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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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兄弟のような アンドラーシ

 秋の空は高く、更に雲ひとつなく晴れやかな日差しが注いでいる。


 ――前回に比べれば、季節としては上々だな。


 眩しい太陽を見上げて目を細めつつ、アンドラーシはわずかに笑んだ。前回、とはもう一年近い時が経ったミリアールトへの遠征のことだ。北に進むにつれて寒さは厳しさを増して深い雪は馬の脚を痛めたし、長すぎる夜は兵の士気を鈍らせた。暖を取るにも余分に燃料が必要で、あらゆる点で気乗りのしない戦いだった。今は側妃となった元王女とその侍女だけが、北上につれて活き活きとしていったのを彼は不思議な思いで眺めたものだ。


 アンドラーシは真夏の行軍にも参加したことがあるが、あれはあれで大変不愉快なものだった。純粋に熱さが厄介なのは言うまでもなく、汗は視界を歪ませるし剣や槍を持つ手も滑りやすくなる。更に死体は腐るし生者の傷は膿みやすい。

 つまりは、今は殺し合いをするには絶好の季節ということになろう。


 王と王位を狙う者との争いならば、余計な策の入る余地もない。どちらが国を率いるに相応しいかを決めるのに小細工など不要、単純な武力と武力の衝突になる。十年前、王が先王の第一王子を争った時のようにティグリス王子との一騎討ちになることはないだろうが――何しろあの王子は不具の脚ゆえにまともに騎乗することもままならない――、とにかく頭を使わずに済む戦いなのは間違いないだろう。


 だから秋の爽やかな風の中、彼の心は軽やかだった。


 ――ただ当分暇だな……。


 王の率いる軍はハルミンツ侯爵領を目指している。道中で通る領地から軍を受け入れて数を増しながら、蟻の歩みのようにゆっくりと。ハルミンツ侯爵領に入ったなら奇襲や罠の警戒も必要になるが、取りあえず戦いは遠い。王は、斥候から決戦の地や敵の動向などを吟味して多忙なのだろうが――彼のような立場の者は実際戦いの場になるまで比較的やることが少ないのだ。


「少し外すぞ」

「どちらへ?」


 馬上から従者に話しかけると、相手は不審げに――呆れたように顔を顰めた。父の代から仕えた者で、アンドラーシは昔からよく落ち着きがないだの浮ついているだの嘆かれてきた。悪い遊び仲間だと言われていた側妃腹の王子が王位を得てからは、幾らか減ったものの、それでも小言がなくなることはついぞない。

 また何の気紛れだ、と言いたげな渋面を見下ろして、笑う。


「子供と遊びに」




 少々妬ましいことに、カーロイ・バラージュはアンドラーシよりも王の傍に従って行軍している。降爵されたとはいえ父祖の代からの勇名があること、表向きはリカードの陣営に属するとみなされていることがその理由だ。


 迷惑げな顔や、時に舌打ちを無視しながら人馬の間を縫うように進むと、目的の少年の姿が見えてきた。更に近づいてその面持ちが確かめられる距離になると、アンドラーシの口元は笑みの形に弧を描いた。


 ――緊張しているな。やはり子供だ。


 ろくに戦ったこともない少年が家名を理由に重用されているのだ。父親の死にまつわる不名誉を囁く者もまだいるだろうし、居心地の悪さを覚えていても不思議ではない。これが無能な若造なら隙を見て殴ってやるところだが、腕も気性も悪くないのはもう分かっている。

 なので先達としては揶揄うに止めてやることにした。


「――もう怖いのか? 初陣でもあるまいに」


 硬い表情の少年へ、あえて見下すように話しかけると相手は案の定嫌な顔をしてくれた。戦場がまだ遠いがゆえに、兜を着けていないからこそ見えるもの、軽装だからこそ肩への力の入り様も見えてしまっている。それが悪いということではなく、青く初々しいと思うだけだが。


「気楽にできる方が不思議です。これから戦うのは同じ国の者ではないですか」

「若いな」

「どういうことです」


 唇を尖らせたカーロイに向けて言ったのは、皮肉ではなく心からの感慨だったのだが――相手はそうは思わなかったようだった。もう少しつつけば剣を抜くのではないかというほどに、噛み付くような勢いで睨んでくる少年はまことに揶揄い甲斐がある。それを片手を挙げて宥めつつ、説明する。


「国の中での争いはよくあることではないか。お前が経験していないだけのこと、話す言葉や奉じる神が同じでも敵は敵だ」

「それは……そうでしょうが」


 アンドラーシ自身も初陣は先の後継者争い、即ち敵は先王の第一王子の陣営だった。初めての戦いが異国相手だったカーロイはむしろ珍しい部類ではないだろうかと思う。あるいはもっと上の世代の者たちならば、積極的に領土を求めて外を攻めた時代を覚えているのかもしれないが。


「まあ、陛下の御代ではそのようなことはなくなって欲しいものだが」

「……そうですね」


 少年の答えは歯切れ悪く表情は依然として強ばっていた。アンドラーシの軽口に納得した風ではなく、ずっと張り詰めたままのような。


 ――変に気負っているか……?


 その姿に、改めて首を傾げる。先ほど彼自身も言った通り、カーロイはこれが初めての戦いという訳ではない。マズルークを退けた際は物怖じすることもなく敵の司令官を屠ったと聞いた。今回は王自らが軍を率いるから、それは緊張に繋がるかもしれないが。


 更に揶揄う言葉を探そうとして――アンドラーシは彼らふたりに注がれた不審の目に気付いた。そういえばカーロイはリカードの後見を受ける身で、彼は王の側近。主たちの不仲は周知のことだ。更に彼はミリアールトの乱の論功でバラージュ家の領地の一部を賜っている。そのような因縁がある者同士で歓談するのは、確かに傍からは不可解に見えるかもしれない。カーロイとしても、今リカードの疑いを招くのは不味かろう。


「気晴らしに少し列を離れるか?」

「え――」


 ふと思いついて提案すると、少年は大きく目を見開いた。そしてすぐに険を浮かべて睨んでくる。本当に、微笑ましいほどに素直で生真面目な子供だ。


「……そのような、勝手なこと――」

「年寄りどもの目があっては好きにできないからな。羽を伸ばさせてやろうというのだ。それとも一人では何もできないか?」


 挑発する振りで周囲の目を意識させると、カーロイもさすがに言わんとすることに気付いたようだった。話をするのではなく剣を交えに行くのだ、とでも主張するかのように――ややわざとらしく――(まなじり)を決して声を荒げる。


「……では行こう。私は臆病者などではない!」

「若様――」

「心配いらない」


 父親亡き今、カーロイはバラージュ家の当主のはずだ。にも関わらず年長の者からは子供扱いで――アンドラーシは何となく親近感を覚えると共に、少年に対して多少の同情を抱いた。




 隊列を離れて小高い丘から見下ろすと、王の軍は見渡す限り線となって連なっていた。

 イシュテンとブレンクラーレとを繋ぐ大街道。常ならば隊商が行き交うそこは、今はもっぱら軍事に利用されている。近隣の民や商人どもは、息を潜めて乱が終わるのを待っているのだろうか。

 諸侯がそれぞれ率いる騎馬や兵を、一つの軍として編成する。家格や長の性格、過去の軋轢等を考慮して概ね不満の出ないように整えるのは難事に違いない。今も頭を悩ませているであろう王を思うと、気楽な身分のアンドラーシとしては非常に気の毒になる。


「何の話があるのですか」


 彼を睨むカーロイの息は、上がっていた。試すつもりで速度を上げたのだが、よく付いてきたものだ。バラージュ家の馬が良いのもあるが、やはりよく躾けられた子供だと思う。


「力が入りすぎているように見えたのでな。息抜きも必要だろう」

「余計なお世話です」


 笑いかけるとカーロイはまたむくれて見せた。しかし、以前彼の屋敷を訪れた時の勢いを思い出すと、どこか勢いがないように見える。いつの間にか言葉遣いはやや丁寧になったようだが、遠慮をしているとも考えづらい。何しろアンドラーシに気を遣って(かしこ)まる者など滅多にいない。腹の探り合いが面倒で、相手を怒らせるように意識して振舞っている賜物だ。


 ――もう少し揶揄ってみるか。


 相手が顔を顰めるのを予想してほくそ笑みつつ、アンドラーシは隠し玉を見せることにした。


「先日、姉君と会ったのだ。その時にお前のことを頼まれた」

「姉に――なぜ」

「クリャースタ様の――まあ、ついでだったのだが」


 カーロイが予想通り目を瞠って言葉を失ったので、彼は大変満足した。自然、説明する口調も自慢げになる。折りよく吹いた爽やかな風も、あの時微かに鼻に届いた化粧と香水の妖しい香りを思い出させた。


 側妃とは人質として捕らえられて以来の付き合いになる。これまでにも王の命によって何かと便宜を図ったり宴などに付き添ったりしたことがあったし、その延長線上で彼は今も離宮を訪ねることを許されている。出陣の前に美貌の妃から激励を受けられたのは、いわば役得と考えて良いだろう。


『貴方にこのようなことを言うのはとても不思議な気がするのですが……』


 側妃は軽く顔を顰めて諸々の非礼を忘れていないとしっかり示してから、彼に懇願したのだ。


『陛下が無事にお戻りになるかは皆様のお力にかかっていると存じます。どうか、この子が父君に会えるように――』


 イシュテンの出身ではないクリャースタ妃は、男の前でも目を伏せずに真っ直ぐに視線を合わせてくる。その時も、側妃は膨らみ始めた腹を抑え、美貌を隠すことなく彼を見つめてきていた。

 その宝石のような碧い目に浮かぶ思いはいつになく真摯なもので、本心から王の無事を願っていると見て取れた。忠誠を誓ったふたりが順調に心を通わせているようだったのも、彼にとっては嬉しい兆候だったのだ。


「まだ若いから血気に逸らぬか心配だと。だから面倒を見ると請け負ったのだ」


 側妃の傍に控えていたカーロイの姉――エシュテルに話しかけたのは確かについでだった。しかし、誰にも決して言おうとは思わないが、アンドラーシなりの気遣いでもある。先日の狩りの際に、父の死を揶揄するような物言いをしたのはこの上ない無礼だった。だから弟を気にかけようと、半ばは彼の方から申し出たのだ。


「戦場が危険なのは当然です。あの方こそか弱い身で戦っておられる……」

「クリャースタ様も頼りにしているようだったな」


 側妃が最も恃むのはミリアールトから降った老将、あのイルレシュ伯。そして身辺の世話ということではあの金茶の髪の侍女だろう。しかし、新参の割に、そして父親との因縁の割に、エシュテル・バラージュに対しても優しげな目を向けていたように見えた。毒見役として身命を賭しているからなのか、歳が近い女には親しみが湧くということなのか。


「もったいないことです」


 姉が認められて喜ぶかと思ったのに、カーロイの反応は鈍かった。馬を駆けさせて上気した頬も既に冷めたようで、心なしか顔色が青ざめてさえ見える。


 ――緊張だけでなく……姉のことも案じているのか?


 苦労性だな、と苦笑しつつも首を傾げた時だった。ふと、アンドラーシの脳裏に閃くものがあった。浮かぶのは、彼と王にとっての仇敵の姿。老獪かつ狡猾で油断ならない男。バラージュの姉弟にとっても、隙を見せてはならない相手のはず。


「リカードが怖いのか」

「――っ! そのような……!」


 口では否定していても、少年は感情を隠しきることができていなかった。不意に告げられた名に肩を跳ねさせ、あからさまに血相を変えてしまっている。

 その未熟さを微笑ましく思いながら、アンドラーシは胸中で得心していた。


「リカードの手が離宮に及ぶのを恐れているのだな。姉君が心配で戦いも手につかないか」

「違います! ……いえ、そうですが……何よりもクリャースタ様と御子様が――」


 落ち着かなげに視線をさまよわせるカーロイを、大層新鮮な思いでアンドラーシは眺めた。彼には弟がいないし、姉も妹も危険な場所にいる訳ではない。更に言うなら戦いは常に楽しく心躍るものだった。だから、従軍しながら姉を案じて上の空になっているのがいっそ不思議に映ったのだ。


 姉とはいえ、女に頭を占められて戦いが疎かになるのは惰弱とも呼べるかもしれないが――だが、同時に危うく守ってやらなければ、とも思った。後輩を導いてやろう、などと彼にとってはほとんど初めての発想かもしれない。姉のエシュテルの姿と、父を失くした経緯から放っておけないと思うのだろうか。


「だが今お前にできることなどないぞ」

「……分かっています」

「まともに戦えなくて下手な怪我をするようでは、その方が姉君を悲しませる」

「まともなことを仰るのですね」


 少年が心底驚いた顔で目を瞠ったので、アンドラーシは不本意に眉を寄せた。忠告をしてやっているのに、と思ったのだ。

 だが、抗議なり叱責なりの言葉を思いつく前に、カーロイが深く息を吐いた。


「気負いは害にしかならぬと分かっています。……ですが、私には失敗は許されないのです。家名のためにも……父の名をこれ以上汚してはならないと……」

「名家とは面倒だな」


 少なくともアンドラーシの父は現王に仕えるという息子の意思を尊重してくれた。諦めたのもあるだろうが、恐らくは没落の余地もさほどない程度の家だからというのも大きいと思う。子供のような歳の癖に家だの名誉だのばかり考えているのは気の毒なほどだ。


 ――陛下は……まあ別格でいらっしゃるか。


 カーロイよりも歳若い頃から、主君は先を見据えて黙ってなすべきことをなしていた。恐れや不安は、少なくともアンドラーシらには見せることは決してなかった。だからこそ心酔し、頼られるようになりたいと願うようになったのだ。

 王に思いを馳せると、思い出すことがあった。バラージュ姉弟は彼の屋敷を訪れた時に、リカードへの復讐を口にしていた。つまり彼らの目的は全て父のためであって、王への忠誠も二の次ということになるだろうか。


「死人にいつまでも義理立てするのか。お前自身はどうしたいのだ」


 呆れとともに呟いたのは、少年を怒らせるかもしれない言葉だったが、カーロイは苦い笑みを浮かべただけだった。


「今は家と父のため、としか考えられません。家の名を――若輩の身で高めるとは言いません――保つためならば。何でも、します」


 言い切ったようでカーロイの表情は晴れないず、秋の高い空の下でさえくすんで見える。


 ――何か心に懸かることを隠しているな。


 人の心を察するのが得意でないアンドラーシにさえ、そうと察することができるほど。しかし、彼ではカーロイの懸念を全て吐き出させることなどできそうにない。


「まずできることは手柄を上げるくらいだろうよ。そしてそう肩肘張っていたのでは空回りするだけだ」

「はい……分かっては、いるのですが」


 やはり彼は言葉で語るのに向いていない。そうと決めつけると、アンドラーシは馬の手綱を引き、馬腹を蹴った。心得た愛馬が駆け出して、少年を置き去りにしようとするその一瞬に、振り向きざまに笑う。


「力を抜け! 余計なことを考えるな! その隙が命取りになるぞ!」


 カーロイが呆然としたのも一瞬のこと、すぐに地の振動と空気の流れが、少年も馬を駆けさせたと教えてきた。頬に切りつけるような風を感じながら、これで良い、と笑う。少なくとも全力で疾駆する間は、何だか原因は知らないが思い悩むこともないだろう。


 ――実際戦いになったら、少しは気にかけてやるか……。


 まるで弟ができたかのように、珍しくもアンドラーシは少年の面倒を見ることを勝手に決めていた。

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