躊躇 シャスティエ
与えられた部屋の窓辺で、シャスティエは机に向かっていた。
自室、とは言わない。仮にも王宮の一角だから調度品の質は良いものの、シャスティエの趣味で揃えた、子供の頃からの思い出がつまったミリアールトの王宮あの部屋とは断じて違う。
窓の外に目を向ければ、秋を迎えて赤や黄色に色づき始めた木々が見える。これも、冬になっても常緑の尖った葉の木が多かった故郷の風景とは異なる趣だ。
とりとめのないことを考えながら手元に視線を落とすと、まっさらな紙がある。彼女は手紙の文面を考えている最中だったのだ。とはいえ、送り先は故郷の叔母や、知己の貴族などではない。ミリアールトの者とのやり取りを許すほどファルカス王は甘くなかった。多分、ミリアールト語を解する者がイシュテンにはごく少ないのだ。だから、手紙を受け取るのはイシュテン国内の者、それも、顔も知らない相手だった。
先日、アンドラーシとまた会った。律儀にも以前頼んだ本を持ってきたのだ。相変わらず何を企んでいるのか、単に暇なのか良くわからない男ではある。とはいえ時間を潰せるもの持ってきてくれたのには感謝しなくてはなるまい。
そして、彼が携えてきたのは本だけではなかった。実際に本を取り寄せるために尽力した人物、文書院の長とやらの手紙も一緒に渡された。
イシュテンでは本当に文が軽んじられているらしい。理解者が現れて嬉しくてたまらない、とばかりに届いた書物に関する彼の解釈や注釈が長文でしたためられていた。
ここまでしてもらったからには返信を差し上げなければ、と筆をとった次第だった。
手紙も本もちゃんと読んだことを伝えつつ、多少は気の利いたことを書いておきたい。紙はいくらでももらえるという訳ではないから、書き損じのないように、足りなくなることのないように。かといって余白がありすぎるのもみっともない。
満足のいくものを書こうと思うと、なかなかに時間も頭も使う仕事となった。
――難しいわ。何しろ会ったこともない方なのだから。
疲れを感じて振り返ると、侍女のイリーナが針仕事に精を出していた。色も素材も様々な上質な生地の端切れが広げられている。王妃から賜った衣装の手直しは大方終わったそうで、その名残だ。
「それ、どうするの?」
問いかけるとイリーナは顔を上げた。一時の睡眠不足から解放されて鮮やかな若草色の瞳に戻ったのは幸いなことだ。
「リボンや花飾りに仕立てて髪飾りやドレスの雰囲気を変えるのに使おうかと。
これなんかは、ビーズが豪華で綺麗なので首飾りのようにしても良いかもしれません」
器用なことだと思う。
「私も何か作ってみようかしら」
「いえ、シャスティエ様にそんなことをさせるわけには。それに端切れも限りがありますし無駄にはできません」
気分転換になるかも、と思いついて言ったのに対し、イリーナはなぜか恐れおののいた表情をする。後半が本音なのは明らかで、シャスティエはひそかにむくれた。
――不器用だから手を出すなというならそう言えば良いじゃない……。
自分の腕前は自覚しているので口に出すような不毛なことはしないけれど。代わりに色とりどりの生地を眺めて目を細める。
「そこの深緑色のベルベット、秋らしくて良いわね。今度の狩りに着ていくのはその生地のドレスにしましょう。端切れはリボンにして髪に飾るわ」
「地味すぎではありませんか?」
「着飾る必要はないわ。どうせ見世物だもの」
「シャスティエ様……」
イリーナは悲しげに首を振った。衷心から心を痛めているとはわかっているが、哀れまれているようで微かに苛立つ。
わかっていたことではないか、と思う。彼女は人質として連れてこられた。意外にも待遇が良いのがむしろ異常で、本来どんな扱いを受けても文句は言えないのだ。衆目に晒されても、毅然とした振る舞いを通してやろう。その覚悟は、十分にしてあるのだから。
「別に気にしていないわ。それに、王妃様は良い方だし」
イリーナを宥めるためではなく、茶会で女たちから向けられる幼稚な敵意に傷つくことなど本当にない。どうやら彼女たちは知識でかなわないのを気にしているようだと察してからは、絶対に知らないであろう故事を引用して受け答えることで黙らせるような真似も覚えた。先の見えない日々の鬱憤晴らしのようなものとはいえ、どんどん性格が悪くなっていっているようで忸怩たる思いも、少しはあるけれど。
――結局、私には本の中の知識しかないのね……。
一方で、王妃のおおらかさはとどまることを知らない。貴婦人たちの皮肉にもシャスティエの意趣返しにも気づいていないようで、いつもにこやかにしている。それどころかシャスティエが何か言う度にすごいわ、と褒めてくれる。あまりにも邪気がないので、言われたら言われただけやりかえす自分の器の小ささが嫌になってしまうほど。
今回の狩りも、他の者の思惑はどうあれ王妃だけは純粋な好意から誘ってくれたのだろう。ずっと閉じ込めてしまってごめんなさいね、と言ったのは嘘ではないと思う。それさえも彼女のせいではないというのに。
だが、イリーナの意見は違うらしい。嫌そうに眉を寄せて訴えてくる。
「確かに善良なお人柄なのでしょうけど。でも、あの方はファルカス王の妻ですよ」
「……そうね」
シャスティエも顔をしかめた。夫は夫、妻は妻とは思うが、それぞれに対する感情に差がありすぎて気持ちの整理をつけるのが難しい。
「今度の狩りには王も来るとか」
「……そうね」
王妃が嬉しそうに語っていた。きっと彼女にとっては優しく慕わしいだけの男なのだろう。イシュテンの国王夫妻の仲はごく良好に見えるのが、またシャスティエには呑み込みづらい。
「大丈夫でしょうか?」
「何を心配しているの? 私は人質なのよ。無意味に危害を加えられることはないわ」
それはつまり、仇であるファルカス王に守られるということだから、シャスティエの心情としては全く大丈夫ではないが。しかしそのような怖気を、イリーナに対してであっても見せたくはない。例え無知でも無力でも、彼女は女王のはずだから。せめて矜持を保って泰然としたところを見せなければならないと思う。
王妃に引き合わされた時以来、王には会っていない。会いたいと思っているわけではないが、ただ無事に生きていれば良い、お前の心情など知らぬと言われているようで腹立たしい。
腹立たしいといえば先に会った時のアンドラーシだ。どういうわけかシャスティエが狩りに誘われたことを彼も知っていて、忠告めいたことを言ってきたのだ。慇懃を装った嫌味な調子が耳に蘇って、シャスティエは苛立ちに唇を噛んだ。
『貴女はただでさえとても目立つのだから、言動にはくれぐれも気をつけて。陛下のそばを離れず、守っていただくと良いでしょう』
見世物と自嘲してはいても、他人にはっきりそうと言われるのは屈辱だ。何より、あの男に守ってもらうなど、冗談にもならない質の悪い戯言だ。今も夢でうなされるほどシャスティエを苦しめているのはあの男だというのに。
あの冷たく厳しい青灰の瞳を思い出すと、自然と顔が強ばるのがわかる。
――怖いからではないわ。憎しみを忘れていないだけよ。
あの男には力では適わないと思い知らされた。心までも負けたのを、決して認めたくはなくてシャスティエはドレスの生地を強く握り締める。
「シャスティエ様……?」
心配そうなイリーナの声に、随分と長い間、黙り込んでいてしまったのに気付く。険しい顔を見せたくなくて、窓の方に顔を背けた。
「とにかく、私は大丈夫だから――」
すると、今思い描いたばかりの青灰の瞳と目が合ってぎょっとする。もちろん、その持ち主は王ではない。ふっくらとした頬。瞳に宿るのはあの男の冷酷さではなく煌く好奇心。
そこにいたのは――
「マリカ様」
イシュテンの王女だった。
シャスティエは呆然として、大きな目でこちらを見上げてくる子供を凝視する。
かつて王女のことを世継ぎと言ったのは失言だったが、国王夫妻のたった一人の子供であることは間違いないはず。供もつれずに一人でふらふらして良いわけがない。
「マリカ様? こんなところで何をなさっています? お母様がお探しでは?」
「北のお話、して?」
言葉を交わしながら状況を整理する。窓の外は庭園に面している。季節の花々を楽しむためか、すぐそとの露台には円卓と椅子があったはず。椅子を窓辺に引きずって来て、その上に背伸びしているということか。幼いというのに驚くべき行動力だ。
「それなら次に王妃様のお招きがあった時に。今はお戻りくださいな」
「今が良いの!」
シャスティエの言葉など何一つ届いていないらしい。にこにことしている王女に脱力する。
――子供は苦手よ。
大人の都合など知らないで、好き勝手に突拍子もない言動で振り回してくれる。それがあの男の娘となればなおのことどう接して良いかわからない。父親はいくら憎んでも飽き足らないのに、この子はあまりに可愛らしい。
――あの男の娘。あんな残酷な男でも自分の娘は可愛いものなのかしら?
少なくとも王妃は娘のことを溺愛している。いや、例え特別に愛しんでいることがなくても、マリカ王女は王家の血を次代につなげる唯一の存在。もしこの子に何かあれば、控えめに言っても困る……のではないだろうか。
自分の思いつきに戦慄する。それはあまりに卑劣で残酷なこと。でも、無為な日々に疲れた身にはひどく魅力的に思えてしまう。
「それでは、少しだけなら。物語などお話いたします。マリカ様、狐はお好きですか?」
かろうじて浮かべた笑顔は引きつっていただろう。それに声も震えていた。
だが、王女はそれ気づかないようで、満面の笑みでうなずいた。
「お父様が襟巻きをくださるって」
――ああ、そんなことは聞きたくないわ。
「そう、毛皮になってしまえば安心ですわね。でも、ご存知でしたか? 狐ってとてもずる賢い生き物なのですよ。――そのお話をして差し上げますね」
そうしてシャスティエはマリカを室内に招き入れた。
イリーナが驚いた顔でシャスティエと少女を見つめている。一体どういうおつもりですか、とその目線が問いかけてくる。そんなことはシャスティエ自身が知りたい。
戸惑う侍女の表情を無視して命じる。
「イリーナ。針と鋏をしまってちょうだい。危ないから」
王女に危害を加えるつもりはないと思ったのだろう。イリーナは安堵したようにうなずいて従った。反対に、シャスティエはお為ごかしに胸が悪くなりそうだ。王女を招き入れたのは邪な企みからだというのに。
「きれい……」
シャスティエとイリーナの間の微妙な空気には気づかないようで、マリカは色鮮やかな端切れの数々を見て感嘆の声を上げた。
「マリカ様、こういったものがお好きですか?」
「うん!」
慣れない物語を聞かせるよりも、モノで釣った方が簡単だろうか。
シャスティエは王女と同じ目線にかがむと無理やり笑顔を作った。
「お髪を触らせていただいてもよろしいでしょうか? ミリアールト風に結って差し上げましょう」
「ほんと!?」
王女は上機嫌で長椅子に腰掛け、床に届かない足をぷらぷらさせる。シャスティエは彼女の背後にまわると、結っていない黒髪を手にとった。どこをどう通ってきたのか、小枝や枯葉が絡むのを丁寧に取り除いて、梳く。
――王妃様と同じ髪ね。
色だけで言うならファルカスも黒髪だが、この長く豊かで艶やかな髪はやはり王妃譲りだと思う。一方で瞳の色は父親にそっくりなのだから子供は不思議だ。
「イリーナ」
「はいっ」
「リボンを持ってきて。青地に月と星のと、赤地に太陽と鳥の刺繍のものがあったでしょう」
「はいっ」
頼んだのは、祖国から持ってきたものの一つ。髪型のことは人に任せきりのシャスティエにできることなど限られているから、小道具に頼ることにする。絹地に青は銀糸、赤は金糸で刺繍したリボンは美しい品だし、ミリアールト風の刺繍は王女の目には新鮮に映るはずだ。
王女の髪を二つに分けて、それぞれ編み込んでおさげにする。白い項が覗くと、ほんの数ヶ月前に斬首に備えて髪を上げたことを思い出して胸が騒ぐ。子供の首筋はシャスティエの繊手よりもさらに細くて少しの力でたやすく折れそうだ。
「マリカ様、もう少し我慢していてくださいね?」
二本のリボンの両端をそれぞれ飾り結びにして輪にする。それを、冠のようにかぶせて、結び目がおさげにかかるように調節するとミリアールトの少女がよくする髪型が出来上がった。
「いかがでしょうか?」
王女に鏡を手渡すと、そこに映る自身の姿にご満悦でくすくすと笑い声を立てた。
「すごい。可愛い」
「……良かったですわね」
投げやりに呟いたのは傍観に徹していたイリーナだ。早くこの子供を追い返して欲しいと全身で語っている。それを依然無視して、シャスティエは王女に語りかける。慣れなのか開き直りなのか、自然な笑顔が作れるようになってきた。
「でも、首周りが寂しくなってしまいましたね。首飾りもお探ししましょう」
辺りを見渡して手にとったのは、先ほどイリーナが首飾りに、と言っていた布地。黒地に様々な色の糸とビーズで刺繍がほどこされている。赤と青も入っているから、頭に巻いたリボンと合わなくもないだろう。
「少し息苦しいかもしれませんが、我慢してくださいね」
どこかの国では貴人の処刑には流血を避けて絹の布帛で首を絞めるのだという。
頭の片隅で、そんな話を思い出した。
「まあ、マリカったら可愛くしてもらって!」
シャスティエに手を引かれた娘の姿を見て、ウィルヘルミナ王妃は大層喜んだ。
「リボンに興味をお持ちのご様子だったので……勝手なこととは存じましたが、申し訳ありません」
「なぜ謝ることがあるの? マリカもこんなにご機嫌なのに。この結び方、後で教えていただいても良いかしら」
「はい。もちろん」
無邪気に喜ぶ王妃を見ていると、思いとどまって本当に良かったと思う。復讐はシャスティエにとって正当な感情。だからこそ、罪のない少女を手にかけたらその思いが汚されてしまうと思った。それに、母であるウィルヘルミナの笑顔が頭をよぎると、マリカの首にかけたリボンを絞めることはどうしてもできなかった。
親としては迂闊だし王妃としては幼いのだろうが、この人の人柄が結果として娘を救ったのだろう。
娘の髪型を楽しげに吟味していた王妃が、首周りを彩る生地に目を留めて首をかしげた。
「この首飾り、前にもつけていらしたことがあった? 見覚えがあるような……」
「……失礼ながら王妃様からいただいたドレスに鋏をいれさせていただきました。
その、私の方が背が低いものですから、申し訳ありません」
貰い物を切り刻んだと打ち明けるのは流石に気がとがめたが、王妃は初めて思い至ったというように眉を下げた。
「ああ、面倒をかけてしまったのね。私こそごめんなさい」
「いえ、侍女は針仕事が得意ですので。素晴らしいお品ばかりで喜んでおりました」
イリーナが聞いたら一言どころではなく物申すことがあるだろうが。
ちなみにこの間、王妃の侍女たちは刺のある目でシャスティエを睨んでいる。王女を野放しにするのが危険だと、今更ながら気づいたのだろうか。
――気づいていて欲しいわ。私が二度と変な気を起こさないように。
シャスティエの言葉に王妃は安堵したようだった。
「それなら良かった。――でもリボンはシャスティエ様のものよね。綺麗にしてお返しするわ」
「いいえ、差し上げますわ」
考えるより先に口が動いていた。
シャスティエは微笑んだ。イリーナ以外に冷笑ではない表情を見せるのは久しぶりだ。しかも、自分の顔は冷たい印象を与えるらしい。作った笑顔に見えないかと、少し心配だった。
「でも」
「たいへん良くしていただいていますから。お礼、と――私などが申し上げるのもおこがましいですが」
今度はもう少し自然に笑えたと思う。王妃もでは、と言って微笑みを返してくれた。
それでは次は狩りの時に、と述べて王妃の前を辞したシャスティエの足取りは軽い。
いただいた厚意に、厚意で応える。そんな当たり前のことが久しぶりにできた気がする。彼女だって誰彼構わず高慢に接するわけではないのだ。
――王妃様は本当に優しい方。
人質に対し親切にするのは多少できた貴婦人なら当然のこと。しかし、侮りや不快な同情を感じさせずに純粋な善意でもって遇することができる人はどれだけいるのだろう。
イリーナには大丈夫だと言ったが、狩りの場で好奇の目に晒されるのは屈辱だし、ファルカスの顔など二度と見たくない。
それでも、あの優しい人が喜ぶのなら。一時見世物にされるのに耐えようではないか。
初秋の爽やかな風に髪を揺らしながら、シャスティエはそんなことを思った。
2015/11/8一部表現を修正しました。