(95)乗れない
真理の入院と治療が進む中、舞とまる、そして仁樹の暮らしは平穏に続いていた。
舞もまるも今までと変わることなく学校に行き、放課後のまるは最近入った美術部に入り浸っている。
相変わらず部活を決めかねていた舞は、どの部にも入らないことを決めた。
スポーツ系の部活から勧誘を受けながらも、趣味といえるものは文章書きくらいしか無い舞は文芸部を覗いたりしたが、実用とは程遠い文章をいじくり回す集団に興味を持てず、それなら実際に文章で報酬を得ている仁樹に習ったほうが手っ取り早いという結論に達した。
文章の書き方を教えて貰うといっても、フェラーリを維持するための仕事と割り切って出来るだけ効率的に雑誌記事を書き上げる仁樹の横について、あれこれと聞くぐらい。
仁樹はそれ以上の事は知らないし教えられないと言っていたが、自動車雑誌に新しい車やその部品、整備や自動車関係の近況を書く、情報の伝達を目的とした文章の書き方については得るものが多かった。
結局のところ、雑誌記事のような実用的な文章もまた、面白くなければ読んでは貰えないこと、面白おかしい文章もまた、自分で生み出せるものではなく、世に数多くある面白いと評価を受けた文章やその他のメディア、コンテンツから取り入れるものだという事。
面白くもつまらなくも無さそうな顔で、ユーモアに溢れた記事を書き上げる仁樹を見て、文章を金に換える方法は何となくわかった。
真理の白血病治療は進んでいた。
大きな苦痛の伴う治療にも真理は気丈だった。唯一人目を忍んで涙を流したのは、副作用として子供が産めなくなることを知った時。
翌日、学校帰りに見舞いに来た舞にそのことを告げたところ、舞は自分が買ったことになっている、実際には仁樹が選び、買ったニットキャップを滅菌済みの袋から出しながら言う。
「心配しなくてもあいつの子供ならわたしが産んであげるわよ」
横になっているのも辛そうな顔をしていた真理は、ベッドから起き上がって言った。
「い、医学は進歩するんです!今はそうでも未来はどうなるかわからないわ」
舞は真理の頭にニットキャップを被せながら言った。
「私はそんな気は無いんだけどね、真理姉ぇ早く戻ってこないと、私、あいつとどうなっちゃうかわかんないわよ」
真理はプイっと横を向きながら言う。
「もうすぐ私は、仁樹さんと決して切れることの無い絆で結ばれるんです」
白血病治療の中でも最も危険度の高い、真理の骨髄移植手術の日が近づいていた。
バスで学校から帰った舞は、いつも通り三階のリビングに通学カバンと上着を置いた。
真理が居た頃よりリビングが散らかるようになった。舞は出した物は片付けるほうだけど、真理の小言が無くなった途端まるがだらしなくなった。
今日もリビングの床には、まるの中学制服が脱ぎ捨てられていて、テーブルの上には学校帰りに買ったらしき画材が広げられていた。
当人のまるが居ないのは、帰ってすぐ自転車でどこかに出かけたか、それとも部屋で絵を描いているのか。
これじゃ真理が退院して家に帰って来た時に、巻き添えで自分まで怒られてしまう。それに仁樹とは、入院中の真理や時々の検査で不在になる仁樹に替わり、家を守ることを約束した。
舞は二階に降り、まるの部屋のドアを開けた。室内には誰も居ない。やっぱりどこかに出かけてしまったに違いない。
そこで舞は一つ思いつき、階段をもう1フロア降りた。一階には仁樹がフェラーリと共に暮らすガレージがある。
平日夕方のこの時間は、フェラーリで走り回っていることが多いが、最近は家に居て学校から帰ってきたまると話をしているところをよく見る。
舞は仁樹を捕まえ、まるの生活態度にきつく言ってもらおうとした。
他人には無関心ながらまるには甘いところのある仁樹に、まるを叱ることなんて出来るだろうかと思ったが、出来なきゃやらせるまで。
少し前に仁樹とまるの関係を知った時には、強い拒否感を抱いたが、今では仁樹とまるが父娘であることを受け入れつつあった。
十年以上離れていたとはいえ、二人のやりとりは血の繋がりを感じさせるものだったし、舞の心のどこかに、まるが仁樹の娘で居続ける限り、それ以上の仲には進展しないという安心感も芽生え始めていた。
一階に降り、鉄製のドアを開けると、中は照明が点いていた。真っ赤なフェラーリ288GTOは相変わらずガレージの中心に鎮座している。
フェラーリがガレージの中にあるなら、仁樹もどこかに居るはずとガレージ内を見回した舞は、すぐに彼の姿を見つけた。
仁樹はフェラーリの左側。ドライバーシートのすぐ横に座り込んでいた。
どうやら本当に出かける直前に間に合ったらしい。フェラーリのエンジンはかかっていないが、ドアは開けられている。
仁樹は車内を覗き込むようにしゃがみこんだまま動かない。舞は仁樹がフェラーリに乗る前に、よくこういう姿勢でロードクリアランス等、車体下部を目視点検していることは知っていた。
舞は仁樹の背後から近づき、肩を叩く。
「ちょっと用があるんだけど」
舞を振り向いた仁樹は、今までに無い表情を浮かべていた。
震える目線。力の無い表情。今までの彼には到底縁が無いと思われた、不安の感情が顕われている。
「乗れない」
舞は言っていることの意味がわからず聞き返す、仁樹は繰り返した。
「このフェラーリは、もう乗れない」




