠を誓う者たちとの衝突は少ないに越したことはない。
アンドラーシは彼の側近の中でもティゼンハロム家を殊の外嫌い、リカードに従う者たちをも毛嫌いすることで有名だ。そんな男がカーロイと上手くやっていると見せるのは、今後のために益があると言えるだろう。
「まあ、善処はしてやる。沙汰を待て」
「ありがたく存じます」
そうしてアンドラーシは機嫌良く退出し、ファルカスはひとり酒杯を傾けることになった。つい先ほど考えを巡らせたことについて、自嘲めいた笑みを漏らしながら。
――今後のことなど、気の早いことではあるのだが。
出陣前に側妃に語った通り、彼が勝利を収め無事に帰るかは未だ不透明だ。数の上ではティグリスに劣らぬ軍を集めたつもりだが、内情は一枚でないことといい、ブレンクラーレの影といい、何も確実なことなどないのだ。リカードとの戦いを考えたところで、その機会さえ起きないかもしれないというのに。
――あの者は……何を考えている……?
酒杯を覗けば暗く小さい水面に映るのは彼自身の姿。数度しか会ったことのない異母弟の姿を重ねようとしても、彼らは決して似ていない。ティグリスの考えも、彼とは違っているのだろうか。
ブレンクラーレをどのように使うつもりなのか、奇襲の意図は、真実堂々と正面から戦うつもりなのか。父親が同じだけというだけの薄い血の繋がりは、異母弟の考えを教えてはくれない。
彼にできるのは、ただティグリスを侮らぬということだけ。歳下だろうと不具だろうと戦いの経験がなかろうと。全身全霊を持って相手をしてやろう。
杯を干し、口元を歪めて嗤う。その姿は、狼に似ていたに違いない。