闇を裂く閃光 レフ
レフは夜の闇の中、馬を駆けさせていた。周囲にはブレンクラーレの間者たちが十数騎。
人里は遠く、頼りになるのは月と星の灯りだけ。一団となって、適度な距離と速度を保たなければならない道行きは緊張を強いられるもので、かつ決して容易くはない。それでもイシュテン王が進軍してくる前に、全ての準備を終わらせなければならなかった。それも、秘密裏に。人目を避けるためとなれば、自然、闇に紛れての行動となったのだ。
王族に連なる者として、彼が受けた教育の水準が十分高かったのは幸いなのだろう。さすがというか、ブレンクラーレの間者たちも彼と同等の馬術を修めてはいるようだったが。
ティグリス王子の勝利のために、ブレンクラーレは兵を貸し出し例の王子の命じるままに各所で細工を施している。レフの役割は、密な連携と連絡を要求される作業を滞りなく進めるための伝令だった。
とはいえ工程もほぼ終わり、後はイシュテン王の到着を待つばかり。道中敵軍が予想通りの動きをするのか、逐次報告や干渉──つまりは嫌がらせの必要はあるだろうが、それはまたその時のことだ。
今、彼らはティグリス王子の下へ報告に戻る途上で、馬足も全速力というほどでもない。舌を噛まずに呟くこともできるほどに。
「間に合いそうか……?」
「公子のご尽力もあって、恐らく何とか。……高貴の御身でいらっしゃるのに、まことにありがたいことと存じます」
「……別に。イシュテン王の破滅を願っているだけだ」
独り言のような言葉を聞き取られて、レフは決まり悪くそっぽを向いた。彼がブレンクラーレの間者たちに手を貸したのは、ティグリス王子を陥れる機会を狙うため――策の細部まで熟知した上で、その綻びを見抜くために過ぎないのだ。決して褒められるようなことではない。
――そっちだって、どうせ僕を見張っているのだろうに……!
できる限り大人しく従順に。摂政陛下アンネミーケの命に従う姿勢を見せてはいるが、これまでの言動もあって今一つ信用されていないのは彼自身よく承知している。
苛立ちと少々の後ろめたさの間で波立つ心を抑えるべく、レフは無意味に剣の柄を弄んだ。
「ブレンクラーレはよくこの策を受け入れたな。摂政陛下はお怒りではなかったのか」
内心について弁明するよりも話題を変えた方が得策だろうと考えて問うと、相手は闇の中で苦笑したようだった。
「奇策に属するのは確かでしょうね。とはいえイシュテンの者には余計に受け入れがたいでしょうから」
「役目を押し付けられたということか」
「ええ。更に言うならばイシュテンは諸侯の力が強いでしょう。乱の盟主といえども大規模に統率の取れた行動を、それも秘密裏に行うのは難しいのです」
「そこまでして王位が欲しいのか……」
レフは侮蔑の意を込めて鼻を鳴らした。
奇策などと、相当に控えめな表現だ。ティグリス王子が為そうとしている策は、イシュテン人ほどに騎馬にこだわりがないレフの目にも卑劣なものとして映る。イシュテンの者に命じることができないのも当然だと思われた。万が一にもブレンクラーレの関与が露見したりなどしたら、かの国にとっても拭い難い汚点として歴史に刻まれるだろう。
先日、跪いた体勢から窺った王子の姿を思い出す。不具だという足は鎧に覆われていて分からなかったが、イシュテンの男にしては細身に見えた。わずかに見えた顔も白かったから、ろくに剣を握ったこともないのだろう。
対するイシュテン王は、武勇に秀でているとの噂だ。力では勝てないからと、策を弄し兄を陥れてまで王位に拘るなど、王族の行いとは思えない。
とはいえ、単純にあの王子を嘲り見下すことなどレフにはできない。
――もっともそれは僕も同じだ……。
父や兄と共に祖国のために命を差し出すべきところを生き延びた。流れた末に、苦境の女王を他所にブレンクラーレの庇護を受けた。そして最愛の従姉を取り戻すため、今は――利用する目論見があったであろうとはいえ――手を差し伸べてくれたアンネミーケに仇なすことをしようとしている。
非力を理由の汚い真似は、彼とても同じなのだ。苦い笑みが口元を彩り、剣の柄を握る指に力が篭る。
「イシュテンの中では穏やかなお人柄でいらっしゃいますから。摂政陛下にとっても王太子殿下にとっても、良き隣人になられるでしょう」
恐らく自国のことしか考えていないであろうブレンクラーレの忠実な間者は、闇の帳のお陰もあってかレフの思いにも表情にも気付かないようだった。相手の声は穏やかに笑っていた。だが、すぐに硬い気配を纏ったのが感じられた。言葉を交わすうちに、道がふた手に分かれるところへたどり着いていたのだ。
束の間馬を止め、夜の帳越しに向かい合う。微かな月と星あかりで間者の顔は朧な中、声だけがレフの耳に届いてくる。
「我らはこれからティグリス殿下の御許へ向かいます。公子は――」
「言われた通りにするさ。やるべきことは分かっている」
やはり、というか。大きく頷いて見せたというのに、闇に光る相手の目には非常に心配そうな色が受かんでいた。どうやら彼は聞き分けのない子供のように思われているようだ。心当たりは重々あるとはいえ、いっそ可笑しくなってしまう。だがここは大人しく思い通りになっていると見せなければならない。
「イシュテン王の軍の攪乱を。挑発を繰り返し、ティグリス王子と対峙する頃には鬱憤が頂点に達しているように」
「……はい。お願いいたします」
レフには相手の逡巡の理由がよく分かった。先日ティグリス王子に謁見した際、余計なことを言ったのを気にかけているのだろう。ティグリス王子はさほど気にしたようではなかったものの、側妃は――彼の愛する従姉は王子にとって生かしてはならない存在のはず。返して欲しいなど言いだしたら、話がややこしくなるところだった。更にミリアールトの王族である彼の身分が知れたら、という懸念もあっただろう。
だからまたティグリス王子のもとに連れて行くのは怖い。けれど目を離しては何をしでかすか分からない。その辺りで迷っているに違いない。
「この期に及んで何かすると思っているのか?」
相手の気を楽にしてやろうと、レフはあえて明るい声を出した。表情は、相手からは見えないだろうから。
「この前は勝手をして悪かったが。……せめて、彼女がまだ生きていると知りたかった。とうに覚悟はできている」
軽く目を伏せると、暗がりの中で相手が息を呑む気配がした。従姉と同じく宝石の碧い色のレフの瞳は、星明かりに劣らず夜の闇に光るだろう。瞳の色の陰りから、切なげな表情を思わせることも容易いだろうと、彼は踏んでいた。
「……姫君のことは大変気の毒に存じます」
案の定、間者は珍しく気まずそうに呟いた。彼の顔はこの抜け目ない男にさえ効果を発揮することができたらしい。
「ですが、そもそもの仇はイシュテン王と思われるべきかと。ティグリス殿下さえ勝利を得られれば――」
「仇を討てる。父も兄も……彼女も」
「ならばご活躍くださいますよう……」
「分かっていると言っただろう」
納得させられたのかは分からないが、今度こそ間者は引き下がった。彼がイシュテン王を憎んでいるのは事実だし、従姉を呼ぶ声音は他の言葉と全く違う響きを持つはず。ティグリスの勝利を願って尽力しようとしているのだと、少しはもっともらしく聞こえたのだろう。
彼の本心は、悟られてはいないはずだ。
「ご武運を。――御身は次のミリアールト王でいらっしゃることをお忘れなく」
それでも最後に説教めいた言葉を残して、間者の長はレフと道を分かった。
――次のミリアールト王だと!?
投げかけられた言葉に、それによって湧き起こった苛立ちに駆られるように、レフは馬を走らせた。
ミリアールトの王は従姉だけ、彼に王位が回ってくるような事態――彼女に万一の事態が起きることなど考えるだけでも耐え難い。憎い男の子を孕ませられて、今この瞬間にも命を狙われているだろう彼女に思いを馳せると、血が凍る思いをするというのに。
「公子、早すぎます――」
後ろから掛けられた声には、夜道で速度を上げすぎることへの不安が滲んでいる。レフを追いかけるのは、三騎の騎馬だ。補佐役というのは名ばかり、彼の目付け役として残された者たちだった。
この速さで石にでも脚を取られれば危険なことはレフにも分かっている。しかし、従姉の境遇を思うと危険な真似をせずにはいられなかった。
「僕は復讐を誓う……!」
祖国の言葉で呻くのは、従姉が今、仇の妃として名乗っているという名だ。婚家名という野蛮な習慣は知ってはいたが、彼女がよりによってそのように不穏な──そして危険な名を選ぶとは思ってもみなかった。
――彼女か……それともあの裏切り者か……!?
夜風が頬を切るように鋭くあたる。激情に囚われて怪我をするなどつまらない。彼に何かあっては従姉を救える者はいなくなってしまう。そう思いながらもなお、手綱を引いて馬を休めさせることはできなかった。
クリャースタ・メーシェ。
そんな響きは彼女には似合わない。彼女は幸福。誰からも幸せを願われた美しい王女。なのになぜ、復讐などと不吉な名で敵国に嫁すことになったのだろう。
従姉自身が思いついたのかもしれないし、グニェーフ伯が彼女を言いくるめるために勧めたのかもしれない。イシュテンの者には分からないであろうミリアールト語で、復讐を意味する響きで呼ばせるのは、多少なりとも溜飲の下がることなのかもしれないから。
――でも危険すぎる!
イシュテン王はその名の意味を知らないから、懐妊を喜んでいられるのだろう。だが、万が一にも側妃の名前の由来を調べようとでも思い立ったなら、必ず激怒するだろう。憎い敵が、従姉の唯一にして最大の庇護者だという現状だけでも我慢ならないのに、その状況さえ崩れかねない。
一体どうしてそのような危うい賭けに出ることができたのか、まったく理解に苦しむ。
――シャスティエ……乱が終わるまで、無事に、生きていてくれるか……!?
無理矢理に感情を落ち着かせて――何より馬が悲鳴をあげ始めていたので――速度を緩めると、後続の者たちが追いついてきた。
「焦っても何も益はございません」
余裕を持って駆けてきた者が冷静に、そしてやはり忠告顔で言ってくるので、腹立たしいことこの上ない。
「分かっている」
対するレフは息も上がり、額には汗が珠となって浮かんでいる。秋ともなれば夜は冷える。身体を拭かなければ体調に差し支えかねなかった。
しかし、これで内心の緊張を知られることもないだろう。呼吸が乱れているのは不安と恐れのためではなく、単に馬を疾駆させたからだと思わせておかなければならない。――弾む呼吸を整えながら、レフは密かに剣の柄を握った。ちょうど良く、後続の者たちも隊列を乱している。彼が落ち着いたと見て取って、気が緩んでもいるだろう。だから、今しかない。
「今宵はもうゆっくり行っても構いませんでしょう」
「そう、だな」
「夜明けにも、伏せた兵と合流すればよろし――」
闇の中を閃光が一閃した。
レフは話しかけてきた男が言い終わるのを待たなかった。頭の中で何度となく考えてきた動きを、身体は滑らかに実現してくれた。
一瞬にして馬体の間を詰め、抜き放った剣で真っ直ぐに首を狙う。白い光の筋が男の喉元に吸い込まれ、肉を裂く感覚と共に赤いであろう液体が噴出する。
「何を――!?」
一人目が落馬し、主を失くした馬が不安に嘶く。それを最後まで見届けることなく、二人目に向かう。幸いに剣を抜かせることなく、胸を貫くことができた。黒っぽく光る血が再び闇に撒き散らされる。
「――っ!」
馬首を巡らせて逃げようとした三人目の判断は早かった。しかし逃げ切るのに成功するほどではない。十分に速さに乗ることができる前に、レフは追いすがって自身の馬に体当たりさせた。後方からの衝撃に、騎手はあえなく鞍から放り出されて地に叩きつけられる。
「――う……――っ! やめろ、やめて――」
そして倒れて呻く相手が立ち上がる前に、その頭を蹄で蹴り砕かせる。蹄が頭蓋を割って柔らかい脳を踏み抜く不気味な感触は、馬体を通してレフにも伝わった。ティグリス王子から借りたというイシュテンの戦馬は確かに勇猛だった。同胞とぶつかり合い、人を踏み躙る命令に、躊躇いなく従ってくれるとは。
そしてことが終わった後には、人間の死体が三つと、戸惑うように足踏みする馬が二頭。最後の男の馬は、身軽になってどこかへ駆けていってしまった。
「落ち着け……一緒に来てくれるな?」
レフは一旦下馬すると、急に主を失って落ち着きのない馬たちを宥めた。代わる代わる轡を抑え、首筋を叩いては話しかけてやると次第に彼に従う気配を見せてくれる。いずれも良い馬だから、戦いに臨んでは代え馬として心強い。
「まずは……ひとつ。無事に済んだ……」
そして始めて、レフ自身も息を吐く。無抵抗の相手、彼を味方だと信じきっていた相手を立て続けに斬ったのだ。肉引き裂き骨を断つ感触が、剣を鞘に収めた今も両手にこびりついる気がした。
心臓が早鐘のように打っているのは、先ほど馬を駆けさせたからでも剣を握っての立ち回りをしたからでもない。彼の目的のために人を殺した、もう引き返すことができないと思い知らされているからだ。
だが同時に高揚もある。全身血に濡れて、命の熱さが急速に冷めていく恐怖と寒さに震えながら、レフは無意識のうちに笑っていた。
――これで好きに動ける……! 兵も手に入れた……!
合流を待っている兵たちには彼が指揮すると伝えれば良い。間者たちは他の役割を受け持っていると。彼の姿を知る者もいるだろうし、符丁としてブレンクラーレの王家の紋章――睥睨する大鷲を預けられているから疑われる心配はないはず。
「まずは死体を埋葬して……身体も洗って……馬も……」
夜が明ける前に片付けなければならない。それも一人で。
疲れた身体を叱咤して、やるべきことを口に出して数えあげながら、レフはまず彼が殺した男たちの死体へと歩み寄った。
――シャスティエ、もう少しだ……。もう少しで、助けてあげるから……。
彼の支えとなっているのは、美しく愛しい従姉への思いだった。