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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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血塗られた道 アレクサンドル

 側妃の離宮を訪ねたアレクサンドルは、輝く笑顔の金茶の髪の娘――イリーナに迎えられた。幼い頃から王女の遊び相手を務めていたこの娘は、彼もよく知っている。だから、シャスティエと同様に孫娘のようなもの、向ける視線も笑顔も自然と柔らかいものになっているだろう。


「伯爵様。ようこそおいでくださいました」

「元気そうで何よりだ」

「ありがとうございます。シャスティエ様もお喜びになりますわ」


 侍女は婚家名ではなくあえて以前の名で女王を呼んだが、彼は訂正することをしなかった。何しろ彼らが交わしている言葉は母国語のミリアールト語だ。彼らが側妃をどのように呼ぶか、イシュテンの者に聞き咎められる恐れなどない。


「ご気分はよろしいのか。お会いしても――」

「もちろんです。退屈なさっておいでですもの」

「このようにお囲みして……さぞ窮屈に思し召しだろうが」


 離宮の扉も、更にその周辺も、武装した兵によって守られている。懐妊中、それも最大の庇護者たる王が不在とあって警備を厳重にしているのだが――不安を抱えた主の神経にはさぞや障っていることだろう。

 周囲へ視線を巡らせて、イリーナの若草色の瞳もわずかに陰った。


「ええ。――でも仕方のないことですから」


 伏せた睫毛が濃い影を落としたのも一瞬のこと、娘はすぐに顔を上げてまた彼にほほ笑みかけてくれた。


「お入りくださいませ。すぐにお茶を用意させます」




 シャスティエに会うのは、あの忌々しい宴の席――ティゼンハロム侯によって懐妊が暴かれてしまった場だ――以来だった。ひどく青い顔色で頬もやつれていたのは、後に悪阻(つわり)のためだと分かったが、だからといって何の慰めにもならなかった。

 むしろ、御子の存在は彼女を脅かすもの。まして父親が憎いイシュテン王だとなれば、心労はいかばかりか。しかも懐妊はイシュテン中に知れ渡り、世継ぎの誕生を望まぬ者どもが乱を起こす次第となってしまっている。

 彼の女王は国を揺るがす野心と悪意の渦の中心に囚われて、しかし味方がほぼいない状況だ。

 その危うさを思うにつけ、アレクサンドルはうら若い少女にこの道を選ばせたのを何度となく後悔するのだ。その後悔を、今日は拭おうとして訪れたのだが――果たしてどうなることだろうか。


「小父様。お久しぶりでございます」


 アレクサンドルの複雑な内心など知らないのだろう、彼を見るなりシャスティエは美しい笑みを見せてくれた。不穏な空気に心を痛めてか、満面の、とはいかなかったが――それでも、先日に比べれば頬もふっくらとして顔色も良い。

 だからアレクサンドルはほんの少しだけ安心して跪くことができた。


「陛下。お加減がよろしいようで、安心いたしました」


 側妃に対して陛下の称号を使うのは、やはりミリアールト語を話しているから。祖国においてシャスティエは確かに女王なのだから、イシュテンの者の耳が届かない場くらいではそのように扱わせて欲しかった。


「はい。涼しくなってきましたし、この頃は食欲も出てきました」


 言いながら、主は彼に立ち上がって席につくよう促した。顔を上げればその細い身体が以前とは違っているのが嫌でも目に入る。まだ微かなものとはいえ、そこには明らかな膨らみがあった。

 共に復讐を誓ったことを思えば、次代のミリアールト()()()()()()()()()の誕生を喜ぶべきなのだろう。


 ――だが……そのようなことはできぬな……。


 シャスティエは子供のころから華奢な少女だった。ここのところ成熟した――誰がそうさせたのかは考えたくもない――女の気配を感じることもあるようになったとはいえ、色気や豊満さよりも雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)のごとき清麗(せいれい)な印象が強い。そしてその凛とした姿だからこそ、一箇所だけ不自然に膨らんだ腹が何か悪いものにでも憑かれたかのように見えてしまうのだ。


「御子が健やかにお育ちなのは幸いでございます」

「ええ、本当に」


 子の成長を喜ぶ会話と見せかけて、彼らふたりの表情はあるべき幸せな笑顔からはほど遠い。シャスティエは困ったような醒めたような表情で自身の腹をちらりと見ただけ。一方のアレクサンドルは気遣うような、腫れ物を触るような表情をしているだろう。主の様子に、決して懐妊を喜んではいないと改めて思い知らされたのだから。


 主従がぎこちない言葉を交わす間に、茶菓が並べられていく。今回その役にあたっていたのは、アレクサンドルとも縁がある、エシュテルという娘だった。


「お毒見を務めさせていただきますね」

「いつもありがとう。……ごめんなさいね」

「とんでもないことですわ」


 イシュテン語でのやり取りはそれだけで終わった。毒見を済ませたエシュテルは礼儀正しく部屋の隅に下がり、アレクサンドルはまた主に祖国の言葉で話しかけることができた。侍女たちにとっては異国語での会話を、どう思われているのだろう。少なくともエシュテルは不審の色をあからさまに浮かべてはいない。毒見役を任せているということは、主との間には信頼関係も生まれたのだろうか。ならば喜ぶべきことだが、前提として毒の心配もあるということは聞き捨てならない。


「毒のご心配を、なさっているのですか」

「ええ、ツィーラ――古参の侍女に勧められたのです」


 侍女の献身によって安全を確かめられたものを口にしながら、シャスティエは微笑んだ。守られて安心しているという表情ではない。甘い菓子を味わっているとは思えない――苦々しさに口元が歪んだという程度の笑みだった。


「今のところは何事もないけれど……私は。でも狙われているのは分かります。ティグリス様だってそうだし――」


 言葉を切ると、主は視線をある壁の方へ向けて別室を示した。


「贈り物も沢山届きましたが触れることができないのです。産着のためにと献上された絹には針が入っていましたし。他にもどんな仕掛けがあるか……」

「真実、御子の誕生を祝っての品もございましょう。男児であれば世継ぎの御子ですし……」

「今のうちに媚びておこうというのですね。貢ぎ物程度、大した手間ではありませんものね」


 アレクサンドルの言は、彼自身にさえ頼りなく聞こえ、シャスティエの皮肉げに尖った声にあっさりと叩き落とされた。

 生まれるかもしれない王子とその母に擦り寄ろうという者もいないではないのだろうが、利用されるのを喜ぶ主では決してない。表面だけの巧言など気休めにもならないのだろう。何しろこれまで一応は王に従っていた者たちが反乱に加わったのを目にしたばかりだ。


 ――王がいないからと……お心が晴れることもなかったか……。


 昏い笑みを浮かべて俯いて。気持ちの篭らない手つきで腹を撫でる主の姿は、常の気高さとはほど遠い。

 懐妊。それによって生じた諸々の不調。生命の危機。イシュテン全土を巻き込む乱れ。それら全てが彼女を襲い、美しい薔薇を萎れさせているのだった。

 彼にも娘や嫁がいるから、身重の女の精神が不安定なのは知っている。しかし、年若い女王が置かれた立場は並の女とは比べ物にならない困難なものだ。頼りのはずの夫さえ、傍にいようといまいと彼女を苦しめるだけの存在だ。


 ――やはり、この方をこの状況に置いたままにはできぬ。


「シャスティエ様……」


 できるだけさりげなく、アレクサンドルは主に呼び掛けた。これから言うことのために、ずっとミリアールト語を使っていたのだ。当たり障りのない会話に聞こえるようにしなければならなかった。


「小父様?」


 それでも主は何かしら不穏なものを感じ取ったらしい。あるいはそれほど彼女の神経が過敏になっているのだろうか。とにかく、折れそうに細い首を傾げたシャスティエに、彼はゆっくりと、噛んで含めるように言い聞かせた。


「今こそ、好機です。王は不在で兵も多くが乱の鎮圧に駆り出されている。今ならば密かに御身をミリアールトまで落とし奉ることができるかもしれません」

「小父様」

「静かに! 何でもないようにお笑いになって」


 言いながらアレクサンドルも笑おうとしたが、顔が引きつっただけにしか見えないかもしれなかった。だが、とにかくも歓談の体は保たなければならなかった。口にしているのが、この王宮の主――イシュテン王への明確な裏切りなのだとしても。


「王が(たお)れてからでは遅い。ティゼンハロム侯は陛下を見逃してはくれませんでしょう。

 そして王が勝利を収めてからでも遅い。御子のために、御身は危険に曝され続けるでしょう」

「…………」


 いずれにしても暗い予想に、シャスティエは顔を曇らせる。彼の女王、愛すべき孫のような少女を微笑ませることができず、逆に脅かすようなことしか告げることができない。その無力さ至らなさに歯噛みしつつ、アレクサンドルは説得を試みる。


「安全をお約束することは、できませぬが。ですが、ずっと敵地(イシュテン)で陛下がやつれていくのを傍観するなど、耐えられぬのです」


 王がアレクサンドルに側妃の警護を命じたのは僥倖だった。公然と武装してシャスティエに侍ることができるのだから。懐妊中の妃のために、王は相当の数の兵を王宮内に入れることを許してくれた。彼がミリアールトから伴った手勢も含めて、だ。加えて王に従う軍の大半は反乱の鎮圧に向かうとなれば、よからぬ希望も芽生えてしまう。


「頷いてくだされば、この老身は身命を賭して御身を祖国へお届けします。ティゼンハロム侯の手勢だけならば、振り切ることも可能でしょう。我らを追って王都を空ける訳にもいかぬでしょうし、十分に可能性はあるものと存じます」


 王はアレクサンドルが思っていた以上に側妃のことを気にかけている。しかし、王自身がシャスティエの最大の心労なのだとは気付いていない。留守を任された信頼には感謝しているし、それを裏切ることへの後ろめたさもないではないが――そもそも全てはあの男が原因なのだ。主君を(しい)され祖国を滅ぼされた怒りと憎しみは、簡単に忘れることなどできはしない。

 やつれる一方の女王を見れば、仮にとはいえ手を組もうとしたのが過ちだったとさえ思う。


「――何を仰っているのですか。逃れたところでまたミリアールトが戦場になるだけではありませんか。王が敗れるなら――ティグリス様なら私たちを追う余裕はないのかもしれないですが……」


 シャスティエは眉を顰めかけて、顔を伏せて控えるエシュテルを不安げに窺った。ミリアールト語を解さない娘にも、彼らの穏やかならぬ空気は感じられるだろうに、おっとりとした表情を崩さないのはさすがというべきか。


「ティグリス王子については聞いております」


 より正確には、実の母に折られたという脚については。不具の身ゆえに、かの王子はイシュテンでは軽んじられる存在なのだという。だからティグリス王子が勝った際はミリアールトは当面の安全を得るだろう。そして――


「王が勝利すれば、また新たな戦いが始まります。ティゼンハロム侯とのそれです。お互いに外敵がいなくなれば、両者は今度こそ真の王位を狙って相争うでしょう。そしていずれが勝ったにしても、イシュテンは荒廃するはず。やはりミリアールトを攻めることは難しいでしょう」


 強引な理屈なのは百も承知で、アレクサンドルは弁を振るった。シャスティエをこの境遇から逃がすなら、今を置いて他に機はない。イシュテンという国は危険過ぎる。王族同士、王と臣下が止むことなく争って血と命を流している。男児を得て王位を盗むのが復讐などと、叶うものと思ってはならなかったのだ。


「王は戦い続けるのですね。弟君と争うだけでは飽き足らず……」


 シャスティエの形の良い眉が顰められた。しかしそこに浮かぶ感情は、野蛮さを見下し憎むものではなかった。それどころか憐れみのような憂いを読み取って、アレクサンドルは思わず女王の白面を凝視した。


「シャスティエ様……?」


 儚げな表情が見えたのはほんの一瞬のことだった。小さく息を吐くと、シャスティエは背筋を正し声も厳しく改めて、アレクサンドルを真っ直ぐに見据えた。


「王が戦うのは私との子のためでもあります。更に私のために小父様を残して、最大限身の安全を図ってくれました。それを裏切るようなことを勧めるなど、幾ら貴方でも許しません、イルレシュ伯」

「シャスティエ様」


 恐らくわざと、イシュテンでの称号で叱責されてアレクサンドルは顔を伏せる。イシュテン王の信任への裏切りを口にするのに、決して忸怩たるものがなかった訳ではないのだ。シャスティエに自身の卑劣さを見通されて指摘されるのは、胸の痛みを伴う。だが、それでも――


「ですが、シャスティエ様は――陛下はそれでよろしいのですか。今のお姿はあまりにも見るに忍びないのです」

「確かにこの子は私に危険と苦しみばかりをもたらしていますが」


 シャスティエは顔を顰めて腹を見下ろし、老いた臣下の胸をさらに痛ませた。だが女王が再び顔を上げた時、碧い目は激しい怒りに燃えていた。その怒りの矛先に、自分自身も含まれているのに気付いて、アレクサンドルは言葉を失う。


「逃げればこの苦しみも無駄になってしまうではありませんか。もはや憎しみだけの話ではないのです。この屈辱と苦痛が報われるために、私は逃げるつもりはありません!」


 ――雪の女王は戦馬と駆ける、か……。


 アレクサンドルの脳裏にミリアールトの雪原が蘇る。イシュテンの人馬の血で赤く染まったあの場面だ。黒馬を御す王の腕の中で、金の髪を翻す女王はまさに雪の女王を思わせる美しさだった。王も、非常に忌々しいことにシャスティエに似合う容姿の持ち主ではあるのだ。


 ミリアールトが愛した美しくも高慢で無邪気な王女は、血塗られた道を()くことを選んだ。恐らくあの時あの雪の砦で覚悟したよりも、遥かに困難な道と思い知らされた今もなお、変えるつもりは毫もないのだ。


「それで、よろしいのですか……?」

「ええ。私を思ってくださるというなら王に尽力してください。私の子が受け継ぐ国が、少しでも豊かに強くなるように」


 無力感に(さいな)まれながら同じ問いを繰り返すとシャスティエははっきりと頷いた。堂々と、ほとんど顎を反らすようにさえして。

 女王が虚勢を張っているのは明らかだった。しかし、同時にこれ以上何を言っても受け入れないであろうことも、この上なく明らかだった。


「お心のままに……」


 仕方なく従えば、女王はここ最近見た中で最も嬉しそうな微笑みをくれた。その美しささえ、素直な喜びからではないのが彼には悲しくてならなかったが。


「もちろん、万一の際には頼りにしていますけれど」

「……は」


 優美な弧を描いているはずの口元は、どういう訳か歪に見えた。碧い目は、輝くというよりも何か昏い感情によって燃えているようだった。


「兵を温存できるのを喜びましょう。次は、ティゼンハロム侯と戦うのですから」


 その青い炎は、戦いへの決意、なのだろうか。マズルークを退ける際には不安が勝っていたように見えたのに、今のシャスティエは戦いを望んでいるのだろうか。


 それも、王と並んでの戦いを。


 腹の御子への愛が芽生えたということではないのだろう。あくまでも復讐のため。――というよりも、そういうことだとシャスティエは自分自身に言い聞かせているようだった。


「王にばかり戦わせている訳ではありません。私も――私たちも策を講じてはいるのです」


 主の意に反することはできず、かといって傍観する覚悟も定まらず。掛ける言葉を探すアレクサンドルに対し、シャスティエは話す言葉を切り替えた。ミリアールト語から、イシュテン語へ。彼と同時にエシュテルへも向けた言葉だった。


「そなたが……?」

「私どもも、クリャースタ様をお守りいたします。戦いは殿方だけのものではございませんわ」


 アレクサンドルは全く異なる髪と目の色の女たちを見比べた。エシュテルの穏やかな笑みは見慣れたもの。しかしその瞳には、非力な身には似合わない力強さがあるように見えた。更に彼が驚いたことに、この娘を見るシャスティエの目にも確かな信頼が宿っているようだった。


「今は待ちます。この子と我が身を守ることが私の戦いですから。そして王が無事に帰った時こそ、私たちから攻める時です」


 アレクサンドルは思い違いを悟った。

 言い切ったシャスティエの、顔色はさほど変わったということはない。見るも哀れにやつれ、不安を隠そうとして隠しきれていない。だが、それでも戦う決意は固まっていた。怯えて縮こまるのではなく、戦う方法を探そうとしている。エシュテルらも、非力なりに何事かをなそうとしているようだった。


 ――ただ守るだけなどと……この方を見くびっていたか……。


 心から非礼を悔いつつ、アレクサンドルの頭は今度こそ自然に敬意を示して垂れた。


「心得違いでございました。御身も御子も必ずお守り申し上げます。シャスティエ様――クリャースタ・メーシェ様」

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