夫の出立 シャスティエ
シャスティエが王と久しぶりに会ったのは、ティグリス王子の討伐に発つという日の前日のことだった。
「体調は? 気分はどうだ」
「お陰様で何事もございません」
懐妊が発覚して以来、ほぼお決まりとなった会話を交わしながらも、王の纏う気配はどこか鋭いと思う。戦いの前の緊張なのか――まるで抜き身の剣を突きつけられるようなひやりとした感覚を首筋に感じて、シャスティエは何となく腹を庇った。
「少し、目立ってきたか」
「はい……」
なのに、その動きに目を留めて彼女の腹に触れる時、王の眼差しは和らいだ。これから人を殺しに行くのだろうに、不可解極まりないことだ。ミリアールトを攻める前も、この男はきっとこんな鋭い気配を漂わせていたのだろうに。
「あの、ミーナ様やマリカ様の方へはいらっしゃらないのですか。私などよりも――」
居心地の悪さに、シャスティエは王から逃げようとした。それに、偽りない本音でもある。彼女は別段夫を恋しく思うことなどないが、王妃も王女も王の不在を寂しがって心配しているに違いない。最後の日くらいずっと傍にいて差し上げれば良いと思うのに。
「夜はあちらで過ごす。お前には言っておきたいことがあるのだ」
しかし、いつも通り王がシャスティエの内心に気付くことはない。王は当然のように席につき、彼女も続くように目で促す。この離宮の主でありながら、シャスティエは諾々と従うしかなかった。
季節が進み、屋外に席を設けることはもうしなくなっている。秋の風はまだ寒いというほどでもないが、王も侍女たちもシャスティエの身体に対して過剰に気を遣うのだ。王と一緒だと思うと息が詰まるから、せめて窓を開けて欲しいと思うのだが叶えてはもらえなかった。
取りあえずは、と。侍女たちが並べる茶菓を摘む。ティゼンハロム侯やその手の者はシャスティエの命を狙っているのだろうが、王と共にいる場で毒を盛ることは流石にしないだろう。幾らかは気楽にものを口にすることができるのは、王の訪れを歓迎する数少ない理由のひとつだった。
「茶葉を変えたかしら」
「はい。クリャースタ様のお心が安らぐように、香りの柔らかいものに」
「これはこれで好きよ」
「恐れ入ります」
エシュテルも、シャスティエの周囲に馴染んできた。祖国からついて来てくれたイリーナだけでなく、毒見役を買って出てくれた者たち、彼女を守るために尽力してくれる者たちは、等しく頼りになると思うことができるようになっている。
茶葉の違いが分かるのか分からないのか。何の感慨も感じさせない表情で茶を干すと、王は徐に口を開いた。
「戻るのがいつになるかは分からないが。俺が不在の間、身辺には十分注意しろ。お前ひとりのことではないのを忘れるな」
「はい。決して」
――分かりきったことを……。
王の視線はシャスティエの顔ではなく腹に注がれている。微かに膨らみ始めた、そこに。侍女たちは胎動を感じられるようになるのが楽しみだ、などと言うけれど、シャスティエにとっては他の者の命を胎内に抱えるなど恐怖でしかない。絶対に守らなければならないのは承知しているけれど、胎児のせいで脅かされているとさえ思ってしまう。
「グニェーフ伯――イルレシュ伯もいらっしゃいます。私も油断することはございません」
熱意のない言葉ではあったが、王は一応頷いてくれた。シャスティエの表情を見ていないからかもしれない。青灰の目は依然として鋭く厳しく、既に戦場を見据えているかのよう。
戦うことしか頭にないならこれで用が済んだのだろうか。そう思ったのも束の間、でも、王は立ち上がることなくまた口を開く。
「ティグリスが今、乱を起こしたのはお前の懐妊を知ったからだ」
「……存じております」
「王の血を引く子、特に男児を恐れているのだ」
「はい」
――私が悪いと言いたいのかしら。
理不尽としか思えない言われように、シャスティエは軽く唇を噛んだ。
王たるものが内乱を歓迎するはずはないのだから面白くないだろうとは分かる。だが一方で、ティグリス王子が王位を狙う機会を窺っていると王も知っていたはずではないか。ブレンクラーレとの密約を教えたのはシャスティエ自身だし、そもそもイシュテンの王族はことごとく王位を巡って争うものだと歴史が証明している。
シャスティエは確かに乱の原因なのかもしれないが、懐妊のことがなくてもいずれ起こっていたことだ。何より、企みを巡らす異母弟を堂々と降すことができること自体は、王も望むことのはず。彼女のために流血が起きるような物言いは、心外極まりないことだった。
「だから俺が死ねばお前は必ず殺される」
「陛下。何を――」
しかし王の続く言葉はシャスティエを責めるものではなかった。死ぬだの殺されるだの。不吉な言葉が涼しくなってきた気温を更に下げるようだった。
「無意味に脅かすつもりで言っているのではない。黙って聞け」
腰を浮かしたシャスティエを軽く睨んで、王は淡々と続けた。
「ティグリスが勝った場合はもちろんのこと、こちらが勝っても俺が死ぬ場合もあり得るからな。むしろそれが一番厄介か」
「…………」
「リカードはマリカを擁立して諸侯を束ねようとするだろう。そして従わぬ者が頼ることのないように――」
「この子を殺すというのですね」
「そう。そういうことだ」
シャスティエはまた腹に触れた。王が都合良く考えたように、言われたことが恐ろしかったのではない。王が死ぬなどという仮定が不思議でならなかったのだ。懐妊によって脅かされるのは彼女だけだと思っていたのに。よく考えれば、王も死地に赴こうとしているのだ。
「だから俺が死んだ時にはお前はすぐに逃げろ。イルレシュ伯を残したのもそのためだ」
「逃げる。どこへ逃げろと?」
「ミリアールトの他にあるのか」
「ミリアールトへ……」
呆然とする間にも王は畳み掛け――シャスティエには、王の言葉を繰り返すばかりの自分がひどく愚かになってしまったように思えた。
「追うのがティグリスだろうとリカードだろうと、ミリアールトまで手を伸ばす余裕はあるまい。……こうなると例の通路は塞がない方が良かったな」
気がつくと、青灰の目が微かに笑っていた。確かにシャスティエの目を捉えて。また、あの見慣れない優しげな目つきだった。
「……私の言葉をお気に留めていただけるとは……」
王が持ち出したのは、ティグリスに教えられて王の執務室へ忍び込むのに使った隠し通路のことに違いない。あの時シャスティエは側妃に迎えろと詰め寄って、逆に王を怒らせたのだった。ろくに話も聞いていなかったようなのに、マリカが迷い込むと危ないからと言ったことを覚えていたのか。
「マリカが危険だというのはもっともだったからな。まあ、詳しく調べる時間もなかったからな」
王はやはりシャスティエの困惑には気付かない。この男が娘を愛おしむ姿も、ひどく落ち着かない気分にさせられて、言葉を失ってしまうのだが。
腹の膨らみがひどく厭わしかった。悪阻で彼女を苦しめ、内乱を招き、母の命を脅かす存在だからというだけではない。王がこの胎児のために命を懸けようとしているという考えが忌まわしいのだ。王はシャスティエの敵。祖国の仇。ミーナやマリカを見るような目で見られては彼女の心は耐えられない。
「陛下。その――状況は……難しいのでしょうか。そのように、万が一のことなど……」
「出るからには勝つつもりだが、何もかも予想できるはずもあるまい」
どれだけ慎重に言葉を選んでも、シャスティエの問いはどうしようもなく不吉で無礼なものだっただろう。けれど王が気分を害した様子はない。まさか、妻の不安を宥めているつもりだとでもいうのだろうか。
「流れ矢の一本でも死ぬ時は死ぬ。妻子の命が懸かっているからには、わずかな可能性でも見過ごせない」
「……そう、ですか」
「ブレンクラーレの思惑も知れぬ。まあ関わっていることが分かっているだけ良いのだろうが」
「あの」
いつになく穏やかで優しげな王に耐え切れず、シャスティエは口を挟んだ。王が自身の死を語るのがあまりに似つかわしくなかったから。彼女にとって王は常に強く恐ろしい存在だったのだ。今回も、ティグリス王子の方こそ討ち取られるのだと勝手に哀れんでいた。彼女が叛意を漏らしたばかりに、と罪悪感さえ覚えていたのだ。
シャスティエは今まで、王は殺し奪う者だと思って疑いもしなかった。でも――逆に命を奪われることも十分にあり得るのだ。
「ミーナ様にも、そのようなことを?」
「ミーナに?」
王は初めて意外そうな表情で首を傾けた。まるでシャスティエが道理に合わないことを言い出してもしたかのように。彼女はただ確かめたかったのだが。王が気遣うのは側妃ばかりではないと。シャスティエが特別に手厚く思われている訳ではないのだと。王妃にも、後々のこと、万一の時のことを伝えていると言って欲しかったのだ。
でも、王はあっさりと首を振るのだ。
「あれはお前とは違う。性格も、状況も。それこそ無意味に怖がらせてどうするのだ」
「では――」
「ミーナには心配するなとだけ伝える。いつも通りだ」
「ですが、それでは」
「何があってもリカードは娘を全力で守る。お前にとっては不安だろうが、ミーナのためには奴に王都の守護を任せなければならないのだ」
「そうではなくて」
目に浮かぶようだった。王が心配いらないと告げれば、ミーナは不安な表情を和らげて微笑むのだろう。甘えて夫に凭れながら、早く帰って欲しいと囁くのだろう。あの忠実なエルジェーベトや父のティゼンハロム侯も、口を揃えて何でもないと言い聞かせて、あの優しく素直な人は信じ込んでしまうのだろう。
確かにミーナが思い悩む様子は痛ましいと、あってはならないと思うけれど――だが、何も知らされないままでは万が一、が起きた時の恐怖と悲しみは一層のものになってしまうのではないだろうか。
「ミーナ様が、何もご存知ないのでは――」
「お前は自分と我が子のことだけ考えていれば良い」
どう言えば良いか分からないまま、煮え切らないことを繰り返してしまう。すると王は苛立ったようだった。元々戦いの前で張り詰めた空気を纏っていたのだ。シャスティエにとってはむしろ馴染みの険のある声。狷介で短気なのは変わらないと分かって、いっそ安心するほどだ。
「あの、ご不在の間、ミーナ様とは――」
「余計なことはするな。お前は離宮に篭っていろ」
「ですが」
先ほどまでの戸惑いはどこへ行ったのか。いつも通り頭ごなしに命じられるといつも通りに声が高くなってしまう。結局、王とはこのような関係だ。理不尽に押さえつけられて怒る方が、落ち着きさえする。
――でも、ミーナ様がこのままでは良くないわ!
せめて、それとなく話すことはできないだろうか。いきなり全てを明かすとは言わない。ティゼンハロム侯爵もミーナにとっては父親だから、夫と敵対しているなどとはすぐに受け入れることはできないだろう。それでも、侯爵とは言わずとも王には敵が多いこと、少なくともミリアールトは王につくことは知らせたい。だって――
「ミーナ様がこの子を育ててくださるのかもしれないのでしょう。今後のことなど、お話しなくては……」
腹を示しながら訴えると、王はわずかに目を逸した。やはりこの男は子供には弱いようだ。交渉の手札が増えたことも、懐妊したことの利点に数えて良いだろうか。
ミーナはシャスティエの懐妊に嫌な顔をしなかったとは聞かされた。本心からか気遣いからか、まだ王の言葉を信じきることはできないが――仮に子供が王子ならば、イシュテンの次の王位を狙うなら、王妃の後見は是非とも欲しい。シャスティエにはミーナに敵対する気も張り合う気もないのだと、彼女の子は王の権力を強めることになるのだと伝えたかった。
「ならぬ」
しかし、精一杯の必死さも従順さも、王を動かすことはできなかった。弱気を見せたのも一瞬のこと、また睨む目つきと切り捨てる声音で彼女の訴えは退けられる。
「ミーナに会うだけでは済まないだろう。周囲の者たちはリカードの手の者だ。王妃に招かれた場で、毒見ができると思うのか」
「それは……そうですけれど。でも」
「お茶が冷めてしまいましたね。お代わりをお淹れします」
場の空気が張り詰めたところに、エシュテルが折り良く茶を注いでくれる。このように、聡く立ち回ってくれるのは良家の出だからか、あるいは女の立場が弱いイシュテンならではのことなのか。
とにかく、茶を楽しむひと時の間に、王もシャスティエも幾らか気を落ち着けることができた。変えたばかりという茶の味と香りは、食べ物の好みも変わってしまったシャスティエの口にも合った。普段口にしていても胎児には良くないものが多々あるとのことで、安全かつ味を楽しむことができるものが見つかったのは喜ばしい。
「――無事に戻れば俺も共に話をしてやる。それからでもよかろう」
茶器の触れ合う微かな音が響くことしばし。王がまた口を開いた時には、声も穏やかなものに戻っていた。抑えつけるのではなく言い聞かせる口調に、シャスティエも渋々ながら頷くほかない。
「……はい」
――ミーナ様……結局ずっとお会いできていないけれど……。
言葉とは裏腹に、彼女の心の裡は納得とは程遠かった。
悪阻は苦しく辛いものなのだ、と――王は最終的には信じてくれたが、ならば出歩くな人に会うなと申し渡された。先日の狩りが久しぶりの遠出で、その場でティグリスの挙兵の報が届いたから、懐妊を知ってからというもの、結局ミーナには会っていないのだ。
と、俯いたところでシャスティエは言うべきことを思い出した。戦いに向けて発つ夫に妻が言うべき、当たり前のことを。
「無事なお戻りをお待ちしております。――ご武運を」
「取ってつけたようだな」
王は笑ったが、皮肉や咎める響きはなくて、またシャスティエの調子を狂わせた。
王を見送った後、シャスティエはひとり物思いに沈みながら腹を撫でている。
太って肉がついたのとは違う、そこだけぼこりと膨らんだ様子は不気味だと思う。これからもっと目立って身体の線を崩していくのだろうか。人と会う機会がごく限られているであろうことは幸いなのか。
そして思うのは、我が子のことではなく王が告げたことについて。
――王が死ねばミリアールトに帰れる……?
ティゼンハロム侯の手を掻い潜って、ティグリスから逃れてミリアールトに落ちる。その場合には憎い王は無残な屍を晒しているのだろう。
心躍っても良いはずの空想なのに、シャスティエにはなぜか色褪せて見えた。
――だって……あまりにも危険だもの。
グニェーフ伯がついているとはいえ、シャスティエも胎児も多くの者から狙われている。無事に祖国に帰りつけるとは限らない。王は最善の手を取ってくれたとは思うけれど、それでも確実からは程遠いだろう。
――それに、逃げたら全てが無駄になってしまうわ。
祖国にたどり着くことができれば安穏に暮らすことはできるのだろう。勝者がティゼンハロム侯だろうとティグリスだろうと、イシュテンの平定で手一杯になるはずだから。
だが、それでは彼女の志した復讐は叶わない。イシュテンの王位を、王の全てを盗むこと。王の命を奪うのが知らない者の刃だとしたら、どうして溜飲が下がることなどあるだろう。
――だから、王の勝利を望むのよ。復讐と、この子のために!
だから、彼女は決して王に気を許した訳でも王と馴れ合う訳でもないのだ。そう結論づけると、やっと少しだけ安心することができた。