(87)宣告
朝食の準備中にキッチンで倒れた真理。呆然と立ち尽くす舞とまるを余所に、仁樹の動きは速かった。
彼には珍しい大きな声で真理を呼び、意識が無いのを確かめると、迷わず真理の体を抱き上げ、そのまま早足でリビングを横切る。
以前に何度か同じことをしたような仕草。仁樹は舞とまるが居ないかのように一瞥もせず、一言も発することもなく、腕で真理を抱きながらリビングのドアを開けようとしている。
まるが駆け寄ってドアノブを開けると、仁樹はそこで初めて二人の存在を知ったかのように、真理を心配そうに見つめる舞とまるに視線を向ける。
素早い体の動きに反して、普段と変わりないように見える無機質な目で二人を見た仁樹は言った。
「真理さんを病院に連れて行く。台所の火を止めておけ」
仁樹の言葉より、その眼差しを見て舞は思い出した。仁樹と暮らし始めて間もない頃に真理から聞いた話。仁樹は以前、舞やまるが生まれるより前に、こうやって幼い真理を病院に連れて行っていた事を。
あれから時が経ち、幼い頃の病を克服し成長した真理の体を抱えている仁樹の目は、舞が写真の中で知っている十代の頃の仁樹の瞳だった。
まるは仁樹に言われた通り台所に入り、ガスコンロの火が倒れる前の真理によって止められていることを確かめる。フライパンの中には、まだ生焼けのオムレツが残っていた。
舞が仁樹のシャツを掴みながら言う。
「救急車を呼ぶわよ!」
仁樹は舞を見て返答した。
「それでは遅い」
あのフェラーリで連れて行く積もりか、そう思った舞はリビングにあったバイクのキーを掴み、階段を下りる仁樹の後を追いながら言った。
「わたしも行くわ」
早足で階段を下りていた仁樹は、舞を振り向きもせず返答した。
「駄目だ。家に居ろ」
それだけ言うと、仁樹は一階まで降りてガレージに通じるドアを蹴り開け、フェラーリに歩み寄る。
仁樹の後ろからついてきた舞は、仁樹の言葉を無視して自分のRC30のエンジンをかけ、ガレージに置いているヘルメットとブーツを掴み取った。
いつのまにか舞の後を追ってきていたまるがフェラーリに駆け寄り、仁樹の替わりに助手席のドアを開ける。仁樹は意識の無い真理をフェラーリの座席にそっと座らせ、シートベルトをかけると、フェラーリの前を回って運転席に飛び込む、エンジンをかけ、普段は決して欠かさない暖気運転の替わりにアクセルを空ぶかしし、オイルを強制的に循環させる。
閉所では耳をつんざくようなフェラーリの排気音がガレージに響く中で、舞は動じることなくガレージに架けてあった仁樹の整備用ツナギを制服の上に素早く身につけ、ヘルメットとブーツを装着している。
何度かの空ぶかしをしたフェラーリがタイヤを鳴らし、電動シャッターの下端にルーフを擦るようにして飛び出していく。舞がフェラーリの後を追うべくRC30を発進させようとすると、マウンテンバイク用のヘルメットを被ったまるがバイクに飛び乗ってくる。
引きずり下ろす時間は無い。舞のRC30は後ろまるを乗せたまま走り出した。
舞のRC30はすぐに仁樹のフェラーリに振り切られたが、舞には行き先がわかっていた。
三姉妹が暮らす東京都下と、ついこないだまで住んでいた静岡西部の中間あたり、神奈川にある大学病院。
真理が幼い頃、仁樹の送迎で何度も通院と入院を繰り返し、舞やまるが生まれてからも、定期健診で何度か行った場所。
その頃には自分でバスに乗って病院に通えるようになっていた真理が、再び倒れた。
舞とまるが病院に着くと、探すまでもなく救急入り口の近くに仁樹のフェラーリが停まっていた。
病院に駆け込み、受付で所在を聞いた舞とまるは、真理が診察を受けているという処置室に向かった。
真理が幼い頃に主治医を務めた医師は、今も変わらず同じ大学病院に勤務していた。老いた医師から二人は最も聞きたくないことを聞かされる。
真理の病状は、かつて三姉妹の母の命を奪い、幼い真理が侵されながらも克服したはずの病気。
白血病だった。




