(96)苦痛
舞には仁樹の言った言葉の意味がわからなかった。
今までフェラーリに乗ることこそ全てだった男が、フェラーリに乗れないと言っている。
仁樹は十数年前に三姉妹の父からフェラーリを譲り受け、この家のガレージでフェラーリと共に暮らし、フェラーリを維持するため雑誌記事執筆の仕事をこなしてきた。
そして彼は、今年から三姉妹と暮らし始め。末っ子のまるが仁樹と父娘であることが明かされた。
どんなに生活や環境が変わろうとも、仁樹は常にフェラーリに乗るためだけに生きてきた。
舞は仁樹に尋ねた。
「真理姉ぇの事?」
十数年を経て再発した白血病に冒され、現在も闘病中の真理。あと少ししたら仁樹の骨髄を移植することになっている。
仁樹は答えた。
「それは違う」
骨髄移植手術がドナーにも相応の肉体負担と数日間の入院生活が求められる。しかしそれは運転の機能に影響するものではない。
事実彼は十数年前、真理に骨髄を提供し、フェラーリを譲り受けた。仁樹や真理が否定したところで、舞から見れば父はフェラーリという報酬と引き換えに仁樹の骨髄を得た。舞が死んだ父を始めて憎んだ行為。
しばらくの沈黙の後、仁樹はフェラーリのドアを開けた、運転席に滑り込んでエンジンをかける。
いつもながら腹に響くフェラーリのエンジン音。人間の女に人並みの情操を持たぬ仁樹が恋した音。
フェラーリの運転席に座ったまま、仁樹は舞に言った。
「乗ってくれ」
少なくとも舞が覚えている限り、仁樹が何の理由もなく誰かをフェラーリに乗せた記憶は無い。少なくとも舞はいつも乗せることを要求する側だった。
普段なら一方的な物言いに反発の一つもしていたところだが、舞は大人しくフェラーリの前を回り、助手席に乗り込む。
運転席で黙って水温と油音、油圧のメーターを眺める仁樹の横で、舞はシートベルトを両肩に通す。最初は戸惑い、仁樹に締めて貰った競技用の四点式シートベルトも、今では自然に扱えるようになった。
電動シャッターが開き、日暮れの空が見える。仁樹は何も言わずフェラーリを発進させた。
仁樹の操縦はいつもと変わらないように見えた。
最初はフェラーリのコンディションを確認するようにゆっくり走らせ、それから徐々にスピードを上げていく。
初めて仁樹の操縦するフェラーリに乗った時は、山道で速度を上げていくフェラーリに恐怖を覚えたが、あれから何度かこの恐ろしく速いフェラーリに乗り、舞自身もバイクに乗るようになってからは、フェラーリがその本来の速度と性能を発揮するまでの過程を、自分でも理解できない高揚に似た気持ちと共に味わえるようになった。
夕方の混雑の中を赤いフェラーリは走る。周囲を走る車を次々と追い抜きながら幹線道路を十分ほど走り、フェラーリは東名高速道路に入る。
かつて修学旅行に遅れた舞を京都に送り届けるため通った道。舞は東名の神奈川西部から始まるワインディングロードを思い出し、両足を踏ん張った。
東名を西へと向かうフェラーリはすぐに丹沢、箱根の山道に達する。舞は仁樹の顔を盗み見た。仁樹はコーナーを通過するたび、微かに苦痛らしきものが窺える表情を浮かべていた。
以前この道を走った時は、仁樹は穏やかな顔をしていた。狂気じみたスピードの中で彼が見せた、普段は決して見られない満ち足りた表情を舞は僅かな嫉妬と共に覚えていた。
今の仁樹はまるでフェラーリに傷つけられているような顔をしている。東名高速の箱根から御殿場を過ぎ、曲がりくねった道が直線になっても仁樹の表情は辛そうなままだった。
静岡を横断したあたりで仁樹はフェラーリの速度を落とし、浜名湖のサービスエリアに滑り込ませた。
駐車スペースにフェラーリを停めた仁樹は、疲れ切った表情をしていた。舞はシートベルトを外し、助手席のドアを開ける。
「何か飲み物でも買ってくるわ」
仁樹の返事は無い。舞はフェラーリを降り、サービスエリアの売店へ向かう。とりあえずトイレを済ませてから、自販機が並ぶ中で自分の飲むコーラと、紙コップのコーヒーを買った。
舞がフェラーリに戻ると、仁樹はフェラーリから降りていた。
ついさっきガレージでそうしていたように、ずっとフェラーリを見ている。
どう話しかけたものか迷った舞は、自販機で買ってきた、仁樹がよく好んで飲んでいるエスプレッソを突きつけた。
「ほら、あんたのも買ってきてあげたわよ」
熱いエスプレッソを受け取った仁樹は、何も言わず口に運ぶ。
普段の彼は猫舌で、飲むのに時間がかかるが、熱さなど感じないかのようにエスプレッソを飲んでいる。舞は自分の口の中が火傷したような気分になった。
舞はここまでフェラーリでのドライブに付き合い、せっかくコーヒーを買ってきてやったのにお礼の一つも無い事に文句の一つも言おうと思った。本音としては何でもいいから、この重い沈黙を破る言葉が欲しかった。
舞が口を開きかけた時、仁樹は唐突に言った。
「このフェラーリはもう死んでいる」
舞もほんの少し気付いていた。家からここまでの彼の走り。いつもより荒っぽいようでいて、何かを確かめ、どこかを庇うような動き。フェラーリより仁樹の顔を見ていてわかった。
仁樹は腹の中に呑んだ苦痛を吐き出すように喋り続ける。
「エンジンじゃない、足回りじゃない、車体の強度が落ちている。金属疲労とクラックの蓄積。もうこのフェラーリが死につつあるんだ」
舞はコーラを一口飲もうとしてやめた。やっぱりコーヒーが飲みたくなったので仁樹の手から飲みかけのエスプレッソを取り上げる。替わりにコーラの缶を握らせた。仁樹は冷たいコーラを飲む。舞は熱いコーヒーに焼けた仁樹の口内が少しはマシになっただろうかと思った。
「少し、散歩しない?」
仁樹の返事を聞く前に、強引に手を引く。
舞は浜名湖サービスエリアに設けられた湖畔の公園へと仁樹を連れていった。




