(90)掌
骨髄移植の承諾書にサインしようとしていた仁樹は、自分の腕を押さえる舞を不思議そうに見返す。
普段から感情の窺えない彼にしては珍しく、焦れているような表情さえ覗かせている。
待つ時間の多い白血病治療。まだいつになるかもわからない移植手術の承諾と書類作成を、今の段階で急いでも意味は無かったが、それでも、仁樹は一緒に暮らした舞にだけわかるような微かな感情で、一刻も早く手術を進めようとしている。
横で二人のやりとりを見ていたまるが口を挟んだ。
「お兄ちゃん一人でさっさと決めていいの?」
舞がほんの少し感じ取っていた仁樹の焦りを、娘としての血の繋がりを持つまるは既に知っていた。
ついこの間、舞が相変わらず無表情で人間的な情緒に乏しい仁樹について愚痴を垂れたことがあった。真理はそんな仁樹さんが素敵だと言っていた。まるは一言「そんなことないよ」
まるによれば、仁樹は少なくとも学校の教室や街中で見かける他の男たちよりずっと感情的で、その表現も他者にわかりにくいかといえばそうでもないらしい。
舞とまるに見つめられた仁樹はペンを置き、二人を見返した。舞にはこの自分自身に必要なことしかしない男が、やみくもに突っ走っているように見えた。
さっきまで求めていた移植のサインを止めながら、何と言っていいのかわからない舞の横で、まるが仁樹に向かって言う。
「お兄ちゃん、それ、お兄ちゃんがどうにかなったりしないの?」
舞もその言葉で、自分自身の疑問が晴れた。
「あんたが真理姉ぇを助けるために、自分の命や生活を危なくするようなことは、わたしが許さない」
仁樹は何も答えず、横でやりとりを見守っていた主治医を見る。
三姉妹と仁樹を随分昔から見守っていた老医師は答えた。
「骨髄移植手術は、ドナーの生命に危機が及ぶ可能性は極めて低い。移植後も適切な処置と療養、経過観察を行えば後遺症もありません」
舞は自分の問いに直裁な答えを与えてくれた老医師に頭を下げる、その横でまるが仁樹に一歩近づいた。
「お兄ちゃんはどうなの?真理姉ぇのためなら自分はどうなってもいいとか思ってない?」
仁樹は僅かに目を見開いた。そこで初めて自分がしようとしている事が、いけない事、危ない事だという事実に気付いたような顔。
舞にも仁樹の感情がはっきり読み取れた。やっぱりまるの言う通り、仁樹は感情の無い機械なんかじゃない。
仁樹は舞とまるを見る。それから口を開いた。
それが他者をどんな気分にさせるものであろうと、発言を躊躇することを知らない仁樹が、言葉が見つからないかのように何も言わない。
まるは背伸びして手を伸ばし、仁樹の頬に当てた。
いつもなら他人に体を触れられるとあからさまに拒否を示す仁樹が、まるに触れられて僅かながら表情を緩めた、自分と同じ遺伝子を有する、とても小さななまるの手。
舞はまるの指が先端に向かって少し大きいヘラ状になっていることに気付いた。仁樹も同じ指だということは、肌に触れた感触で知っている。
自分の指を見る。仁樹やまるとは似ても似つかぬ、女子にしては大きい手とスマートな指、舞と真理の父親にそっくりな手。
仁樹は少しの間まるの掌を頬で感じていたが、そっとまるの手に触れ、自分の顔から離す。サイズが違うだけでほぼ同じ形の手。舞は自分の手を背中に隠し、両手の拳を握った。
仁樹は娘のまるに触れられ、心中に生じた感情の波が凪いだらしく、ゆっくりと話し始めた。
「俺は何としても真理さんを助ける。でも、それは真理さんのためじゃない」




