(98)入院
舞とまる、そして仁樹は、朝食を終えた。
最初は真理の不在の間、三人が交代で作ることになっていた朝食は、舞の危なっかしい手つきやまるの手抜き料理を見ていた仁樹が「俺が作る」の一言で引き受けているうちに、週の半分以上は仁樹が作るようになっていた。
夕食も殆どは仁樹が作っている。フェラーリに乗り続けている間に何度も繰り返したイタリアとの往復や、イタリア資本企業との繋がりが生まれたことで、作る料理もイタリア風。仁樹は女の好みに合わせる男のように、フェラーリを生んでくれた国の料理と風土を好んでいた。
今朝も仁樹が作ったサラダパスタを三人で平らげた後、役立たず扱いされるのが気に入らなかった舞が淹れたテオレというイタリア風ミルクティを飲んでいる。
猫舌の仁樹がお茶を飲んでいる間、まるが先週自転車で市内のリサイクルショップに行った時に見つけ、そのまま担いで帰って来た食器洗浄機に朝食の皿を入れる。
真理が不在の間に分担することとなった家事を出来るだけ少ない労力で片付けていたまるが、洗い物を怠けるため、それから画材を洗うために買ったものだったが、退院してからもしばらくは体を動かすことが制限される真理のためだと言い訳していた。
それに、白血病患者が移植後の再発で、生きて退院できない可能性は現代の医学と理想的なドナーを以ってしても、決して低くはない。
仁樹がお茶のカップを置くのに合わせたように、制服姿の舞が立ち上がる。続いて仁樹のカップを取り上げ、他の食器が入った洗浄機に放り込んでスイッチを入れるだけの洗い物仕事を終えたまるがキッチンから姿を現す。
「行くわよ」
舞の言葉に軽く頷いた仁樹は席を立った。そのままリビングを出る舞の後ろからついてくる。
以前こうやって一緒に出たのは、確か舞が仁樹にフェラーリで学校に送ってもらった時。あの時の仁樹は焦れる舞を気にする様子も無く、真理の淹れたお茶を悠々と飲み、自分勝手なタイミングでリビングのドアを開けた。舞はそんな仁樹に翻弄されながら、彼の後ろをついていったのを覚えている。
今の仁樹は、舞の背を追うように歩いている。急かすことも遅らせることもしない、存在感の無い男。
その後ろに居るまるは相変わらず騒がしい様子で、仁樹の背を叩きながら言った。
「お兄ちゃん今日もその服~?」
仁樹がフェラーリに乗る時に着ているグリーンの整備用ツナギ。
「おかしいかな」
舞の知る限り、仁樹が自分の行動に疑問を覚えたのは初めてだった。フェラーリに乗り、フェラーリのために生きてきた時には常に確信を以って行動していた仁樹が迷っている。
舞にはそれが仁樹に人間らしい感情が芽生えているというより、山野で生きていた獣が人に飼われ、その獣の習性に無い生活を無理にさせられているように見えた。
仁樹を見ることなく階段を下りた舞は、玄関で下駄箱から男物のように大きな自分の靴を出す。外見は高校指定の革靴だけどいざって時にはランニングやバイクの操縦が出来るコールハーンのゴム底ローファー。
それから仁樹のトレトンの布シューズを放り出す。仁樹がフェラーリに乗るために最善の靴として選んだデッキシューズは、最近はガレージだけでなく玄関にも何足か置かれていた。
靴を履いた仁樹は玄関横の鏡を見ている。布製のツナギにデッキシューズ。舞から見ればいつも通りの姿の仁樹は、自分のスキンヘッドを撫でていた。
仁樹を押しのけるようにまるが下駄箱に手を突っ込む。指定靴の校則など守る気の無いまるは、走るのにちょうどよく、自転車のペダルやトゥクリップとも相性がよく、何より色が気に入ったというナイキのオレンジ色のジョギングシューズを履いている。
三人で玄関を出て、舞がカードキーで戸締りした後、舞、仁樹、そしてまるは最寄りのバス停まで歩きだした。
舞に前から手を引かれ、まるに後ろから急かされるように歩く仁樹。フェラーリの速度に慣れすぎて人の歩くスピードに馴染めないのか、視線は定まらない。
バス停に着いてすぐにバスはやってくる。路線バスというものにどう乗ればいいのかさえわからない様子の仁樹を舞が引っ張り上げた。後ろから仁樹の背を押すまるが自分の定期を見せながら、仁樹の前払い料金を払った。
バスの中でも特に会話は無い。満席のバスでつり革に掴まる仁樹は、何とも落ち着かない様子だった。隣市の駅前まで行く路線バス。終点の幾つか手前で舞とまるの通う私立学園を経由するが、遠回りな道順を辿るため学校まで五十分ほどかかる。
舞は苛立ちまぎれに言った。
「あんたのフェラーリなら十分ちょっとで学校に着いてたとこね」
仁樹はその言葉に背を丸め、俯く。それから言った。
「あのフェラーリはもう走れない」
バスに乗るなり携帯をいじり始めたまるが、ついでといった感じで口を挟む。
「一人しか乗れないからねー」
舞が仁樹から聞いたフェラーリに乗れない幾つかの理由。ボディの劣化、フェラーリに耽溺することによる真理や舞、まるへの不誠実。そして人として不完全だった彼を補助するというフェラーリの役割が終わりつつある事。
まるはそれらの要素よりもっと重い、本当の理由を既に知っているかのように、仁樹を見た。責めるでもなく問いただすでもなく、仁樹は自分のためにどうしてくれるのかを楽しむような目。
その一人だけが座れるフェラーリのシートには、自分が選ばれることを知っていて、もしも自分以外の子を選ぶなら力ずくで勝ち取る顔。
舞は思った。もしも自分が仁樹のフェラーリに乗るただ一人の女になれたら嬉しいと思う。でも、もしもそれが真理やまる、あるいは知らない誰かだったりしたら、少なくとも自分は身を引くことも譲ることもしないだろう。それはきっと真理姉ぇも同じ。
騒がしい路線バスの中。二人の視線に射すくめられた仁樹は、首を振った。
「俺には選べない」
バスは学校前の停留所に着く。舞はバスを降りる前に仁樹に声をかけた。
「行き方わかる?電車には乗れるんでしょうね?」
仁樹は落ち着いた様子で頷く、それすら舞には無理をしているようにしか見えない。
まるは仁樹の手を確かめるように触りながら言った。
「帰ったら、またフェラーリに乗せてね」
仁樹のデリケートな話題にも遠慮なく踏み込んでくるまる。仁樹は黙って頷くような、俯くような仕草を見せた。
舞とまるはバスを降り、仁樹はそのままバスで終点の駅前に向かう。そこから電車に乗り換え、真理の入院している隣県の大学病院へと向かう。
仁樹は真理に移植する骨髄を採取するため、その日から入院した。




