(73)エグゾースト
曲がりくねった廃道の坂を昇ってくるのが、仁樹のフェラーリだということはすぐにわかった。
日本には数台しか無いフェラーリ288GTO、他のフェラーリはコレクターの元で大事に保管されていて、稀にサーキット走行に使われるだけだということを聞いたことがある。
坂の頂点に達したフェラーリは舞のRC30の横で停止した。細い廃道の中でもこの場所は車を転回させるに充分なスペースがある。
舞が窓越しに左側の席を覗き込むと、やはり乗っているのは仁樹。ついさっき夕食の時に着ていた緑色の整備用ツナギ姿。仁樹がこの格好でフェラーリに乗っていると、どこであろうと彼の自宅である三姉妹の暮らす家の一階ガレージに居るような気分になる。
サイドウインドが開き、仁樹がRC30に乗る舞を見た。舞のほうから話しかける。
「何しに来たのよ」
仁樹は相変わらず人形の義眼のような無機的な視線で舞を見つめながら、答えた。
「走りに来た」
まるで人生の目的がそれだけであるかのように、暇さえあればフェラーリで走りに行っている仁樹。自宅のこんな近くに人家も他車も無いワインディングロードがあれば、来てもおかしく無い。
閉鎖された廃道には地元の人間しか知らない入り口があって、舞もさっきそこを通ってこの道に入ってきた。
片側一車線の道路は車よりバイク向きの道幅だったが、他に車が居ない道は対向車線まで使える。フェラーリを走らせるのには充分なサイズだった。
坂の昇り下りを何度か楽しみ、もう帰ろうと思っていた舞は、仁樹に言った。
「私もそうよ、後から来て邪魔しないで」
仁樹の表情は変わらない。坂の上から見える夜景を一瞬眺めた後、答えた。
「今日はここを走ると決めている。誰が走っていても変わらない」
舞は今さらながら思い出した。この男はフェラーリで走る時間を何人たりとも邪魔させない。仁樹が無条件に従う真理さえも。ついさっき父親だということを知らされたまるもそうなんだろう。そして、この男は舞の母にまるを産ませ。十二年会いに来なかった。
「許さない」
舞の心の中に沸々と怒りの感情が湧いてきた。仁樹は舞の心を乱し。平穏な暮らしを奪った。そんな仁樹に対して無力だった舞には、恐ろしいまでのパワーを宿したバイクがある。
舞はRC30のスロットルを回し、エンジンを吹かしながら叫んだ。
「私はあんたを許さない。あんたがパパのフェラーリで走ることを許さない」
消音構造がほぼ無い競技規格のマフラーから吐き出されたホンダV4の、航空機のような音の中で舞が言ったことが、仁樹の耳に届いたのかどうかはわからない。仁樹は何も言わず、フェラーリのアクセルを吹かした。
複雑な管楽器のようなフェラーリのエンジン音が響き。タイヤの鳴る音とゴムの焼ける刺激性の匂い。同時に発した煙の中で、仁樹のフェラーリは舞のRC30を回りこむようにUターンした。
仁樹は一瞬、舞を見た後サイドウインドを閉じる。それからもう一度フェラーリのアクセルを踏みこんだ。
フェラーリが急発進するまでもなく、舞にはわかった。仁樹は舞のことなど構わず走る。それが気に入らないならフェラーリを追い抜いて、前に回って止めてみろという意志。
フェラーリより少し遅れて、舞はRC30をスタートさせた。
口中に広がる麻薬にも似た興奮物質の味と共に、全身が鋭敏になっていくのがわかる。




