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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
12. 狼虎の乱
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笑う虎 ティグリス

 母の死後ある程度は鍛えたとはいえ、ティグリスの肉体は大抵のイシュテンの男と比べると貧弱だ。捻れて萎びた片脚ゆえに、できる鍛錬が限られているということもある。


 だから彼にとって武装の一式を纏うのは決して楽なことではないのだが――それでも、戦いに向けた装いをするのには心を高揚させる効果があった。何より鎧で包んでしまえば母に折られた脚も見た目には分からなくなる。

 叔父が用意した()()――王宮のそれと比べれば甚だみすぼらしく座りづらいだけの椅子に過ぎないが――にいれば、彼でも一見では並の男のように見せかけることができるのだ。


「ティグリス殿下――陛下が立たれるのを心待ちにしておりました」

「ファルカスもリカードも、思い上がった者どもの息の根を止めてご覧にいれましょう」


 眼前に跪いた者たちを見下ろして、ティグリスはただ静かに微笑んだ。


「そなたたちの忠誠に感謝を。勝利の暁には必ず正しく報いよう」

「ありがたきお言葉です」


 相手が俯いた陰で浮かべているであろう嘲笑も、彼自身に忠誠が向けられるはずもないという事実にも気付かないふりで。

 奇特にも彼につくことを選んだ者たちには、それぞれの理由がある。叔父のハルミンツ侯爵のように、先王の逝去後、不当に権力を奪われたと信じている者。兄王とティゼンハロム侯の支配下では権力が握れないと考えている者。あえて分の悪い方に賭けて、勝った場合に儲けようという者もいる。いずれにしても、ティグリスが王に相応しいなどと考えている者はいまい。全て、打算の結果の選択だろう。

 玉座のようなものに据えて叔父を傍らに従えたとしても、兄とティゼンハロム侯爵に比べれば彼らの格は遥かに劣るのだ。


 だが、彼としても頭にあるのは兄王に彼の存在をまともに見て欲しいということだけ。幼い頃から憧れていたのに、ティグリスがあの人に目を留められることはついになかった。側妃腹ゆえに自身の立場を慮り、厄介な母の勘気を被ることを避けたのだろうが……そう思うと母が一層憎らしい。

 寝台に縛り付けられ、脚を萎えさせようと懸命な母たちと過ごす日々の中、兄の活躍を聞くことだけが彼の楽しみだった。戦場で軍を率い、馬を駆り剣を振るって敵を討つ。彼には最早不可能なことであればこそ、兄が王として名を馳せるのを我がことのように喜べた。


 だが、成長して叔父の子らなどが訓練に励むのを見るにつけ、憧れはどこか歪んでいった。他の者たちは兄に従うか歯向かうかして共に戦う機会を得られる。敵としてでも味方としてでも良い、兄に認めてもらえるのはどれほどの喜びだろう。しかし、不具の脚のゆえに彼の夢は決して叶わないのだ。昨年兄の執務室を訪ねた時のことからも分かる。ティグリスを一人前の敵として扱うことは、兄にとってはいっそ恥なのだ。


 だから彼は乱を起こすことにした。彼自身が見てもらえないなら、叔父たちを巻き込もうと考えたのだ。国を揺るがす内乱となれば、さすがに兄も彼の相手をしない訳にはいかないだろう。

 言われるままに反乱の盟主を演じているのも、叔父のためでも味方の諸侯のためでもない。あえて言うなら兄のため、ということになるだろうか。


 ――誠意がないのはお互い様だな。


 王として見られていないティグリスも、形だけ膝をついて見せる者たちを臣下などとは考えていない。兄に挑むため、その体裁を保つための数合わせに過ぎない連中だ。彼を利用するつもりが逆に利用されているなど――いっそ可愛らしくて、笑えてきてしまう。


 ()()()()イシュテン王を名乗って兄に反旗を翻して以来、ティグリスは連日のように彼への支持を表明した諸侯を受け入れている。これまで側妃も取らずティゼンハロム侯爵に権力を握られていた兄の治世の下では、現状に不満を持つ者も多かったのだ。彼はその捌け口を買って出ただけ――国を揺るがす内乱の割に、内情は何ともお粗末なことだとは思う。


「今日来た者はあれで終わりか? そろそろ出揃っただろうか」

「は。それと()()をお待ちしている者どもが――」


 叔父に言い含められているのか、大仰な物言いをする従者が囁いた名に、ティグリスは軽く頷いて人払いを命じた。


 従者が告げたのは、ブレンクラーレの間者たちの来訪だったのだ。




 ブレンクラーレからの客は、イシュテンの諸侯と同じようにティグリスの前に跪いた。しかしその表情がより真摯なものに見えたのは、彼の反乱の成功は彼らの祖国の安寧に関わるからだろうか。基盤が弱く他国を攻める余裕のないイシュテン王の存在を、心から望んでいるからだろうか。

 ある意味敵であるはずの隣国の者たちこそが、彼の勝利を最も強く望んでいるのかもしれなかった。


「摂政陛下のご厚意には感謝している。私の要請を快く受け入れてくださるとは」

「決して、快くではございませんでしたが――殿下の御為(おんため)には重畳と存じます」


 代表して答えた者の声も表情もどこか苦々しく不機嫌を滲ませていたので、ティグリスは穏やかに苦笑した。


 助力を受ける立場を弁えず、彼は摂政陛下アンネミーケに強気で援軍を要請していた。それ自体も図々しいのだろうが、兵を使って為そうとしている策も正道から程遠く、快く頷かれることがないのは承知の上で。間者たちには再三忠告されたし、事実彼女は気分を害したそうだが、しかし実際には彼の策を呑んでくれた。それだけ期待されているということなのか、あるいは――


 ――あれほどの女傑でも引き際を誤るということもあるのかな。


 母が盾になって彼に知らせなかった時期も含めると、摂政陛下は数年前からティグリスの存在に目をつけていたらしい。イシュテンの国内でも忘れていた者も多かっただろうに、目ざといことだ。

 しかし、掛けた時間と手間暇のゆえに、不満を持ちながら分の悪さを知りながら引き返せないのだとしたら、狡猾と名高い王妃らしくないことだ。策略を巡らせたつもりが、結局は痛手を負うことになるのではないか。まあ、ティグリスが気にすることではないが。


「それでは、そなたたちは私の命令に従って動くということで良いのだな?」

「は。殿下の勝利をこそ、摂政陛下は望んでおられますゆえ」


 重々しく頷いてみせたのも一瞬のこと、間者どもはすぐに不安げな――あるいは忠告めいた賢しげな表情を見せた。


「――殿下はよほど策にご自信があるご様子ですが――ですが、本当にファルカス王は予想通りの動きをするのでしょうか? 戦いの場を、こちらに選ばせてくれるのでしょうか?」

「ブレンクラーレの者はイシュテンの王を知らないのだな」


 確かに彼の策は、兄が彼に付き合ってくれる前提があってこそ、予想と外れた進路で攻められては何の意味もなくなる類のものだ。しかし、だからこそ間者の問いは愚問だった。外国の者がすぐに思いつく程度の疑問など、彼は既に吟味しつくしているというのに。


 ――そんなに頼りなく見えるのかな。


 この期に及んでの過剰な懸念にいっそ苦笑しながら、ティグリスは丁寧に説明してやることにした。


「兄上は真っ直ぐに私を目指すしかないのだ。たとえ内心は罠を疑っておられたとしても。これはただの内乱ではなく、王位継承権を持つ者が起こした乱、現王への挑戦なのだから。正面から受けねば王の資質への疑いを招くことになるだろう」

「ですが、進路も予想通りとは限りますまい? 恐れながら、マズルークが退けられた際のことはお聞き及びでしょうか?」

「さすがに耳聡い。あれは、全くお見事だった」


 ブレンクラーレの諜報力と、兄の英断と。双方への賞賛を込めてつぶやくと、横で叔父が咳払いした。敵を褒めてどうする、と言いたいのだろう。横目で微笑んで宥めててから、ティグリスはまだ疑念を拭いきれない様子の間者へ向き直った。


「兄上がまた水路を使うかと考えているのか。だがそれもあり得ない――それもブレンクラーレとは事情が異なるところだな」

「戦馬の神は地を駆けぬ王を加護されぬと?」


 ブレンクラーレの者がイシュテンの本質を捉えた発言をしたので、ティグリスは微笑んだ。出来の良い生徒を褒める教師の気分だった。彼の言葉に真面目に耳を傾けるものは、これまで非常に少なかったから、中々に悪くない気分だ。


「それもある。しかし第一には、ハルミンツ侯爵家が提出した地図など信用されていないのだ」

「は……?」


 狡猾で抜け目無いのであろう間者が目を丸くして絶句したので、ティグリスは――そして珍しく叔父も――声を立てて笑った。イシュテン人ふたりで代わる代わる異国の者に説いてやる。


「先の件で使われた水路が通るのは、いずれも比較的小規模な領主の土地だ。即ち王に対して隠し事をするのは難しい」

「だが我が侯爵領ともなれば話は違う。王といえども歴代のハルミンツ侯には遠慮があった。詳細な地図など渡してはおらぬ」


 自領を語る叔父は自慢げに胸を反らしていた。ハルミンツ侯爵としてはともかく、イシュテンの規模で見れば自国の恥を晒すことでもあるのだが、まったく気付いていないのだろうか。


「――とはいえブレンクラーレと争う際にはハルミンツ侯領は軍の通過を受け入れてきた。無論それなりの便宜や代償と引換だったが」

「……つまり王家が安心して通れるのは、我が国(ブレンクラーレ)を攻めた際の記録がある行路のみ、ということでしょうか」

「そういうことだ」


 さすがに摂政陛下から信を受けた者は物分りが早く、ティグリスはまた教師の気分を味わって微笑んだ。イシュテンとブレンクラーレの間の数々の逸話を思い出したのか、わずかに顔を顰めているのも愉快だった。


「だから兄上は私が思った通りの道筋で進軍し、私が思った通りの方向から予定した戦場に現れる。そこさえ理解できれば心配はあるまい?」


 ここへきて反論の種も尽きたのか、間者たちは渋々といった表情ながら改めて頭を垂れた。


「ファルカス王は殿下と我が国の同盟を知りませぬ。殿下の策通りにことが進めば勝利は確かなものと――今からお祝いを申し上げます」

「そうだな」


 ――兄上は多分ご存知だろうが。


 ティグリスは内心の呟きを隠して、ただ笑って頷いた。


 面倒だし、ついでにその方が面白そうだから、彼は兄とミリアールトの正しい関係を摂政陛下には伏せている。一方的に、そして力づくで従えるのではなく、王と女王の合意の上での同盟ではないか、と。マズルークを退けた際に水路で兵馬を運ぶという献策をしたのは、あのミリアールトの老将だったと言う。兄とその将の仲立ちをしたのはクリャースタ妃に違いなく、それほど近しい関係を築いたならば彼の叛意が伏せられたままということもないだろう。

 しかし、その予想はティグリスを怯ませはしない。むしろ、あの姫君に感謝したいとすら思っているほどだ。


 ――兄上は私と本気で戦ってくださる。


 兄は、今頃彼の頭の裡を探ろうと必死だろう。ブレンクラーレの支援をどのように使う気なのか、どのような策を巡らせているのか――ティグリスの考えを、推し量ろうとしてくれているだろう。そう思うと嬉しかった。

 負けを覚悟で自棄のように挙兵したなどと思われたら屈辱だ。王として、どの道兄は直接彼を相手しなければならないのだろうが――どうせなら、恋するように全霊で思って欲しいものだった。


「――時に」

「まだ、何か?」


 眼下から不意に声を掛けられ、甘い幻想から引き戻されて。ティグリスは不機嫌な声を出した。


「ミリアールトの側妃はまだご存命なのでしょうか」

「クリャースタ・メーシェ様か。御子ともども儚くなったとは聞いていないが」


 だが、乱が動き出した以上、そうなっていたとしても兄は公には伏せるだろう。兄の後継足り得るのが幼い王女だけに戻ったなどと、王側についた諸侯の士気にも関わるだろうから。

 気のない答えに、発言した者は更に問いを重ねてきた。


「クリャースタ・メーシェ?」

「今はそのように呼ばれている。……ミリアールト風の婚家名を許すとは、兄上もあの方をよほど寵愛されているようだ」


 と、半ば独り言のように呟いてから、ティグリスはふと気付くことがあって跪くブレンクラーレの者たちを改めて見渡した。発言したのが誰かは気に留めていなかったが、どうも聞きなれない発音に思えたのだ。


 ――あんな声の男がいたか……?


 何度か会ったはずの間者たちは、いずれも流暢なイシュテン語を話していた。とはいえ多少は独特な抑揚があって、異国の者だと教えてきたものだ。だが、今発言した者はティグリスが比較的聞きなれたブレンクラーレの訛りとはまた違った抑揚を持っていたのだ。

 許しを得ずに発言した無礼者の姿を求めて視線を巡らせると、代表格の男が執り成すように――やや言い訳がましく――苦笑した。


「摂政陛下はミリアールトの姫君をお気に掛けていらっしゃいました。何しろ王太子殿下の婚約者候補でもいらっしゃったので」

「それに大変美しい方だからな」


 ティグリスは代表の者に視線を戻すと頷いた。思い出しているのは、昨年イシュテンを訪れた際のマクシミリアン王子の言動。そして歓待の宴を盗み聞いた時に側にいた金の髪の姫君の姿だ。

 緊張と不安に顔を強ばらせ、時に不信や苛立ちを隠すことができなかったシャスティエ姫だが、それらの表情ですら雪の女王に喩えられるのがもっともだと思えるほどに美しかった。母である摂政陛下が、というよりもマクシミリアン王子がいまだにあの姫に執着していても、王太子の軽薄な性格を併せて考えれば不思議ではないと思えた。


「しかし今のあの方のお立場を考えれば、お返しすることはできないだろう。そこは、摂政陛下にもご理解いただいていると思っていたが」

「それはもう。お気の毒とは存じますが、致し方ないことでございましょうな」


 全く悼んではいない口調と表情で、間者の長は恭しく頭を垂れて見せた。言葉には躊躇いがないが、どこか早口だとも思う。まるでこの話題が続くのを好まないとでも言いたげで、その慌てた様子はティグリスには少々可笑しく映った。


 ――王太子だけがまだ我が儘を言って聞き分けていない、といったところか……?


「摂政陛下はさすがにものが分かっていらっしゃる。さて、そなたたちも――」


 とにかく、ミリアールトの姫については、仮に生き延びさせることができたとしても彼のものにするのだと決めている。この上語ったところで無駄だろう。ティグリスは話を打ち切ったと見せつけるため、強く命じる口調を作った。


「なすべきことは、分かってくれているな?」

「は。ティグリス殿下の策を、現実のものといたします。そのために全霊を尽くせ、と――摂政陛下のご命令でもございますから」

「ならば良い」


 ティグリスは満足して頷くと、薄く笑った。彼の名――(ティグリス)のごとく、獰猛な笑みになっていれば良い。兄に、剣や馬術の技量では遠く及ばないとしても、気迫ならば迫ることができるはずだった。


「兄上にイシュテンの弱さを教えて差し上げるのだ」

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