(83)タイヤ
今日もいつも通り、フェラーリで走りに行った仁樹が帰って来た。
フェラーリGTOでただ走り回る行為は彼にとって生活の一部のようなもの。それが仕事なら随分と激務になるであろう時間を、フェラーリでの走行と整備に費やしている。
彼にとってフェラーリを維持する金銭を得て、そのついでに日々の糧を得る仕事は、フェラーリで散々走り回った後に彼の自宅であるガレージで行う、一日一時間少々の雑誌記事執筆。
最近はそれに幾つかの日課が加わった。仁樹が帰ってくると、末っ子のまるが真っ先に一階ガレージまでの階段を駆け下りてくる。
「お兄ちゃん来て!今日は羽田の旋廻橋を描いたんだよ!」
幼い頃から絵を描くことが好きで、中学の美術部では顧問教師の指導を無視して細密な風景画のみを描き続けているまるは、最近東京のあちこちにあるトマソンと呼ばれる何の役に立っているのかわからない建築物に興味を持ち、あちこちに出かけてはデッサンや写真を持ち帰って部屋で描いている。
今日は羽田の海老取川の河口にある、日本でも珍しい旋廻構造の橋を描き、撮りに行ったらしい。この橋も作られてから数年で廃道になったことからトマソンの同類と呼ばれている。
以前は誰に見せるでもなくただ描き続け、描き溜めていた絵を、まるは仁樹と一緒に暮らすようになってから積極的に見せるようになった。
仁樹も絵がわからないながらまるの絵を見ては自分なりの感想を述べ、何枚かの絵には特に興味を持ち、彼が仕事をしている雑誌社に見せに行っているらしい。
舞はまるに手を引かれながら階段を昇る仁樹と擦れ違った。舞も一応仁樹への用と呼べるものはあった。舞が最近乗り始めたバイク、RC30のタイヤが少し変な感触を伝えてくるようになった。
最近はバイク用品店にも行くようになった舞は、そこの店員からそろそろタイヤ交換だと言われたが、繊細な交換作業の求められるマグネシウム製ホイールのタイヤ交換はそれなりに工賃がかかることも知らされた。タイヤも高性能バイクに相応なものは高価い。
ショップに頼んで金がかかることなら、仁樹にやらせようと思ったが、それに先駆けてまるが仁樹を自分の部屋に連れて行ってしまった。
父の遺産で暮らす三姉妹。後見人とともに遺産を管理する姉の真理からは、バイクや読書のような舞の趣味に関しては特に出費の制限は無い。
それでも舞は、RC30のタイヤは仁樹に替えてもらいたかった。見ず知らずの人間にバイクをいじらせる事には抵抗があったし、目の前で交換し、作業の一部を舞に手伝わせる仁樹のほうが幾らか安心感がある。
それに、こういう用でも無い限り仁樹が舞のために時間を使ってくれることは無い。
誰も居ないガレージに降りていった舞は、自分のRC30に歩み寄った。タイヤはバイクの整備などわからない舞が見た限り磨り減っているようには見えないが、ショップの店員によれば段減りと呼ばれる偏った磨耗をしていて、製造日時の古いタイヤは全体的に硬化し性能が落ちているらしい。
舞はタイヤに触れる。仁樹ならばすぐにコネのある部品屋からタイヤを取寄せ、あっという間に交換してくれるだろう。
舞は自分の体の一部ともいえるRC30を仁樹が弄る様を想像した。この体に仁樹が触れ、ホイールを外し、タイヤを引き剥がしていく姿。
そんなものを見たら自分の身につけているものを仁樹に脱がされたような気分になるだろう。無人のガレージで妄想を重ねた舞は、やっぱりRC30のタイヤは明日にでもショップで交換してもらおうと思った。
もうガレージ出ようと思い、その前に中を見回した舞の目に、ある物が映る。まるが仁樹から貰い、今日は電車と併用しつつ羽田まで乗っていった折り畳みマウンテンバイク、パラトルーパー。
元々は舞のバイク教習所通いのために仁樹がどこかから持って来た自転車。舞がRC30に乗るようになり自転車に乗らなくなってから、ずっとまるの専用自転車になっている。
まるの体型に合わせてサドルやハンドルを替えられたパラトルーパーには、真新しいタイヤが付いていた。
舞の知っている限りまるが仁樹に自転車のタイヤをおねだりした記憶は無い。仁樹のほうから気を利かせて替えてあげたということだろうか。
父親の仁樹が、娘のまるに。
舞は少し乱暴にガレージの階段を昇った。今からまるの部屋に行き、仁樹にRC30のタイヤ交換を要求することにした。
まるの自転車のタイヤは何も言わないうちに替えたのに、舞のバイクのタイヤが減っている事に対して何もしてくれない仁樹に腹が立った。
まると仁樹の間に父娘の関係があるというなら、自分だって仁樹とか、バイクとか文章の指導とか、とにかく色々な関係がある。




