(99)真理の望み
仁樹が入院して行う骨髄採取手術は、麻酔をかけて腸骨に針を刺し、一〇〇〇ccの骨髄液を採取する。
麻酔を用いる関係で一泊の入院が必要になるが、ドナー側の経験者曰くちょっと大掛かりな献血のようなものらしい。
ただし、既に移植を受ける真理は癌細胞を根絶させるため多量の抗がん剤投与と放射線照射を受けていて、万が一ドナーからの採取が行われなかった場合、死亡する。
仁樹はそれを恐れ、フェラーリに乗ることを恐れた。そして役割を終えたかのようにフェラーリのボディは死んだ。
以前にも移植のドナーになった事のある仁樹は、特に気負うこともなく採取を終え、真理に移植されることになる骨髄液を主治医だけでなく自らの目で確かめ、真理への移植手術が終わるまで待合室で立ち会うことにした。
真理への移植手術が開始される。部分麻酔がかけられ、仁樹から採取した骨髄液が注入されようとした時、真理は執刀を行う主治医に訴えた
「仁樹さんとお話をさせてください」
万全の体制を整えていてもなおリスクの存在する移植手術。それが最期になる可能性は確実に存在する。真理と仁樹を旧くから知る主治医は、真理に院内電話を渡した。
主治医の指示で待合室に居る仁樹に、看護師が院内電話を手渡す。仁樹が手に取った電話から、真理の声が流れてきた。
「仁樹さん」
仁樹は平静な声で応対した。
「順調なようですね」
真理は副作用の辛さを感じさせぬ、毅然とした声で本題をぶつけた。
「舞とまるから聞きました」
あの二人が姉に相談するような話。仁樹の事。真理の言っている意味は一つ、フェラーリについて。
「考えて決めたことです」
真理の声が少し詰まる。
「私のためでしょうか?」
真理への移植の日のためにフェラーリに乗らずに居た仁樹は答えた。
「そのためです。しかしそれだけではありません。俺がフェラーリに乗り続ければ、真理さんだけでなく皆を不幸にします」
辛い治療の間も気丈だった真理の声が詰まる。
「私はそんな事を望んでいません。仁樹さんがフェラーリに乗らなくなるなんて。そんな仁樹さんを望んではいません」
仁樹は舞やまるの前では見せたことの無い弱音を吐いた。
「俺はもうフェラーリに乗れません。あのフェラーリに乗る限り、誰かを乗せるたび、誰かを置いていかなくてはいけない」
真理の声に、歯をくいしばるような音が混じった。真理ははっきりとした口調で言った。
「仁樹さん、わたしの命を賭してお願いします。フェラーリに乗り続けてください。いいと言って頂けないのなら、仁樹さんの骨髄をわたしの身に受け入れることを拒否します」
仁樹の声が悲痛を帯びたものになる。
「やめてください。真理さんの命を救えないのでは、俺が生きていた意味は何も無くなります」
手術室が騒がしくなっていくのが聞こえてきた。真理が自らに繋がったチューブを何本か引きちぎれば、移植手術は失敗する。
「約束して頂けますか?」
仁樹は少しの間、答えに窮したが、やがてはっきりした口調で真理に告げた。
「俺に出来る限りのことをします」
真理は自らの苦痛の中、仁樹に出来るだけ安らぎを与えるように言った。真理が幼い頃、同じ病で死んだ真理の母もそうだった。
「仁樹さんを信じています」
電話は切れた。その後、手術は終了した。主治医によれば順調だそうだが、仁樹は真理の精神状態を不安定にするという判断で帰宅させられた。
電車とバスを乗り継ぎ、仁樹は自宅へと帰った。
フェラーリが停めてあるガレージを素通りし、二階の玄関から三階のリビングに上がってくる。
既に病院から知らせを受けた舞とまるが仁樹の帰りを待っていた。夕食は骨髄液採取後の仁樹を気遣ったのか、この二人にはまだ大味な料理しかできないのか、不器用ながらボリュームはたっぷりのレバニラ炒め。
仁樹と舞とまるは夕飯を囲み。いつもより多く喋った。誰もフェラーリの話題は出さなかった。このまま順調に真理の治療が進めば、一ヶ月ほどで退院して、三姉妹と仁樹が共に暮らせる。舞もまるもそれを楽しみにしていた。
翌朝、仁樹はフェラーリと共に姿を消していた。




